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支流からの眺め

運の良いとは

 前のBlogでは、WBC優勝の要因として、選手の資質、選手の闘志とともに運の良さを挙げた。しかし、この言い方では、資質や闘志など比較的分かりやすい要因を除いた残りをまとめて、一言で「運」としている。「運も実力のうち」と言う通り、運は全くの偶然や無作為で決まるわけでない。とはいえ、特殊な透視能力や予知能力でもなかろう。つまり、運の良さはもう少し分析が可能で、その結果を利用すれば、強運を手にすることができるかもしれない。

 話を野球に絞ると、その戦力は選手個々人の資質や闘志だけでは決まらない。それらの力を内部の衝突で消耗させず、むしろ相互促進で単純加算以上に高めることが肝要である。それがリーダーの力量である。WBCに挑む監督の発言は、優勝を目指す以外の余計なことは言わず、目標設定が極めて明快であった(選手もそれに倣っていた)。あわせて作戦が裏目に出ても、その責任を取る覚悟が出来ていたように見えた。強運には、リーダーの示す目標の明確さと覚悟の程が関係しそうである。

 そう思って前回のBlogで引用した対馬沖海戦を振り返ると、祖国を死守するという切実かつ明確な目標のもと、連合艦隊司令長官の乗った旗艦は先陣を切って突撃した。対して大敗したミッドウェー島沖海戦では、目標が島の基地攻略か機動部隊の撃滅なのか曖昧で、爆弾と魚雷の積み替えで混乱し、その間に襲撃された。しかも、連合艦隊司令長官は遥か後方で大和の艦橋にいた。かの巨大戦艦が前線にあれば、士気を上げただけでなく、その高性能レーダーや46センチ砲の実力を発揮できただろう。

 スポーツや軍事での強運は似ているようである。もっとも、スポーツの勝ち方を戦争に利用しようとするのは本意ではない。戦争は畢竟人殺しであり、その残虐さは人の心を痛めつける。戦争を避けるためにこそ、スポーツを利用すべきである。競技の勝敗を競うことで、疑似的に闘争心の解消を図るのである。スポーツ以外の(体を使わない)競技でも、それは可能である。一方、競技や軍事以外の日常生活での運の良し悪しは、目標や覚悟だけで決まるものではない。

 巷の書によれば、運の良い人は前向きで視野が広く、悪いことも自己の成長に利用し、自分の考えを確かに持っているが他人への敬意や感謝も忘れない。運の悪い人は自分勝手で飽きやすく、悪いことは人のせいにし、人の言うことに流されやすいくせに不平が多い。「悪いことが起これば自信を失い恨み言も出るだろうが、心がけ如何で運を引き寄せることもできる」というのが先人の見立てである。運の良い人の生き方に倣うことでも、自分の運を上向きにすることができよう。

 逆に注意すべき人は誰か。運の悪い人は嫉妬心を抱いているかもしれない。不運な人生への同情心から、こちらが寛大すぎる対応を取るかもしれない。悪運者の敵意と己の甘さを意識すべきである。変則的なのは、運の良い人の如く他人への敬意や感謝を示しながら、本音では全くそう思っていない人である。その言動は、美的なまでに整っていながら、ChatGPTの回答文のような空虚さを有し、陰に虚栄と欺瞞が潜んでいる。しかも、その冷酷さを知った時は、既に逃れることが困難となっている。

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