今まで、亡き祖母の実家である雑賀家の「雑賀家譜」を和歌山県立文書館刊行の「紀州家中系譜並に親類書書上げ」
上巻から資料番号NO.5914、5915、5916、5917、5918を入手し、その中に「中古日本治乱記」及び「後太平記」に記載
が有る「小蜜茶雑賀三緘(雑賀三緘(入道)」の確認と「中古日本治乱記」及び「後太平記」の記載内容の信憑性、特に戦国
時代に限定し他の資料を参考として検証考察してきた結果を今までに報告してきた(詳細は記事をご覧ください)。
即ち雑賀家譜に ・・・ (第四回参照願います)
『「先祖書 雑賀佐之右衛門 」
・・・中略・・・・
元祖 本国紀伊 小蜜茶雑賀三緘
生国紀伊
・・・中略・・・・ 天正十二年
権現様豊臣家と小牧 御陣之節
権現様之御味方仕、雑賀・太田等被 召、 泉州
岸和田ニ搆籠り候、中村孫平次を追落し、
堺迄出、豊臣家之留守攻討候由、 且雑賀三緘、
根来寺エ登山之節は杉之坊ニ
相詰候付、世人根来之小蜜茶と申候由・・・中略・・・・』と有り。
この内容を基に十数回に亘り検証考察してきた。
そして前回は、「後太平記」に記載がある紀州士名が的場源四郎謄写の「南紀士姓旧事記」にも記載されており「雑賀三緘
入道(同 三入道)が確認出来た。「南紀士姓旧事記」は「南紀徳川史」 第十一冊に記載されている。
今回は今までの報告を踏まえ更に追跡調査し再考察した結果を下記の通り報告する。
記
「本願寺文書(千葉乗隆・北西弘著)」33顕如消息(天正四年四月十八日)の解説によれば、『信長と不和となっていた
将軍義昭は、備後の鞆津に滞在し、安芸の毛利氏に本願寺支援の出兵を勧めるとともに、越後の上杉氏にも上洛を促
ていた。
・・・中略・・・・
この本願寺と毛利氏との同盟締結に基づいて、毛利氏は翌天正四年(1576)二月以来、大坂に兵船を派遣して協力
させることになった。』とあり。(本文は省略)
信長包囲網構築が着々と整えられ臨戦態勢が出来上がってきた。
これに基づき、第十一回報告した内容とが絡んで来る。即ち、
○後太平記下巻「諸城警禦之事」(地部巻第41)
『将軍則已に備後ノ國に下向あって、毛利、小早川を頼ませ給ひ、上洛御座由聞こえしかば、畿内、中国の武士共
大半味方に馳せ加る。・・・中略・・・・
淡路岩屋の城には丹地太郎兵衛ノ尉、神野加賀ノ守、小林民部ノ少輔、三百餘騎にて討入り、紀州雑賀三緘入道、
鱸孫市、的場源七郎は一萬餘人を率し、和泉ノ國千石に堀を築き、門跡一揆を輔け、将軍上洛を待向ふ、
・・・中略・・・・』とあり。
○中古日本治乱記「将軍方所々蜂起之事」(天正四年巻第55)
『将軍義昭卿既に備後国に御下向有テ毛利右馬カミ頭輝元吉川駿河守元春小早川左衛門佐藤隆景一味シ大軍ヲ師テ御
上洛アルヘシト聞ヘシカハ将軍方ハ不及申信長ニ恨ヲ含ムトモカラ畿内中国ノ武士トモ暫く悉ク陰謀ヲ企ツ中ニモ・・・中略・・・・
淡路岩屋城ヘハ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林民部少輔三百餘騎ニテ討納紀州雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ
一揆一萬人ヲシ和泉千石塚ニ城ヲ築門跡ノ一揆ヲ輔将軍ノ御上洛ヲ待向フ・・・中略・・・・』と有り。
「本願寺文書」の内容と「後太平記」「中古日本治乱記」の記載内容とは一致するのである。
次に第十二回にて報告した事案が絡んでくる。
○後太平記下巻「摂州大坂一向門跡合戦之事(地部巻第42)
『織田信長・・・中略・・・・
天正四年の四月十四日ニ、惟任日向ノ守、長岡兵衛尉ノ尉大輔、筒井順慶原田備中ノ守に三萬餘騎を属け摂州に
向けられたり、其勢森口、野田、福島に勢揃へて陣を取る、原田備中ノ守は江口、神崎、難波河口を放火し、茶臼山に
府城築いて、南方より攻寄せける、城内には下間刑部法印、同少進法橋・・・中略・・・・
五月三日の朝陽に和泉・・・中略・・・・
箕浦無右衛門ノ尉、塙喜三郎、同小七郎、丹羽小四郎、宗徒の勇五十騎餘討たれ、・・・中略・・・・
同月六日に三萬餘騎を引率し、京都を発し、天王寺に陣を取り、勢急りに見えければ、一揆中有に忍へ難く、城内に引き
入りける、これに因て佐久間右衛門ノ尉を茶臼山・・・中略・・・・
斯比雑賀孫市郎、同三入道、的場源七郎、渡邊藤左衛門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来法師岩室清裕、各一手に成り、紀伊の勢
一萬餘、和泉ノ國に討ち出で、中野、貝塚、千石堀に楯籠り、門跡一揆に一味して・・・中略・・・・』と有り。
○中古日本治乱記「責大坂本願寺門跡事」(巻第56)
『去程ニ本願寺門跡光佐上人・・・中略・・・・
四月十四日ニ信長下知シテ細川兵部大輔藤孝荒木摂津守村重惟任日向守光秀原田備中守正次筒井順慶等ヲ以テ・・・中略・・・・
原田政次戦ヒ死ス・・・中略・・・・
五月ノ上旬安土ヲ発ス・・・中略・・・・
佐久間右衛門尉信盛息甚九郎等ニ下知シ天王ノ城ヲ守ラセ又進藤山城守秀盛松永弾正忠久秀以下ノ将士ヲ以テ附城十箇所
ヲ相ラセ
同年六月ニハ信長ノ軍士ヲ引率シテ安土ノ城ヘソ皈リケリ』とあり。
○信長公記「原田備中、御(三)津寺ヘ取出討死の事」(巻九)
『四月十四日、荒木摂津守、長岡兵衛大輔、惟任日向守、原田備中四人に仰せつけられ、上方の御人数相加ヘラれ、
大坂へ推し詰め、荒木摂津守は・・・中略・・・・
五月三日、早朝、先は三好笑岩、根来、和泉衆。二段は原田備中、・・・中略・・・・
既に、原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎、枕を並べて討死なり。・・・中略・・・・』と有り。
○信長公記「御後巻再三御合戦の事」(巻九)
『五月五日、後詰として、御馬を出され・・・中略・・・・
五月七日、御馬を寄せられ・・・中略・・・・
御先一段、佐久間右衛門、松永弾正、長岡兵部大輔、若江衆・・・中略・・・・
二段、滝川左近、蜂屋兵庫、羽柴筑前、惟住五郎左衛門、稲葉伊予、氏家左京助、伊賀伊賀守、
三段御備、御馬廻、
・・・中略・・・・
天王寺には、佐久間右衛門、甚九郎、進藤山城、松永弾正、松永右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、
山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定番として置かれ・・・中略・・・・
六月五日、御馬を納められ、其の日、若江に御泊り、・・・中略・・・・。翌日、安土に至りて御帰陣。
・・・中略・・・・』と有り。
上述の通り、将軍義昭は毛利氏に本願寺支援の出兵を勧めるとともに、越後の上杉氏にも上洛を促し、
本願寺は義昭の計略に従って上杉謙信と通ずると同時に、毛利輝元らに説き、毛利氏は天正四年二月
以来、大坂に兵船を派遣。将軍義昭、本願寺側は、信長包囲網を着々と構築していき信長との戦に備えた。
石山本願寺の籠城体制は「中古日本治乱記」「後太平記」には記載がないが「石山退去録」及び「陰徳
太平記」に記載がある。「陰徳太平記」は「石山退去録」より引用したのではないかと小生は考えます。
○石山退去録:(日本歴史文庫 編輯主任 黒川真道による)
『天正四年五月六日の合戦に、石山の要害は堅固にて、逆茂木五重にふり並べ、其内に幅五間の空堀を
深く掘り、其後には水堀をこしらへ、城中の軍兵凡そ六萬餘騎、扨浮武者といひて、一手が千騎づつ七組
ある事ちゃ。
先ず一番に下間三位、二番には八木駿河守、三番には鈴木孫市、四番には同一角、五番には田邉平次、
六番には根来小蜜茶、七番には山田新助。此等は皆一騎当千の勇兵なれば敵を討取る謀なり。
・・・中略・・・・』と有り。
○陰徳太平記:香川宜阿著 通俗日本全史第十四巻
『同五日上人處々の櫓へ上り給ひ、・・・中略・・・・
城中には、総軍六萬騎、其中に下間三位、八木駿河守、鈴木孫市、同一楠、田邉平次、根来の小蜜茶、
山田新助等を大将として、・・・中略・・・・』と有り。
⇒「石山退去録」にある、雑賀孫市が小蜜茶か、雑賀一楠が小蜜茶か、田邉平次が小蜜茶か、 山田新助が小蜜茶か、
岡崎三郎太夫が小蜜茶か、渡部藤左衛門が小蜜茶か、そうではない。後残るのが雑賀三緘入道である。
石山本願寺の六番目の根来の小蜜茶こそが雑賀三緘入道なのである。
雑賀三緘入道こそが根来の小蜜茶であることを証明するために「中古治乱記」「後太平記」「信長公記」
等に記載がある雑賀三緘入道関係を上述の通り記した。
又、「中古日本治乱記」特に「後太平記」より引用したとおもわれる次のような名所図会や全志もある。
○「和泉名所図会」 巻之4-04
『天正年中、本願寺の門徒、平信長と對陣して、摂州大坂の城に籠居す。其時、紀伊國雑賀孫市郎、
同入道三緘、的場源七郎、渡部藤左衛門、岡崎三郎太夫、土橋平治、根来岩室坊清裕等、各一萬騎、和泉
國畠中、千石堀、貝塚の要害に入って、大坂城を助力す。又、天正五年二月、平ノ信長、紀州雑賀逆徒を
攻むる。雑賀党、和泉國貝塚辺、 所々の要害を固むといへとも、来軍の猛勢に對しかたく、二月十六日夜、
退散す。』とあり。
○「大阪府全志」:千石堀城址 第五巻
『貝塚市にある根来寺前線砦群の一つで、近木川沿いにある主城的なるもの、対秀吉戦では一番犠牲者が
多い戦いになった。
天正年間本願寺門徒の摂州石山城に據りて織田信長と争うや、紀州の雑賀孫一郎・同三入道・土橋平次・
的場源七郎・岡崎三郎太夫及び根来岩室清裕等は、一萬餘騎を引きいて当國に入り、当城及び畠中・貝塚の要塞
に據りて之に応援し、以て信長を悩ませしかば、信長は天正五年二月雑賀征伐の途に就きて諸城に迫りければ、
同月十六日悉く潰走せり。
同十二年小牧・長久手の役起るに及び、根来の衆徒は復織田氏・徳川氏に聲息をつじて豊臣秀吉に抗せしかば、
秀吉は中村一氏を岸和田城に置きて之に當らしめ、自ら兵を率いて尾張に進みたるに、根来の衆徒は當城
及び積善寺・澤・畠中・高井の諸塞に占據して、その勢・・・中略・・・・』とあり。
○「大阪府全志」:貝塚城の阿址 第五巻
『貝塚城のありし所なれど、今斯の址は詳ならず、城は天正年中石山本願寺門徒の織田信長と争へるに際し、
紀州の雑賀孫一郎・同三入道・土橋平次・的場源七郎・岡崎三郎太夫・根来岩室清裕等の壱萬餘騎を率ゐて
當國に出で、當城及び千石堀・畠中の諸城に楯籠りて本願寺門徒にオウエ應援せる所なりしか・・・中略・・・・』
とあり。
以上が「後太平記」「中古日本治乱記」に小蜜茶雑賀三緘関連の記載があるものである。
小蜜茶雑賀三緘(カン)についてですが和歌山県立文書館刊行の「紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)
によれば、『藩に提出された系譜の中には担当の役人、おそらく提出先と考えられる御用部屋の役人
によって多くの修正の付箋や張り紙が貼られている冊子がある。この付箋・張り紙は単に書式を直され
ているだけのものもあるが、なかには差出人本人が記していない事実を付箋に記し貼りつけているもの
もあった。』と言うように紀州で有名な小蜜茶が間違いであれば当然修正の付箋や張り紙が貼られているはずで
あるが、雑賀家譜には一切ないのである。
家譜の記載内容に疑義が持たれたならば、当然小蜜茶に関する史料や証明するもを藩に要求され提出したこと
であろう。(史料等は残念ながら家計困窮の折り、父の長兄が務めていた会社の社長殿に一括して買上て頂いたとのこと)
その結果、雑賀家譜は正しいが為に一切の修正の付箋も張り紙も貼られていないと推察する。
このことからして、小蜜茶雑賀三緘は間違いなく亡き祖母の実家の家譜に記載通りであると小生は確信する。
上巻から資料番号NO.5914、5915、5916、5917、5918を入手し、その中に「中古日本治乱記」及び「後太平記」に記載
が有る「小蜜茶雑賀三緘(雑賀三緘(入道)」の確認と「中古日本治乱記」及び「後太平記」の記載内容の信憑性、特に戦国
時代に限定し他の資料を参考として検証考察してきた結果を今までに報告してきた(詳細は記事をご覧ください)。
即ち雑賀家譜に ・・・ (第四回参照願います)
『「先祖書 雑賀佐之右衛門 」
・・・中略・・・・
元祖 本国紀伊 小蜜茶雑賀三緘
生国紀伊
・・・中略・・・・ 天正十二年
権現様豊臣家と小牧 御陣之節
権現様之御味方仕、雑賀・太田等被 召、 泉州
岸和田ニ搆籠り候、中村孫平次を追落し、
堺迄出、豊臣家之留守攻討候由、 且雑賀三緘、
根来寺エ登山之節は杉之坊ニ
相詰候付、世人根来之小蜜茶と申候由・・・中略・・・・』と有り。
この内容を基に十数回に亘り検証考察してきた。
そして前回は、「後太平記」に記載がある紀州士名が的場源四郎謄写の「南紀士姓旧事記」にも記載されており「雑賀三緘
入道(同 三入道)が確認出来た。「南紀士姓旧事記」は「南紀徳川史」 第十一冊に記載されている。
今回は今までの報告を踏まえ更に追跡調査し再考察した結果を下記の通り報告する。
記
「本願寺文書(千葉乗隆・北西弘著)」33顕如消息(天正四年四月十八日)の解説によれば、『信長と不和となっていた
将軍義昭は、備後の鞆津に滞在し、安芸の毛利氏に本願寺支援の出兵を勧めるとともに、越後の上杉氏にも上洛を促
ていた。
・・・中略・・・・
この本願寺と毛利氏との同盟締結に基づいて、毛利氏は翌天正四年(1576)二月以来、大坂に兵船を派遣して協力
させることになった。』とあり。(本文は省略)
信長包囲網構築が着々と整えられ臨戦態勢が出来上がってきた。
これに基づき、第十一回報告した内容とが絡んで来る。即ち、
○後太平記下巻「諸城警禦之事」(地部巻第41)
『将軍則已に備後ノ國に下向あって、毛利、小早川を頼ませ給ひ、上洛御座由聞こえしかば、畿内、中国の武士共
大半味方に馳せ加る。・・・中略・・・・
淡路岩屋の城には丹地太郎兵衛ノ尉、神野加賀ノ守、小林民部ノ少輔、三百餘騎にて討入り、紀州雑賀三緘入道、
鱸孫市、的場源七郎は一萬餘人を率し、和泉ノ國千石に堀を築き、門跡一揆を輔け、将軍上洛を待向ふ、
・・・中略・・・・』とあり。
○中古日本治乱記「将軍方所々蜂起之事」(天正四年巻第55)
『将軍義昭卿既に備後国に御下向有テ毛利右馬カミ頭輝元吉川駿河守元春小早川左衛門佐藤隆景一味シ大軍ヲ師テ御
上洛アルヘシト聞ヘシカハ将軍方ハ不及申信長ニ恨ヲ含ムトモカラ畿内中国ノ武士トモ暫く悉ク陰謀ヲ企ツ中ニモ・・・中略・・・・
淡路岩屋城ヘハ丹地太郎兵衛尉神野加賀守小林民部少輔三百餘騎ニテ討納紀州雑賀三緘入道鱸孫市的場源七郎ハ
一揆一萬人ヲシ和泉千石塚ニ城ヲ築門跡ノ一揆ヲ輔将軍ノ御上洛ヲ待向フ・・・中略・・・・』と有り。
「本願寺文書」の内容と「後太平記」「中古日本治乱記」の記載内容とは一致するのである。
次に第十二回にて報告した事案が絡んでくる。
○後太平記下巻「摂州大坂一向門跡合戦之事(地部巻第42)
『織田信長・・・中略・・・・
天正四年の四月十四日ニ、惟任日向ノ守、長岡兵衛尉ノ尉大輔、筒井順慶原田備中ノ守に三萬餘騎を属け摂州に
向けられたり、其勢森口、野田、福島に勢揃へて陣を取る、原田備中ノ守は江口、神崎、難波河口を放火し、茶臼山に
府城築いて、南方より攻寄せける、城内には下間刑部法印、同少進法橋・・・中略・・・・
五月三日の朝陽に和泉・・・中略・・・・
箕浦無右衛門ノ尉、塙喜三郎、同小七郎、丹羽小四郎、宗徒の勇五十騎餘討たれ、・・・中略・・・・
同月六日に三萬餘騎を引率し、京都を発し、天王寺に陣を取り、勢急りに見えければ、一揆中有に忍へ難く、城内に引き
入りける、これに因て佐久間右衛門ノ尉を茶臼山・・・中略・・・・
斯比雑賀孫市郎、同三入道、的場源七郎、渡邊藤左衛門ノ尉、岡崎三郎大夫、根来法師岩室清裕、各一手に成り、紀伊の勢
一萬餘、和泉ノ國に討ち出で、中野、貝塚、千石堀に楯籠り、門跡一揆に一味して・・・中略・・・・』と有り。
○中古日本治乱記「責大坂本願寺門跡事」(巻第56)
『去程ニ本願寺門跡光佐上人・・・中略・・・・
四月十四日ニ信長下知シテ細川兵部大輔藤孝荒木摂津守村重惟任日向守光秀原田備中守正次筒井順慶等ヲ以テ・・・中略・・・・
原田政次戦ヒ死ス・・・中略・・・・
五月ノ上旬安土ヲ発ス・・・中略・・・・
佐久間右衛門尉信盛息甚九郎等ニ下知シ天王ノ城ヲ守ラセ又進藤山城守秀盛松永弾正忠久秀以下ノ将士ヲ以テ附城十箇所
ヲ相ラセ
同年六月ニハ信長ノ軍士ヲ引率シテ安土ノ城ヘソ皈リケリ』とあり。
○信長公記「原田備中、御(三)津寺ヘ取出討死の事」(巻九)
『四月十四日、荒木摂津守、長岡兵衛大輔、惟任日向守、原田備中四人に仰せつけられ、上方の御人数相加ヘラれ、
大坂へ推し詰め、荒木摂津守は・・・中略・・・・
五月三日、早朝、先は三好笑岩、根来、和泉衆。二段は原田備中、・・・中略・・・・
既に、原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、箕浦無右衛門、丹羽小四郎、枕を並べて討死なり。・・・中略・・・・』と有り。
○信長公記「御後巻再三御合戦の事」(巻九)
『五月五日、後詰として、御馬を出され・・・中略・・・・
五月七日、御馬を寄せられ・・・中略・・・・
御先一段、佐久間右衛門、松永弾正、長岡兵部大輔、若江衆・・・中略・・・・
二段、滝川左近、蜂屋兵庫、羽柴筑前、惟住五郎左衛門、稲葉伊予、氏家左京助、伊賀伊賀守、
三段御備、御馬廻、
・・・中略・・・・
天王寺には、佐久間右衛門、甚九郎、進藤山城、松永弾正、松永右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、
山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定番として置かれ・・・中略・・・・
六月五日、御馬を納められ、其の日、若江に御泊り、・・・中略・・・・。翌日、安土に至りて御帰陣。
・・・中略・・・・』と有り。
上述の通り、将軍義昭は毛利氏に本願寺支援の出兵を勧めるとともに、越後の上杉氏にも上洛を促し、
本願寺は義昭の計略に従って上杉謙信と通ずると同時に、毛利輝元らに説き、毛利氏は天正四年二月
以来、大坂に兵船を派遣。将軍義昭、本願寺側は、信長包囲網を着々と構築していき信長との戦に備えた。
石山本願寺の籠城体制は「中古日本治乱記」「後太平記」には記載がないが「石山退去録」及び「陰徳
太平記」に記載がある。「陰徳太平記」は「石山退去録」より引用したのではないかと小生は考えます。
○石山退去録:(日本歴史文庫 編輯主任 黒川真道による)
『天正四年五月六日の合戦に、石山の要害は堅固にて、逆茂木五重にふり並べ、其内に幅五間の空堀を
深く掘り、其後には水堀をこしらへ、城中の軍兵凡そ六萬餘騎、扨浮武者といひて、一手が千騎づつ七組
ある事ちゃ。
先ず一番に下間三位、二番には八木駿河守、三番には鈴木孫市、四番には同一角、五番には田邉平次、
六番には根来小蜜茶、七番には山田新助。此等は皆一騎当千の勇兵なれば敵を討取る謀なり。
・・・中略・・・・』と有り。
○陰徳太平記:香川宜阿著 通俗日本全史第十四巻
『同五日上人處々の櫓へ上り給ひ、・・・中略・・・・
城中には、総軍六萬騎、其中に下間三位、八木駿河守、鈴木孫市、同一楠、田邉平次、根来の小蜜茶、
山田新助等を大将として、・・・中略・・・・』と有り。
⇒「石山退去録」にある、雑賀孫市が小蜜茶か、雑賀一楠が小蜜茶か、田邉平次が小蜜茶か、 山田新助が小蜜茶か、
岡崎三郎太夫が小蜜茶か、渡部藤左衛門が小蜜茶か、そうではない。後残るのが雑賀三緘入道である。
石山本願寺の六番目の根来の小蜜茶こそが雑賀三緘入道なのである。
雑賀三緘入道こそが根来の小蜜茶であることを証明するために「中古治乱記」「後太平記」「信長公記」
等に記載がある雑賀三緘入道関係を上述の通り記した。
又、「中古日本治乱記」特に「後太平記」より引用したとおもわれる次のような名所図会や全志もある。
○「和泉名所図会」 巻之4-04
『天正年中、本願寺の門徒、平信長と對陣して、摂州大坂の城に籠居す。其時、紀伊國雑賀孫市郎、
同入道三緘、的場源七郎、渡部藤左衛門、岡崎三郎太夫、土橋平治、根来岩室坊清裕等、各一萬騎、和泉
國畠中、千石堀、貝塚の要害に入って、大坂城を助力す。又、天正五年二月、平ノ信長、紀州雑賀逆徒を
攻むる。雑賀党、和泉國貝塚辺、 所々の要害を固むといへとも、来軍の猛勢に對しかたく、二月十六日夜、
退散す。』とあり。
○「大阪府全志」:千石堀城址 第五巻
『貝塚市にある根来寺前線砦群の一つで、近木川沿いにある主城的なるもの、対秀吉戦では一番犠牲者が
多い戦いになった。
天正年間本願寺門徒の摂州石山城に據りて織田信長と争うや、紀州の雑賀孫一郎・同三入道・土橋平次・
的場源七郎・岡崎三郎太夫及び根来岩室清裕等は、一萬餘騎を引きいて当國に入り、当城及び畠中・貝塚の要塞
に據りて之に応援し、以て信長を悩ませしかば、信長は天正五年二月雑賀征伐の途に就きて諸城に迫りければ、
同月十六日悉く潰走せり。
同十二年小牧・長久手の役起るに及び、根来の衆徒は復織田氏・徳川氏に聲息をつじて豊臣秀吉に抗せしかば、
秀吉は中村一氏を岸和田城に置きて之に當らしめ、自ら兵を率いて尾張に進みたるに、根来の衆徒は當城
及び積善寺・澤・畠中・高井の諸塞に占據して、その勢・・・中略・・・・』とあり。
○「大阪府全志」:貝塚城の阿址 第五巻
『貝塚城のありし所なれど、今斯の址は詳ならず、城は天正年中石山本願寺門徒の織田信長と争へるに際し、
紀州の雑賀孫一郎・同三入道・土橋平次・的場源七郎・岡崎三郎太夫・根来岩室清裕等の壱萬餘騎を率ゐて
當國に出で、當城及び千石堀・畠中の諸城に楯籠りて本願寺門徒にオウエ應援せる所なりしか・・・中略・・・・』
とあり。
以上が「後太平記」「中古日本治乱記」に小蜜茶雑賀三緘関連の記載があるものである。
小蜜茶雑賀三緘(カン)についてですが和歌山県立文書館刊行の「紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)
によれば、『藩に提出された系譜の中には担当の役人、おそらく提出先と考えられる御用部屋の役人
によって多くの修正の付箋や張り紙が貼られている冊子がある。この付箋・張り紙は単に書式を直され
ているだけのものもあるが、なかには差出人本人が記していない事実を付箋に記し貼りつけているもの
もあった。』と言うように紀州で有名な小蜜茶が間違いであれば当然修正の付箋や張り紙が貼られているはずで
あるが、雑賀家譜には一切ないのである。
家譜の記載内容に疑義が持たれたならば、当然小蜜茶に関する史料や証明するもを藩に要求され提出したこと
であろう。(史料等は残念ながら家計困窮の折り、父の長兄が務めていた会社の社長殿に一括して買上て頂いたとのこと)
その結果、雑賀家譜は正しいが為に一切の修正の付箋も張り紙も貼られていないと推察する。
このことからして、小蜜茶雑賀三緘は間違いなく亡き祖母の実家の家譜に記載通りであると小生は確信する。