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雑賀衆・雑賀三緘について

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雑賀三緘(入道)は根来の小蜜茶でもある。

2018-01-13 22:03:54 | 調査
今まで、亡き祖母の実家である雑賀家の「雑賀家譜」を和歌山県立文書館刊行の「紀州家中系譜並に親類書書上げ」
上巻から資料番号NO.5914、5915、5916、5917、5918を入手し、その中に「中古日本治乱記」及び「後太平記」に記載
が有る「小蜜茶雑賀三緘(雑賀三緘(入道)」の確認と「中古日本治乱記」及び「後太平記」の記載内容の信憑性、特に戦国
時代に限定し他の資料を参考として検証考察してきた結果を今までに報告してきた(詳細は記事をご覧ください)。
即ち雑賀家譜に ・・・ (第四回参照願います)
『「先祖書 雑賀佐之右衛門 」
・・・中略・・・・

元祖 本国紀伊 小蜜茶雑賀三緘
生国紀伊
・・・中略・・・・ 天正十二年
権現様豊臣家と小牧 御陣之節
権現様之御味方仕、雑賀・太田等被 召、 泉州
岸和田ニ搆籠り候、中村孫平次を追落し、
堺迄出、豊臣家之留守攻討候由、 且雑賀三緘、
根来寺エ登山之節は杉之坊ニ
相詰候付、世人根来之小蜜茶と申候由・・・中略・・・・』と有り。
この内容を基に十数回に亘り検証考察してきた。

そして前回は、「後太平記」に記載がある紀州士名が的場源四郎謄写の「南紀士姓旧事記」にも記載されており「雑賀三緘
入道(同 三入道)が確認出来た。「南紀士姓旧事記」は「南紀徳川史」 第十一冊に記載されている。

今回は今までの報告を踏まえ更に追跡調査し再考察した結果を下記の通り報告する。



「本願寺文書(千葉乗隆・北西弘著)」33顕如消息(天正四年四月十八日)の解説によれば、『信長と不和となっていた
将軍義昭は、備後の鞆津に滞在し、安芸の毛利氏に本願寺支援の出兵を勧めるとともに、越後の上杉氏にも上洛を促
ていた。
・・・中略・・・・
この本願寺と毛利氏との同盟締結に基づいて、毛利氏は翌天正四年(1576)二月以来、大坂に兵船を派遣して協力
させることになった。』とあり。(本文は省略)
信長包囲網構築が着々と整えられ臨戦態勢が出来上がってきた。
これに基づき、第十一回報告した内容とが絡んで来る。即ち、

○後太平記下巻「諸城警禦之事」(地部巻第41)
『将軍則已に備後ノ國に下向あって、毛利、小早川を頼ませ給ひ、上洛御座由聞こえしかば、畿内、中国の武士共
大半味方に馳せ加る。・・・中略・・・・
淡路岩屋の城には丹地太郎兵衛ノ尉、神野加賀ノ守、小林民部ノ少輔、三百餘騎にて討入り、紀州雑賀三緘入道、
鱸孫市、的場源七郎は一萬餘人を率し、和泉ノ國千石に堀を築き、門跡一揆を輔け、将軍上洛を待向ふ、
・・・中略・・・・』とあり。

○中古日本治乱記「将軍方所々蜂起之事」(天正四年巻第55)
『将軍義昭卿既に備後国に御下向有テ毛利右馬カミ頭輝元吉川駿河守元春小早川左衛門佐藤隆景一味シ大軍ヲ師テ御
上洛アルヘシト聞ヘシカハ将軍方ハ不及申信長ニ恨ヲ含ムトモカラ畿内中国ノ武士トモ暫く悉ク陰謀ヲ企ツ中ニモ・・・中略・・・・
淡路岩屋城ヘハ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林民部少輔三百餘騎ニテ討納紀州雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ
一揆一萬人ヲシ和泉千石塚ニ城ヲ築門跡ノ一揆ヲ輔将軍ノ御上洛ヲ待向フ・・・中略・・・・』と有り。

「本願寺文書」の内容と「後太平記」「中古日本治乱記」の記載内容とは一致するのである。
次に第十二回にて報告した事案が絡んでくる。

○後太平記下巻「摂州大坂一向門跡合戦之事(地部巻第42)
『織田信長・・・中略・・・・
天正四年の四月十四日ニ、惟任日向ノ守、長岡兵衛尉ノ尉大輔、筒井順慶原田備中ノ守に三萬餘騎を属け摂州に
向けられたり、其勢森口、野田、福島に勢揃へて陣を取る、原田備中ノ守は江口、神崎、難波河口を放火し、茶臼山に
府城築いて、南方より攻寄せける、城内には下間刑部法印、同少進法橋・・・中略・・・・
五月三日の朝陽に和泉・・・中略・・・・
箕浦無右衛門ノ尉、塙喜三郎、同小七郎、丹羽小四郎、宗徒の勇五十騎餘討たれ、・・・中略・・・・
同月六日に三萬餘騎を引率し、京都を発し、天王寺に陣を取り、勢急りに見えければ、一揆中有に忍へ難く、城内に引き
入りける、これに因て佐久間右衛門ノ尉を茶臼山・・・中略・・・・
斯比雑賀孫市郎、同三入道、的場源七郎、渡邊藤左衛門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来法師岩室清裕、各一手に成り、紀伊の勢
一萬餘、和泉ノ國に討ち出で、中野、貝塚、千石堀に楯籠り、門跡一揆に一味して・・・中略・・・・』と有り。

○中古日本治乱記「責大坂本願寺門跡事」(巻第56)
『去程ニ本願寺門跡光佐上人・・・中略・・・・
四月十四日ニ信長下知シテ細川兵部大輔藤孝荒木摂津守村重惟任日向守光秀原田備中守正次筒井順慶等ヲ以テ・・・中略・・・・
原田政次戦ヒ死ス・・・中略・・・・
五月ノ上旬安土ヲ発ス・・・中略・・・・
佐久間右衛門尉信盛息甚九郎等ニ下知シ天王ノ城ヲ守ラセ又進藤山城守秀盛松永弾正忠久秀以下ノ将士ヲ以テ附城十箇所
ヲ相ラセ
同年六月ニハ信長ノ軍士ヲ引率シテ安土ノ城ヘソ皈リケリ』とあり。

○信長公記「原田備中、御(三)津寺ヘ取出討死の事」(巻九)
『四月十四日、荒木摂津守、長岡兵衛大輔、惟任日向守、原田備中四人に仰せつけられ、上方の御人数相加ヘラれ、
大坂へ推し詰め、荒木摂津守は・・・中略・・・・
五月三日、早朝、先は三好笑岩、根来、和泉衆。二段は原田備中、・・・中略・・・・
既に、原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎、枕を並べて討死なり。・・・中略・・・・』と有り。

○信長公記「御後巻再三御合戦の事」(巻九)
『五月五日、後詰として、御馬を出され・・・中略・・・・
五月七日、御馬を寄せられ・・・中略・・・・
御先一段、佐久間右衛門、松永弾正、長岡兵部大輔、若江衆・・・中略・・・・
二段、滝川左近、蜂屋兵庫、羽柴筑前、惟住五郎左衛門、稲葉伊予、氏家左京助、伊賀伊賀守、
三段御備、御馬廻、
・・・中略・・・・
天王寺には、佐久間右衛門、甚九郎、進藤山城、松永弾正、松永右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、
山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定番として置かれ・・・中略・・・・
六月五日、御馬を納められ、其の日、若江に御泊り、・・・中略・・・・。翌日、安土に至りて御帰陣。
・・・中略・・・・』と有り。

上述の通り、将軍義昭は毛利氏に本願寺支援の出兵を勧めるとともに、越後の上杉氏にも上洛を促し、
本願寺は義昭の計略に従って上杉謙信と通ずると同時に、毛利輝元らに説き、毛利氏は天正四年二月
以来、大坂に兵船を派遣。将軍義昭、本願寺側は、信長包囲網を着々と構築していき信長との戦に備えた。

石山本願寺の籠城体制は「中古日本治乱記」「後太平記」には記載がないが「石山退去録」及び「陰徳
太平記」に記載がある。「陰徳太平記」は「石山退去録」より引用したのではないかと小生は考えます。

○石山退去録:(日本歴史文庫 編輯主任 黒川真道による)
『天正四年五月六日の合戦に、石山の要害は堅固にて、逆茂木五重にふり並べ、其内に幅五間の空堀を
深く掘り、其後には水堀をこしらへ、城中の軍兵凡そ六萬餘騎、扨浮武者といひて、一手が千騎づつ七組
ある事ちゃ。
先ず一番に下間三位、二番には八木駿河守、三番には鈴木孫市、四番には同一角、五番には田邉平次、
六番には根来小蜜茶、七番には山田新助。此等は皆一騎当千の勇兵なれば敵を討取る謀なり。
・・・中略・・・・』と有り。

○陰徳太平記:香川宜阿著 通俗日本全史第十四巻
『同五日上人處々の櫓へ上り給ひ、・・・中略・・・・
城中には、総軍六萬騎、其中に下間三位、八木駿河守、鈴木孫市、同一楠、田邉平次、根来の小蜜茶、
山田新助等を大将として、・・・中略・・・・』と有り。

⇒「石山退去録」にある、雑賀孫市が小蜜茶か、雑賀一楠が小蜜茶か、田邉平次が小蜜茶か、 山田新助が小蜜茶か、
岡崎三郎太夫が小蜜茶か、渡部藤左衛門が小蜜茶か、そうではない。後残るのが雑賀三緘入道である。
石山本願寺の六番目の根来の小蜜茶こそが雑賀三緘入道なのである。
雑賀三緘入道こそが根来の小蜜茶であることを証明するために「中古治乱記」「後太平記」「信長公記」
等に記載がある雑賀三緘入道関係を上述の通り記した。

又、「中古日本治乱記」特に「後太平記」より引用したとおもわれる次のような名所図会や全志もある。

○「和泉名所図会」 巻之4-04
『天正年中、本願寺の門徒、平信長と對陣して、摂州大坂の城に籠居す。其時、紀伊國雑賀孫市郎、
同入道三緘、的場源七郎、渡部藤左衛門、岡崎三郎太夫、土橋平治、根来岩室坊清裕等、各一萬騎、和泉
國畠中、千石堀、貝塚の要害に入って、大坂城を助力す。又、天正五年二月、平ノ信長、紀州雑賀逆徒を
攻むる。雑賀党、和泉國貝塚辺、 所々の要害を固むといへとも、来軍の猛勢に對しかたく、二月十六日夜、
退散す。』とあり。

○「大阪府全志」:千石堀城址 第五巻
『貝塚市にある根来寺前線砦群の一つで、近木川沿いにある主城的なるもの、対秀吉戦では一番犠牲者が
多い戦いになった。
天正年間本願寺門徒の摂州石山城に據りて織田信長と争うや、紀州の雑賀孫一郎・同三入道・土橋平次・
的場源七郎・岡崎三郎太夫及び根来岩室清裕等は、一萬餘騎を引きいて当國に入り、当城及び畠中・貝塚の要塞
に據りて之に応援し、以て信長を悩ませしかば、信長は天正五年二月雑賀征伐の途に就きて諸城に迫りければ、
同月十六日悉く潰走せり。
同十二年小牧・長久手の役起るに及び、根来の衆徒は復織田氏・徳川氏に聲息をつじて豊臣秀吉に抗せしかば、
秀吉は中村一氏を岸和田城に置きて之に當らしめ、自ら兵を率いて尾張に進みたるに、根来の衆徒は當城
及び積善寺・澤・畠中・高井の諸塞に占據して、その勢・・・中略・・・・』とあり。

○「大阪府全志」:貝塚城の阿址 第五巻
『貝塚城のありし所なれど、今斯の址は詳ならず、城は天正年中石山本願寺門徒の織田信長と争へるに際し、
紀州の雑賀孫一郎・同三入道・土橋平次・的場源七郎・岡崎三郎太夫・根来岩室清裕等の壱萬餘騎を率ゐて
當國に出で、當城及び千石堀・畠中の諸城に楯籠りて本願寺門徒にオウエ應援せる所なりしか・・・中略・・・・』
とあり。
以上が「後太平記」「中古日本治乱記」に小蜜茶雑賀三緘関連の記載があるものである。

小蜜茶雑賀三緘(カン)についてですが和歌山県立文書館刊行の「紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)
によれば、『藩に提出された系譜の中には担当の役人、おそらく提出先と考えられる御用部屋の役人
によって多くの修正の付箋や張り紙が貼られている冊子がある。この付箋・張り紙は単に書式を直され
ているだけのものもあるが、なかには差出人本人が記していない事実を付箋に記し貼りつけているもの
もあった。』と言うように紀州で有名な小蜜茶が間違いであれば当然修正の付箋や張り紙が貼られているはずで
あるが、雑賀家譜には一切ないのである。
家譜の記載内容に疑義が持たれたならば、当然小蜜茶に関する史料や証明するもを藩に要求され提出したこと
であろう。(史料等は残念ながら家計困窮の折り、父の長兄が務めていた会社の社長殿に一括して買上て頂いたとのこと)
その結果、雑賀家譜は正しいが為に一切の修正の付箋も張り紙も貼られていないと推察する。
このことからして、小蜜茶雑賀三緘は間違いなく亡き祖母の実家の家譜に記載通りであると小生は確信する。











小蜜茶雑賀三緘(根来ノ小蜜茶)、戦の軌跡

2017-11-03 22:02:24 | 調査
前回、『信長公記』巻十〖雑賀御陣の事〗に記載がある「ミカラミの者」を探せを再考察して、新たに見つけ出した
資料(史料)を基に御報告をしました。
又、雑賀家譜に記載がある【小蜜茶雑賀三緘】関連史料を語弊があるかもしれませんが信長側・毛利側・真宗側と区分けした
捉え方で報告いたしました。
今回は前回と同様内容になるが、戦毎の事案を時系列的に併記して、諸先輩方の資料等を使用させて頂き乍ら再々考察をしたいと考えます。
小生が祖母の雑賀家譜に記載がある【雑賀三緘(入道)】が記載されている資料(史料)にて見つけ出した戦で古いのは元亀元年「野田福島
合戦(石山合戦:第一次)」である。次に、天正四年天王寺の戦い(石山合戦:第三次)、天正五年雑賀合戦(第一次)等々である。
【小蜜茶雑賀三緘】の戦及び登場の軌跡を追って小生の調査・検証出来る範囲にて調べた結果である。

元亀元年
◎野田・福島合戦(石山合戦:第一次)

○『信長公記』太田牛一 元亀元年 「野田福島御陣の事」 巻三 桑田忠親校注 新人物往来社
八月廿日、南方表御出勢。其の日は横山に御陣を懸けさせられ、次の日、御逗留。二十二日、長光寺泊り。
・・・・省略・・・
二十六日、御敵楯籠もる野田・福島へ成るる。御手遣り、先陣は近陣に陣どらせ、天満森、川口、渡辺、神崎上難波、下難波、浜の手まで
陣どらせ・・・・省略・・・
御敵、南方諸牢人大将分の事、細川六郎殿、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、岩成、松山、香西、三好為三、龍興、永井隼人、此の
如き衆八千ばかり野田。福島に楯籠りこれある由に候。・・・・省略・・・
九月三日、摂津國中嶋、細川典厩城迄、公方様御動座。大坂十町ばかり西に、ろうの岸と云う所、御取出に仰せ付けらる。
斎藤新伍、稲葉伊予、中川八郎右衛門両三人入れおかる。並びに、大坂の川向かいに、川口と申す在所候を、是れ又、・・・・省略・・・
九月九日、信長公、天満ケ森へ御大将陣を寄させられ、次の日・・・・省略・・・
根来・雑賀・湯川・紀伊國奥郡衆二万ばかり罷り立ち、遠里小野・住吉・天王寺に陣取り候。
・・・・省略・・・

○『中古日本治乱記』山中長俊 「 野田福島合戦附江州宇佐山軍(事)」 巻第53 国会図書館
信長ハ江州ノ合戦ニ討勝テ暫ク休息シ玉ヒケル処ニ同年ノ八月三好山城守康長入道笑岩同日向守定康等摂州ニ蜂起シテ野田福島ノ城ニ楯籠リ
又福島ノ城ニハ安宅甚太郎一倍ヲコメ置国中ヲ掠テ犯スノミナラス京都ノ将軍足利義満ヲ窺フヨシ岐阜ニ告来リシカハ信長安カラヌ事ナリトテ大事ヲ
引率シテ摂州ニ馳向ヒ両城ヲ囲セメケル城兵モ稠ク防テ城落サリシ
九月ニハ将軍義昭モ京師ヲ御出發有テ摂州中嶋ニイタリ玉ヘハ信長ハ天満森ニ陣ス斯ル処ニ根来寺雑賀ノ輩信長ニ馳加リテ同ク野田福島ヲ
責タリケル爰ニ大坂ノ本願寺門跡光佐顕如三好等ニ語ヒ野田福嶋ノ後詰トシテ門徒ノ僧ハ申スニ及ハス・・・・省略・・・

○『後太平記』多々良一龍(撰) 「将軍摂州御發向之事附一向門跡一揆之事」 地部巻第40 『通俗日本全史』 早稲田大学編三輯部
六条本国にて討申され泄されたる三好一族、今年蘇軍を發し、摂津の国野田福嶋に城を構へ蜂起すと聞えしかば、・・・・省略・・・
九月三日、京師を打立ち給ふ、供奉の人々には、上野中務大輔、同佐渡ノ守、大館治部ノ大輔、京極近江ノ守、大草治部ノ大輔、・・・・省略・・・
神野加賀ノ守、丹地太郎兵衛ノ尉、其勢都て七千余騎、摂津の中島陣取り給ひ、兇徒退治の軍慮急り也、斯る處に紀伊ノ國住人
雑賀孫市郎、雑賀三緘入道、岡崎三郎大夫、渡邊藤左衛門ノ尉、的場源七、土橋平次、根来法師岩室清祐等、各一萬餘騎にて馳せ参る
・・・・省略・・・

○『集古雑編巻上』 「大坂御坊建立之事」 恵空編(光遠院恵空師)『真宗全書』妻木直良編
摂州東成郡生玉ノ庄大坂御堂ノ始終ヲ尋ルニ。
・・・・省略・・・
元亀元年八月下旬、去年正月六日ニ諸軍記本國寺ニテ敗北シケル三好ノ一族等。阿波國ヨリ催シ上テ、摂州野田福嶋ニ出張ス。・・・・省略・・・
九月三日京都ヲ立テ。摂州中島ニ着陣セリ。信長ハ天満ニ陣ヲ居ヘ。・・・・省略・・・
此日雑賀ノ住人。鈴木孫一・土橋平次・岡崎三郎大夫・渡邊藤左衛門・的場源七・三緘入道・根来・法師岩室清祐等。一萬餘騎。駆来テ
同城ヲ攻ム。・・・・省略・・・
二千挺ノ鉄炮ヲ放チカケテゾ攻タリケル。総見記十ニ云。・・・・省略・・・

○『総見記(織田軍記)』 信長公摂州野田福島大坂表御出馬事 巻第十 『物語日本史大系』第七巻早稲田大学出版部
摂州蜂起の事、聞し召しとどけられ、信長公彼の表御發向美濃、尾張、三河、と遠江の・・・・省略・・・
九月三日日向守が子兵庫助、俄かに池田の城を明けて、福島に逃いる。・・・・省略・・・
同日紀州根来衆、岩室杉坊五千餘人引率し、又、畠山の被官の面々玉木、湯川が名代勢一千餘人、皆々天王寺へ参上し、信長公
の御手に加はる。
・・・・省略・・・

元亀元年の合戦の事案は上述の通りである。『信長公記』『中古日本治乱記』には根来・雑賀等としか記載されず人物は特定されて
いないが、『後太平記』『集古雑編巻上』には根来・雑賀衆の人物が特定されているのである。
しかし、『集古雑編巻上』には『総見記』十ニ云と記載されているが、『総見記』には特定人物は記載されていず、『信長公記』
及び『中古日本治乱記』同様の根来・雑賀衆(輩)としか記述がされていないので、『総見記』は『信長公記』から引用していると
思われる。 反対に『集古雑編巻上』は『中古日本治乱記』及び『後太平記』を引用していると思われる。
野田福島合戦では『中古日本治乱記』には人物が特定されていないが、天正四年の天王寺の戦いの事案に記載されていることから
『後太平記』は『中古日本治乱記』より引用していると思われる。『後太平記』は『中古日本治乱記』より多くを引用していることは
諸先輩方も指摘されていることである。

天正四年
◎天王寺の戦い(石山合戦:第三次)

○『信長公記』 原田備中、御(三)津寺ヘ取出討死の事 巻九
四月十四日、荒木摂津守・長岡兵部兵部大輔・惟任日向守・原田備中四人に仰せ付けられ、上方の御人数相加へられ、大坂へ推し
詰め、荒木摂津守は尼崎より海上を相働き、大坂の北野田に取出を推並べ、三つ申しつけ、川手の通路を取り切る。
・・・・省略・・・
五月三日、早朝、先は三好笑岩・根来・和泉衆。二段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取寄せ候のところ、大坂ろうの岸
より罷り出で、一万計にて推しつつみ数千挺の鉄炮を以って、散( )に打ち立て、上方の人数くづれ、原田備中手前にて請止、数刻
相戦ふと雖も、猛烈に取り籠められ、既に原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎、枕をマ並べて討死なり。
・・・・省略・・・
五月七日、御馬を寄せられ、一万五千ばかりの御敵に纔か三千ばかりにて打ち向はせられ、御人数三段に御備へなされ、住吉口
より懸けらせれ候、
御先一段佐久間右衛門、松永弾正、永岡兵部大輔、・・・・省略・・・
二段、滝川左近、蜂屋兵庫、羽柴筑前、惟住五郎左衛門、稲葉伊予、氏家左京助、伊賀伊賀守
三段御備 御馬廻
・・・・省略・・・
天王寺には、佐久間右衛門、甚九郎、進藤山城、松永弾正、松永右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿、是れ
等を定番として置かれ、
・・・・省略・・・

○『中古日本治乱記』 「将軍方所々蜂起之事」 巻第55
将軍義昭卿既に備後国ニ御下向有テ毛利右馬頭輝元吉川駿河守元春・・・・省略・・・

淡路岩屋城ヘハ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林民部少輔三百余騎ニテ討納紀州雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ一揆一満人卒シ
和泉仙石塚ニ城ヲ築門跡ノ一揆ヲ輔将軍ノ御上洛ヲ待向うフ
・・・・省略・・・

○『後太平記』 「諸城警禦之事」 地部巻第41
将軍則已に備後ノ国に下向あって、毛利、小早川を頼ませ給ひ、上洛御座・・・・省略・・・

淡路岩屋の城へは丹地太郎兵衛ノ尉神野加賀ノ守、小林民部ノ少輔三百餘騎にて討入、紀州雑賀三緘入道、鱸孫市的場源七郎は
一揆一萬餘人を卒し、和泉ノ国千石塚に堀を築き、門跡一揆を輔け、将軍上洛を待向ふ・・・・省略・・・

○『本願寺文書』:この項では省略するが将軍義昭が備後鞆津で毛利輝元に本願寺支援の出兵を勧めるとともに、越後の
上杉氏にも上洛を促していた。

○『中古日本治乱記』 「責大坂本願寺門跡事」 巻第56

去程ニ本願寺門跡光佐上人ハ・・・・省略・・・

四月十四日ニ信長下知シテ細川兵部大輔藤孝荒木摂津守村重惟任日向守光秀原田備中守政次筒井順慶等ヲ以て大坂ヲ攻ケレトモ
城中心ヲ一ツニシテ防キレハ・・・・省略・・・

三好笑岩根来ノ僧徒等一味同心して木津ノ城ヲ責落シ信長ヘ忠節ニセント評定シテ態ト他ノ勢ヲモ不雑シテ木津ノ城ヲソ攻タリケリ城中ノ輩敵ヲ
・・・・省略・・・

直前駆テ戦ヒケルニ城兵捲リ立ラレテ城中ヘ崩レ入ル原田乗气城中ヘ付入ントス城ノ中ヨリ鉄炮ヲソロヘテ稠ク打シカハ原田政次戦ヒ死ス
・・・・省略・・・

五月ノ上旬安土ヲ發ス此時村井長門入道春長ハ・・・・省略・・・
信長ハ河内若江ノ城ニ馳向テ彼城火急ニ攻破レハ城兵大坂ヘ逃走ル信長ノ軍兵共勝ニ乗テ追走リ首共餘多討取ケリ其後佐久間右衛門射信盛
息甚九郎等ニ下知シテ天王寺ノ城ヲ守ラセ又進藤山城守秀盛松永弾正忠久秀以下ノ将士ヲ以テ附城十箇所ヲ相ラセ
同年六月ニハ信長ノ軍士ヲ引率シテ安土ヘソ皈リケル

○『後太平記』「摂州大坂一向門跡合戦野事」 地部巻第42
織田信長の武威益天下を呑む、・・・・省略・・・

天正四年の四月十四日に惟任日向ノ守、長岡兵部ノ大輔、筒井順慶、原田備中ノ守に三萬餘騎を属け、・・・・省略・・・
城内には下間刑部法法印、同少進法橋、城の四面に弓鉄炮の射手を配り、乱鼓の如く放ちければ・・・・省略・・・
五月三日の朝陽に和泉、河内の勢を招き寄せ、三層四重に圍を列ね一刻に揉落さんと磅かす、城主粟屋内蔵丞元宣、是を見て、
怪しや彼の原田備中ノ守は・・・・省略・・・

原田大勢にて、取圍まんとせし処に城中に狼煙夥しく挑立てれば、是を見て生玉ノ宮、天王寺に螺三通吹いて狼煙を挙ぐ、
・・・・省略・・・原田が手にて先を蒐けたる箕浦無右衛門ノ尉、塙喜三郎、同小七郎、丹羽小四郎、宗徒の勇五十餘騎討たれ、
・・・・省略・・・

同月六日に三萬餘騎を引率し、京都を発し、天王寺に陣を取り、勢急りに見えければ、一揆中有に忍コレヘ難く、場内に引き
入りける、これに因て佐久間右衛門ノ尉を茶臼山に籠置き、信長は程なく還軍坐しける、・・・・省略・・・

其頃雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、渡部藤左ヱ門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来法師岩室清裕、各一手に成り紀伊の勢一萬餘騎、
和泉ノ国に討ち出で、中野、貝塚、千石堀に楯籠り、門跡一揆に一味して、将軍御帰洛を街向へ・・・・省略・・・

○『集古雑編巻上』 「摂州木津軍信長敗北ノ事」 恵空編「真宗全」 妻木直良編
元亀元年以来。・・・・省略・・・

天正四年丙子夏四月 家譜・後太平記・信長記 木津ニ要害ヲ構テ。下間刑部頼砺廉・栗屋内蔵丞元信ヲ大将トシテ。人数ヲ入置カル・此栗屋
ハ。小早川隆景ノ家人也。・・・・省略・・・
果シテ信長ノ軍勢同明智記 五月三日ニ攻来ル。永岡兵部・荒木摂津・惟任日向・原田備中・筒井順慶大将トシテ。木津ノ城ヘ取向フ。
・・・・省略・・・
下間・栗屋大勢ニテ切テ入リ。追ヒ立揉ミ立撃タリケル。原田前後度ヲ失ヒ。左右ハ田ニテ進退極リテ遂ニ討レニケリ。家ノ子ニ塙ノ喜三郎・同小七郎・
丹羽小四郎・箕浦元右衛門・同三郎右衛門・野崎四郎・池田總七・宮本庄助・同孫右衛門・野呂源左衛門・槇與次・等。宗徒ノ勇士等
五十餘騎。枕ヲ雙ベ討レケル。
・・・・省略・・・

○『石山退去録』 天正四年五月六日の合戦の時のこと(補説) 関西大学中世文学研究会編
・・・・省略・・・

天正四年五月六日ノ合戦ニ、石山ノ要害ハ堅(固)ニモ、サカモギ五重ニフリ並ベ、其内ニ幅五間ノカラ堀ヲ深クホリ、其後ニハ水堀ヲコシラヘ、城中ノ軍兵凡ソ
六万余騎。偖、浮武者ト云テ、一手ガ千キヅ、七組有コトジャ。先ヅ一番ニ下間三位、二番ニハ八木駿河守、三番ニハ鈴木孫市、四番ニハ同一角、
五番ニハ田辺平次、六番ニハ根頃(来)小蜜茶、七番ニハ山田新介、此等ハ皆一騎当前(千)ノ勇兵ナレバ、敵ヲ討取謀ナリ。又、残ノ五万三千余キハ本陣
ニコモリ居テ、寄手ノ敵ト戦フ諸兵ナリ。・・・・省略・・・

○『大谷本願寺由緒通鑑』 第三巻
天正四年四月、信長仰ラレシハ。東国北国ノ諸将皆我ニ従フ處ニ。大坂本願寺門跡事敵對スルコソ鬱憤少カラズ。急ニ責亡スヘシトテ。永岡兵部太夫。荒木摂津守。
明智日向守。原田備中守。遠藤山城守。平井伊賀守。山岡美濃守。筒井順慶等ヲ大将トシ。都合其勢二萬ヲ餘騎。
四月十四日大坂ヘ指し向うラル。
・・・・省略・・・

五月三日早朝ヨリ合戦ノ手筈ヲ定テ、先陣三好笑岩竝根来ノ衆徒ニ、和泉河内ノ國侍相加ル。御陣ハ原田備中守。畠山甲斐守ニ大和山城ノ地侍相加リ。
・・・・省略・・・
大将原田備中守宗行ヲ始トシテ。丹羽小次郎。箕浦無右衛門。野崎四郎。池田總七。森本勝助等名アル歴々討死シタリケル。
・・・・省略・・・

※池田總七:小蜜茶が池田總七を投殺す(『石山退去録』に記載あり)

○『陰徳記(上)』 原田備中守討死之事 香川正矩著 米原正義校訂者 マツノ書店
去程ニ原田備中守ハ、大坂勢ヲ寄頭ノ一揆原也ト思侮テ、・・・・省略・・・

カカル処ニ信長ヨリ、木津ノ取出ノ城ヲ乗取ヘシ。扨此城ニ味方ノ勢ヲ入置ハ、大坂ノ攻口便有ヘシ、ト下知シ給ヒ、検使トシテ猪子兵介・大津伝十郎二人ヲ
差下給。原田願処ト悦テ、最後ノ盃ナト一族郎等ト呑替シ、
五月三日先陣三好笑岩・根来ノ衆徒、其外和泉・河内ノ加勢ノ者、二陣ハ原田備中守ト定メ、木津ヘ押寄タリ。木津ノ城ヨリ下間出羽守・八木駿河守・
木津ノ願泉寺・江戸報恩寺・本多土佐守・鈴木孫市・同一角・田辺平次・山田新介・村上利介・山中内記・益田少将等討テ出、鉄炮ヲ以テ
散々ニ射。
・・・・省略・・・

已ニ寄手色ニ見エケレハ原田備中守大声ヲ上テ名乗カケ、益田少将ト渡シ合、散々ニ突合ケルカ、前ナル深田ヘ落入終ニ益田カ為ニ討レケリ。益田頼掻切高クサシ上、
原田備中守ヲ討捕タリ(天正四年五月四日と)、ト訇リケリ。是ヲ見テ塙喜三郎・同小七郎・氏家左近進・箕浦無右衛門一所ニテ枕ヲ并討死ス。

○『陰徳記(上)』 大坂大寄之事 香川正矩著
斯テ於大坂表味方度々利ヲ失、剰原田備中守ヲ初トシテ宗徒ノ兵五百余騎討レタリト告来ケレハ、信長大ニ腹ヲ立給テ、更ハ大坂ヲ一時ニ攻破リ、原田カ
孝養ニセント京都ヲ討テ出給。
・・・・省略・・・
斯テ軍ノ行ハ出城々々ニハ勢ヲカサミ、就中鉄炮多構置、諸軍勢六万余騎ハ大坂石山ノ城ニ楯籠り、棚逆母木五重ニ付、其内ニカラ堀渡リ五間計ニ、
如何ニモ深々トホリ、其後ニ又惣堀アリ。早鐘ヲあ相図ト定ラル。浮武者ハ下間三位・八木駿河守・鈴木孫市・同一楠・田辺平次・根来ノ小蜜茶・
山田新介ヲ大将トシテ、六万騎ノ中ヨリ究竟ノ兵七千余騎撰出シ、敵ニ懸一戦シテ軽ク引取、敵ヲ引寄地ノ利ニ付テ戦ヲ決セント也。
・・・・省略・・・

天正四年の合戦の事案は上述の通りであるが、そのほかに香川正矩著『陰徳記』から子の香川宜阿著『陰徳太平記』にも
同様のことが引用されているので省略する。
この事案で重要なことは、《根来の小蜜茶》が『石山退去録』に記載されていることである。雑賀孫市・田辺平次等はそのまま
記載されているが、【雑賀三緘入道】は【雑賀三緘入道】ではなく《根来の小蜜茶》として記載されていて、雑賀三緘入道と
根来の小蜜茶が相対して記載されている唯一の事案である。

雑賀家譜によれば〖雑賀三緘、根来寺エ登山之節は杉之坊ニ相詰候付、世人根来之小蜜茶と申候由〗と記載されており、仲間内では
三緘入道は雑賀のくせによく根来の杉之坊に詰めたことから通称として《根来之小蜜茶》として呼ばれるようになったのではないか。
雑賀三緘は根来ノ小蜜茶なのである。

『石山退去録』は真宗内のその通称を用いて記載されたのではないだろうか。・・・・画像参照・・・・
然らば、祖母の実家の雑賀家譜の信憑性は如何にということになると思う。
以前にも記述したが、和歌山県立文書館発行の『紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)』に記載がある雑賀家譜ですが、三代に亘
藩に提出されています。幸いなことに雑賀家譜には、提出した記述に対する内容に関して藩からの指摘での修正や付箋や貼紙な
ど一箇所もないために記述内容は正しいと認められていたのではないか。

『紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)』P330によれば「藩が精査した家の個々の事績が反映されていない系譜を再度藩が受け取る、
ということは正確な情報を藩士に承知させ、より正確な系譜を藩士に出させるということよりも、むしろ差し出された系譜をより
正確にして保存することに主眼が置かれていたと考えることは出来ないだろうか」とあり。雑賀家譜の正確さが認められていると
いうことではないだろうか。




























「信長公記」の太田牛一が山中長俊の「中古日本治乱記」の一部をコピペ

2017-02-11 19:41:38 | 調査
和歌山県立文書館刊行の『紀州家中系譜並に新類書書上げ(上)』に記載がある亡き祖母の実家の雑賀家の家譜
に登場する雑賀衆雑賀三緘(カン)について報告して参りました。
その雑賀三緘は山中長俊の『中古日本治乱記』及び多々良一龍の『後太平記』等々に記載が有り、その信憑性を
検証し確認して参りました。
と言うのも、これらのものは太田牛一の『信長公記』のように信憑性がなく低いと一般的には評価されていると
のことからして、小生は祖母の孫としてその信憑性について戦国時代に限定して検証して参りました。
検証内容は、「記事一覧」より御確認願います。今まで報告致しました中で『中古日本治乱記』の記載内容とそっ
くりな記載箇所がある『信長公記』を発見しました。今で云う「コピペ」です。
太田牛一は自ら「曾て私作私語に非ず、直に有ることを除かず、無きことを添えず。もし一点虚を書かんときんば、
天道如何」(『信長公記』池田家文庫本巻十三奥書)に記している。
しかし、牛一は『中古日本治乱記』より少なくとも一箇所盗用して『信長公記』に記載している。其の根拠は、豊臣
秀吉の祐筆である山中長俊が秀吉の命により『太平記』の後を承ける形で、貞治元年から慶長2年までの二百数十年
にわたる記述を終えたが秀吉が没した。その後朋友太田和泉守資方(牛一?)の勧めを容れて増補し、慶長五年の関ケ
原の戦いで終結したのが『中古日本治乱記』である。序文は慶長七年(1602年)、因みに山中長俊は1608年に亡くな
っている。
一方、太田牛一の『信長公記』は、慶長十五年(1610年)頃完成と云われ牛一は1613年に亡くなっている。山中長俊
は牛一の『信長公記』を見ることなく牛一より先に亡くなっているのであるからして、山中長俊が『信長公記』を
盗用して自身の『中古日本治乱記』に記載することなど有りえない。
又、山中長俊が太田牛一の勧告を取り入れていると言うことは、山中長俊は『中古日本治乱記』の原本か複写本を
太田牛一に見せているということを表している。そして太田牛一の手元に何らかの『中古日本治乱記』が置いてあ
ったからこそ同一内容になったのではないか。逆に太田牛一の『信長公記』の草案を山中長俊に事前に見せたとは、
山中長俊が太田牛一の勧めを受けたということからしてあり得ないと考えられる。

この事実は『中古日本治乱記』の記載記事(戦国時代以降に限定として)内容が正しいからこそ今で云うコピペを
『信長公記』に牛一は記載したのではないか。
その記載箇所は、織田信長が石山本願寺を排除しようとした地は非常に重要拠点であったからにほかならない。

このことは、武田鏡村著『織田信長 石山本願寺合戦全史』ベスト新書刊にて、「アジア・南蛮へ通じる海の回廊の拠点にて
信長の祐筆となる太田牛一が記録した『信長公記』(巻十三)には、大坂の地を次のように表現しているが、それは
信長が大坂によせた評価でもあったろう。として、又、隆 慶一郎 著『花と火の帝 上』 日経文芸文庫刊 にも同一箇所
を記載しているのである。

下記に其の箇所を『信長公記』と『中古日本治乱記』が比較出来るように記載しました。

◎『中古日本治乱記』
○「信長與本願寺門跡和睦附大坂城破壊之事」(巻第62)
「去程ニ大坂ノ本願寺門跡光佐上人顕如ハ久シク・・・・中略・・・・・

同八月ハ信長上洛シテ宇治ニ到リソレヨリ舟ニノリ大坂ニ赴キ城郭ヲ巡リ見てテ
同二日ニヨリ大坂ノ城ヲ破却サセラレケリ抑此大坂ノ城ト申すハ
日本無双ノ各地ナリ都トテモ程近シ
奈良堺モ隣タリ淀鳥羽ノ辺ヨリモ大坂ノ木戸口ニテ舟ノ往変自在ニテ四方ニ切所ヲ□ヘタリ北ノ
ニハ水鳥群居ル鴨川ヤ月ノ影スム桂川誰陸奥ノ関ナラテ秋風ソ吹白川ヤ淀宇治川ノ其流イク
重トモナク二里三里ノ内中津川吹田川引廻シタリ東南ニハ二上カ嶽立田ノ山ノ秋ノ暮ハ
錦ヲ晒ス紅葉ハ道明寺川ニ散浮ヒ渡らは絶ナマシ流ヲ惜ム行末ハ大坂ノ腰迄三四里ノ其間ハ
江ト川ト續タレハヘウマトシテ城ニ帯スルカ如シ西ハ滄海マン□トシテ日本ノ地ハ不及申唐土高麗南□
新羅百済ノ舩彼海上ニ出入シ売買利潤ノ湊ナリ
仏法東漸ノ多地ヲ見立方八町ニ地形ヲカマヘ十方ニ口ヲ開タリ其中ニ自然ト高キ塁アリシヲ
其中央ニ御堂ヲ建□池ノ水底ヨリ赤白ノ蓮花ヲ生シ其中ニ弘誓ノ舟ヲ浮ヘ仏前ニハ光明ヲ輝シ
利剣念仏ノ各号ハ煩悩賊ノ怨敵ヲ治シ仏法繁昌ノ多地トテ僧坊在家ハ□ヲ双ヘ福祐ノ煙リ厚ク
偏ク此法ヲ貴貴遠国ハトウノ民俗ハ日夜

・・・中略・・・・」と有り。

◎『信長公記』
○「大坂退散の事」巻十三巻
「大坂本門跡、雑賀へ退出の以後・・・中略・・・・

天正八年庚辰八月二日・・・中略・・・・
抑も大坂は、凡そ日本一の境地なり。その仔細は、
奈良、堺、京都に程近く、殊更、淀、鳥羽より大坂城戸口まで、舟の通ひ直にして
四方に節所を拘へ、
北は賀茂川、白川、桂川、淀、宇治川、の大河の流れ、幾重
ともなく、二里、三里の内、中津川、吹田川、江口川、神崎川引き廻し、東南は
尼上ケ嵩、立田川、生駒山、飯盛山、の遠山の景色を見送り、
麓は道明寺川、大和川、の流れに新ひらき淵、立田の谷水流れ合ひ、大坂の腰
まで三里、四里の間、江と川とつづひて渺渺と引きまはし、西は滄海漫漫として、
日本の地は申すには及ばず、唐土・高麗・南蛮の船、海上に出入り、五畿七道ここに
集まり、売買利潤、富貴の湊なり、
・・・中略・・・・水上の御堂をこうこうと建立し、
前には、池水を湛えへ一蓮托生の蓮を生じ、後には弘誓の舟をうかべ、
仏前に光明を輝かし、利剣即是の名号は、煩悩賊の怨敵を治し、仏法繫盛の
霊地に在家を立て、

・・・中略・・・・』と有り。
まだ随所にあるが省略する。

以上の通りであるが多少の言葉遣いの違いがあるにせよ近似している。これは偶然
と云える範囲を超えて『信長公記』の太田牛一が山中長俊の『中古日本治乱記』の
一部を引用したとしか考えられない。
この発見は、亡き祖母の家譜に記載がある雑賀衆雑賀三緘を検証するにあたり、
『後太平記』・『中古日本治乱記』と『信長公記』の同一案件を検証するために、
同一に横並びにて検証出来る様に夫々の記載内容を羅列していった為に発見が出来た。
それは、パソコンに打ち込んでいて、重複して打ち込んでいる錯覚に囚われた程近似
していたために横にらみしたところ分かったのである。

『後太平記』・『中古日本治乱記』の信憑性を『信長公記』などの信憑性が高いものと
比較検証してきたが、豊臣秀吉に仕えた山中長俊と織田信長に仕えた太田牛一は共に
石山本願寺と戦ってきた。
『後太平記』『中古日本治乱記』には数百年にわたる事案が記載されており全体を見渡せば
仮作・仮託等といわれても仕方がないかもしれない。
しかし、小生が検証しているように戦国時代特に石山本願寺との戦いと限定して検証すれば
信憑性は高いと認識できるのではないか。











小蜜茶雑賀三緘についてのその後の追跡調査・・・確証

2016-06-17 23:37:58 | 調査
前回は一呼吸して雑賀家譜に記載あるなかで、紀州藩江戸屋敷と和歌山城のそれぞれに女中職として
務めた姉妹の職歴を記載いたしました。女中職の内容は江戸城の大奥を基本としているために
職制はほぼ同一内容である。しかし、どの位の期間でで昇進していったかはどの本を見ても記載はない。
当祖母の実家の家譜には幸いにして記載があり昇進の状況が分かったと思います。
 現実には現社会と何ら変わりはない。それは姉妹の親の昇進もまたしかりである。前回は親の
昇進には触れなかったが、これはいずれの家譜にも記載があり調べればわかる。しかし、女中職
の昇進の記載ある家譜はそうそうない(和歌山市立博物館の学芸員の話)とのことで報告いたしました。
藩士の職制と女中職の職制は「南紀徳川史」に記載あり。

本題の雑賀三緘についてその後調査した結果を報告したいと思います。東京での調査は限定的であり
国会図書館や国立公文書館などでの史料をもとにするしか手段はない。ない中でもまだ史料を探し出せる
点では恵まれているのか。
 今回は国立公文書館に出向き調査した史料からの見つけ出したものである。しかし、入手した雑賀衆
関連の書籍を再確認していた中からも公文書館で見つけたのも同一の書籍であった。其の史料名は
「南紀士姓旧事記」である。この「南紀士姓旧事記」については「南紀徳川史」の中にも記載がある。

「南紀徳川史」には下記の通りの記載あり。
「明暦年中李梅渓鳥羽源兵衛公命を奉し調査したる紀州地士武功覚書を的場源四郎謄写し南紀士姓旧
事記と題せし也。之を元禄五年佐武某名草郡隠士松壽館某等伝写寫元文五年榮相軒矼眠なる者亦伝寫
の上国治由来と云を其序文に加へたり。尚終りに地士に関する事及び紀国に係る古事録を補綴あり。
此の補綴亦矼眠龍の如く加ふる處なるや詳ならず。故に単に故事録と題せし一本もあり」とあり。

「的場源四郎謄写し」とある的場源四郎について「南紀徳川史」第五冊に記載があり確かな人物である。
その的場源四郎が謄写した中に雑賀三緘も「同 三入道」として鈴木孫一とともに記載されているのである。
 ※同 三入道:鈴木(同)三緘入道として「後太平記」に記述。

「南紀士姓旧事記」に記載されている「後太平記」に記載されている人物が登場する案件は下記の通りである。
  記載内容の詳細は割愛し人物のみ記載する。
        
    記

 ・後太平記下 巻第三十四 泉州久米田合戦之事
   「其比紀伊国・・・・・・・・・
    皆義を鐵石よりも堅く誓って寄せ来る敵を待ち向ふ、斯る處に、畠山紀伊守高政、同宮内少輔、
    同刑部大輔、遊佐河内守、山本兵部大輔、野口左衛門尉、湯浅小次郎、白井備後守、渡邊藤左衛門
    太郎、鈴木孫九郎、同孫市、土橋小平次、平三郎七郎、的場七郎兵衛尉、志貴十郎、十市左近将監、
    飯塚三郎左衛門尉、平 一揆、清水勘七、田邉式部少輔、田丸兵部大輔龍門大善、宮崎東市正、
    ・・・・・」

 ・後太平記下  巻第四十 将軍摂州御發向之事 附一向門跡一揆之事
   「六條本國寺・・・・・・・
    斯かる處に紀伊の住人雑賀孫市郎、同三緘入道、岡崎三郎大夫、渡部藤左衛門、的場源七、
    土橋平次、根来法師岩室清裕、各一萬餘騎にて・・・・・」
 
 ・後太平記下 巻第四十一 諸城計禦之事
   「将軍已に備前国に・・・・・・紀州雑賀三緘入道、鱸孫市、的場源七郎は、一揆一萬餘人を率し、
    和泉國千石塚に堀を築き、門跡一揆・・・・・」

 ・後太平記下 巻第四十ニ 摂州大坂一向門跡合戦之事 ⇒天王寺合戦
   「織田信長の武威益天下を呑む、・・・・・・・、天正四年の四月十四日に惟任日向守、長岡兵部大輔、
    筒井順慶、原田備中守に三萬餘騎・・・・・・、其比雑賀孫市郎、同三緘入道、的場源七郎、
    渡部藤左衛門尉、岡崎三郎大夫、土橋平次、根来法師岩室清裕、各一手に成り・・・・・」
 
 上記に対して、「南紀士姓旧事記」に記載の記載の人物は下記である。

   「後太平記ニ出ㇽ当國之士名
    畠山紀伊守高政  遊佐河内守  山本兵部大夫
    野口左衛門尉   湯浅小次郎  白井備後守
    渡邊左衛門尉   鈴木孫九郎  的場源七兵衛
    同 藤左衛門尉  同 孫市   同 源七郎
             同 三入道
    土橋平次     貴志十郎   十郎左衛門監物
    同小次郎
    清水勘七     田辺民部少輔 根本岩室清裕
                                 ・・・・・・・」

 祖母の雑賀家譜に記載ある小蜜茶雑賀三緘は実在人物である。紀州徳川藩に仕官するために武功を
掲げ実在しない人物が先祖であるとして記載されているのではない。
数代にわたり家譜を藩に提出しており付箋などの追加訂正箇所は雑賀家譜にはないのである。
 
 当初にも記述したが「後太平記」は豊臣秀吉の祐筆の山中長俊が「信長公記」を書い太田牛一から
進められて「中古日本治乱記」を書き、後太平記を書いた多々良一龍はその「中古日本治乱記」より
石山本願寺(一向宗)関連記事を引用したものであり家譜は事実を書き込んでいると小生は考える。
それは上記の通り藩からの修正の指摘は一切ないのである。

今まで、祖母の実家の雑賀家譜に記載されている「小蜜茶雑賀三緘」について考察してきたが、
「後太平記」自体は信ぴょう性が高いとは言えないかもしれないが、戦国時代と狭く限定して捉えれば
当事者も生存しており正確さは確かなものではないか。
   









   

雑賀家譜見直し(女中職について)

2016-01-03 20:15:08 | 調査
亡き祖祖母の実家の「雑賀家家譜」に記載されている事柄を今迄調査してきたことを一通り報告
してきたが、雑賀衆の史料が乏しい為再度見直しを現在進行中。
雑賀衆雑賀三緘(カン)について今迄報告して参りましたが、今回は小生が教科書で習ったことが
ない家譜記載内容について報告して行きたいと思います。
それは大奥の女中職についてです。幕府の大奥とは比べものになりませんが、紀州藩でも
同じ様な制度になっている。
「南紀徳川史」に女中職が記載されており、幕府の女中職とほぼ同じである。職務内容は同じで
あるが人数・給金は多少少ない傾向にある。
家譜に記載ある老女が二名(姉妹)おり、一人は妹は江戸上屋敷で鶴樹院(豊姫)に、姉は和歌山
浜御殿で治寶に仕え勤めた。
ほぼ同時期に女中職についたが、出世に差が出ている。又同じ位の年齢にて女中職として仕え
始めたが、スタートの役職に差が生じているのだ。同じ親なのにどうして差が出ているのだろうか。

当家には明治以降「武士の商法」とやらで事業に失敗し、先祖伝来のものを売って生活の足しに
したと父親に聞かされていたために女中として仕えたことを記した古文書などはないために
和歌山県立文書館並びに和歌山市立博物館のホームページ等で調べて見ると、幸いにも学芸員の方が
紀州藩にて書かれていた古文書から論文「和歌山市立博物館:研究紀要第29号」で発表していること
を発見。
それは和歌山県立文書館所蔵の「紀州家中系譜並に親類書書上げ」にある記録から分析をしている。
当雑賀家譜もこの書上げのなかにふくまれている。同史料は一万五千点を越える点数の史料で
膨大であるためにそのなかから約二千点から抽出した記録から武家層における女中採用について
分析されている。
女中職については「南紀徳川史」をはじめ大奥に関する書籍にて女中職の役割について記載されて
いるが、どの位の期間で位が上がっていくことは記載されていない。しかし当雑賀家譜には
幸いにも職種が代わるごとに年代が記載されているためどの位の期間で上がっていったかが
判明出来た。
それによると十三才頃より女中職としてお城勤めし老女になるまでは現代社会と同じで四十年
前後の年数が懸っている。これは父親の職歴も同様に記載されているが、現代社会と全く同じく
数十年掛け下記の通り昇進していく。
 
 (姉) 寛政12年(1800年)御三之間格      (妹)文化元年(1804年)  御伽
     享和2年(1802年) 呉服之間格         文化6年(1809年)   御小姓
     文化7年(1810年) 御次格           文化7年(1810年)  御中
     文化9年(1812年) 御次            文化13年(1816年) 若年寄
     文化10年(1813年) 表使格           天保3年(1832年)  老女格
     文化13年(1816年) 御錠口           天保6年(1823年)  老女
     文政9年(1826年) 若年寄格          弘化2年(1845年)鶴樹院死去に伴い剃髪
     天保11年(1840年) 老女格
     嘉永6年(1853年)  治寶死去に伴い剃髪

次回はもとに戻り雑賀三緘について少し分かったことを報告いたします。