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趣味は透明水彩画、スポーツ観戦(テニス、サッカー、野球)
仕事は質量分析による創薬の定量分析と構造解析

阪神淡路震災後20年に思うこと

2015-01-17 16:47:35 | 日記
1995年の元旦に北海道でトンネルの落盤事故で少年少女が亡くなられ、
1月17日阪神淡路大震災で6千5百弱の方が亡くなられ、サリン事故でも多くの方が亡くなられた。私は3月に20歳の息子を交通事故で亡くし、葬式に来てくれた上司に、私は「息子に色々教えようと思っていたのに死んでしまったので何もしてやれなかった」と言ったら、出社したら呼ばれて「会社の若い者にあなたの分析の技術と知識を教えてやってくれ」と言われ、そのような組織を造って下さった。研究も若い者に論文を書かせて、博士号をとらせ海外留学をさせました。指導者なので当然、論文の共同研究者に書いてくれるので私の名前のはいった論文数も増えて100報以上になりました。社外でも有名になり学会活動もさせられ年会の実行委員長もし、多くの方との共同研究の功績で学会から受賞もしました。私は油絵を描くことが好きだったのですが1995年から描いていませんでしたが20年して「天国で会いたい人々」の油絵30Fを描けるようになりました。家内も「よく似ている」と言ってくれ、今、油絵の息子と同居しています。2012年3月11日私は茨城県東海村にある会社の研究所に単身赴任して務めていまして東日本大震災に遭遇しました。津波は東海村は免れましたが、土日に買出しに行っていた那珂港と大洗港の魚市場は津波で流され薄暗い柱だけの魚市場は不気味な恐ろしさがありましたがゴールデンウィークには復帰しました。魚市場のお兄ちゃんが私のトロ箱をみて「私は石巻出身でそのトロ箱の店はつぶれてしまいました。」と泣かれたのが心にしみています。大震災と津波で1億5千強の方が亡くなられ、行方不明のかたを入れると阪神淡路大震災の3倍の数になります。津波情報が徹底しもっと早く避難されたら数は半減したのではないかと思います。神戸の街の都市構造の復興は速かったが、東北地方の都市構造の復興は3年たってもまだまだの感じが強い。2012年3月12日午前中はジャスコで食料を得るため並び午後水を得るため市役所でならび東の空にきのこ雲のような変な雲があるなと思ったが、まさか福島の原子炉が爆発した情報は全く知らず、月曜日出社したら数名しか来ていないので変だなと思って聞いて「被曝するので部屋から出ないほうがいい」とのことで驚かされました。震災、津波、
原発事故の福島にも共同研究しているところがあり、その会社の近くにもプレハブの避難施設があり原発事故の色々恐ろしいお話しを聞きました。天災の恐怖は台風の風水害、山崩れ、火山の爆発などもあり、色々な防災対策、心のケア―が重要です。

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