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学位辞退に見る漱石像

2008-02-25 10:17:05 | 漱石の横顔

Soseki 明治44年2月20日、入院中で留守宅の漱石宅へ文部省より学位号授与の通知があります。その知らせを受けた漱石は翌21日文部省宛以下の手紙を送っています。

拝啓昨二十日夜十時頃私留守宅へ(私は目下表記の処に入院中)本日午前十時学位を授与するから出頭しろと云う御通知が参つたさうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病気で出頭しかねる旨を御答へして置いたと申して参りました。
学位授与と申すと二三日前の新聞で承知した通り博士会で小生を博士に推薦されたに就て、右博士の称号を小生に授与になる事かと存じます。然る処小生は今日迄ただの夏目なにがしとして世を渡つて参りましたし、是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります。従つて私は博士の学位を頂きたくないのであります。此際御迷惑を掛けたり御面倒を願つたりするのは不本意でありますが右の次第故学位授与の儀は御辞退致したいと思ひます。宜敷御取計を願ひます。敬具

と漱石は博士号を辞退するわけですが、何故漱石は博士号を辞退するのかがわからない方がおられるでしょう。このことについて漱石は『博士問題の成行』という題で述べています。長くなりますが、漱石先生の気持ちがそのまま伝わるでしょうから全文を引用します。

この、『博士問題の成行』の漱石先生の言葉は僕の好きな先生の言行の一つです。
漱石先生は「自然の美しさを自分自身の目で発見する喜びを持て」と弟子に云っています。名誉や地位、権力や金力というものにとかく人は盲目になってしまうと懸念し、多くの人にそうした怖さというものを伝えてきていますが、自らそれを実践する美しい人間漱石が見える様な気がします。

こんな僕でさえ、これを失ったら自分ではないという暖めている信念があります。
周りからすれば意固地に見えるのかも知れませんが、僕はこうした生き様は漱石先生からも譲られた宝として、これからも大事にしていきたいと思うのです。

 二月二十一日に学位を辞退してから、二カ月近くの今日に至るまで、当局者と余とは何らの交渉もなく打過ぎた。ところが四月十一日に至って、余は図らずも上田万年、芳賀矢一二博士から好意的の訪問を受けた。二博士が余の意見を当局に伝えたる結果として、同日午後に、余はまた福原専門学務局長の来訪を受けた。局長は余に文部省の意志を告げ、余はまた局長に余の所見を繰返して、相互の見解の相互に異なるを遺憾とする旨を述べ合って別れた。
 翌十二日に至って、福原局長は文部省の意志を公けにするため、余に左の書翰を送った。実は二カ月前に、余が局長に差出した辞退の申し出に対する返事なのである。
「復啓二月二十一日付を以て学位授与の儀御辞退相成たき趣御申出相成候処已に発令済につき今更御辞退の途もこれなく候間御了知相成たく大臣の命により別紙学位記御返付かたがたこの段申進候敬具」
 余もまた余の所見を公けにするため、翌十三日付を以て、下に掲ぐる書面を福原局長に致した。
「拝啓学位辞退の儀は既に発令後の申出にかかる故、小生の希望通り取計らいかぬる旨の御返事を領し、再応の御答を致します。
「小生は学位授与の御通知に接したる故に、辞退の儀を申し出でたのであります。それより以前に辞退する必要もなく、また辞退する能力もないものと御考えにならん事を希望致します。
「学位令の解釈上、学位は辞退し得べしとの判断を下すべき余地あるにもかかわらず、毫も小生の意志を眼中に置く事なく、一図に辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。
「文部大臣が文部大臣の意見として、小生を学位あるものと御認めになるのはやむをえぬ事とするも、小生は学位令の解釈上、小生の意思に逆って、御受をする義務を有せざる事を茲に言明致します。
「最後に小生は目下我邦における学問文芸の両界に通ずる趨勢に鑒みて、現今の博士制度の功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します。
「右大臣に御伝えを願います。学位記は再応御手許まで御返付致します。敬具」
 要するに文部大臣は授与を取り消さぬといい、余は辞退を取り消さぬというだけである。世間が余の辞退を認むるか、または文部大臣の授与を認むるかは、世間の常識と、世間が学位令に向って施す解釈に依って極まるのである。ただし余は文部省の如何と、世間の如何とにかかわらず、余自身を余の思い通に認むるの自由を有している。
 余が進んで文部省に取消を求めざる限り、また文部省が余に意志の屈従を強いざる限りは、この問題はこれより以上に纏まるはずがない。従って落ち付かざる所に落ち着いて、歳月をこのままに流れて行くかも知れない。解決の出来ぬように解釈された一種の事件として統一家、徹底家の心を悩ます例となるかも分らない。
 博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違いない。けれども一国の学者を挙げて悉く博士たらんがために学問をするというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。余は博士制度を破壊しなければならんとまでは考えない。しかし博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く一般から閑却されるの結果として、厭うべき弊害の続出せん事を余は切に憂うるものである。余はこの意味において仏蘭西にアカデミーのある事すらも快よく思っておらぬ。
 従って余の博士を辞退したのは徹頭徹尾主義の問題である。この事件の成行を公けにすると共に、余はこの一句だけを最後に付け加えて置く。


夕べ見た夢

2008-02-17 15:45:52 | 心象スケッチ

Fukinotou先日、印象的な夢を見ました。

漱石先生の書斎で、執筆する先生のそばで細々とお世話をしていた。
出版社が来客したので、先生に取り次いだ。
出版社は新しい作品の執筆を依頼に来たらしい。
先生は「いいですよ、『明暗』という作品を書いてあげましょう」という。

僕は出版社の人に「この作品の途中で、先生の命の灯は消えてしまいます。」と耳打ちする。
出版社の人も、複雑な表情を見せていた。

応接室のテーブルに出した、高価で贅沢という訳ではないが、先生の拘りの見える湯飲みやお茶請けの菓子皿が、2月の小春日和の暖かな陽を受けていた。

と、こんな夢です。
僕は漱石先生に仕えたいという願いを夢の中で叶える事が出来ました。が少し淋しさが残る夢でした。

夕べモーツァルトをモチーフにした映画『アマデウス』のディレクターカットの映画が放送されていました。映画なのでもちろん多分にフィクションの世界なのですが、モーツァルトの最期のシーンは何とも様々な思いを抱かされました。
モーツァルトも、世間に迎合が出来ず、自分の才能を信じ、したたかに自分を生きる事を追求したという意味においては、生き方が不器用な人だったのかも知れません。が、僕はモーツァルトや子規の様な生き方は、全くもって美しい生き方だと賞賛せずにはいられません。


141歳の漱石は・・・

2008-02-09 09:24:28 | 漱石の横顔

Neko1 1867年2月9日(陰暦1月5日)、江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町1番地)に漱石先生は誕生します。父直克は51歳、母ちゑ42歳(ちゑは後妻)の間の8番目の子供が漱石です。

漱石の出生は庚申(かのえさる)の刻に当たり、この日に生まれたものは出世すれば大いに出世するが、一つ間違えれば大泥棒になる。ただし名前に金か金偏の字を選んで入れるとこの難を免れるという言い伝えから金之助と名付けられたようです。

生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されます(母の母乳不足も原因)。師走に漱石先生が籠に入れられ地面に置かれているのを姉が可哀想にと家に連れ帰ったという事もあるようです。
翌年の1968年11月には塩原家へ養子に出されます。
様々な問題があって大分後に夏目家に復籍しますが、このあたりについては自伝的小説『道草』に詳しいです。

ところで、漱石は左利きだったようですね。正岡子規も左利きだったようです。これは僕の大事にしている『漱石研究年表』の中に書かれているのですが、それには、凧揚げ・独楽回しが出来ない(正岡子規の左利きについての脚注)とあります。左利きだと凧揚げや独楽回しに不都合があるのでしょうかね・・・

Neko2 トップの画像は先日デパートに行った際に特売コーナーに置かれていた招き猫です。
可愛いなぁ~とちょっと頭をなでた瞬間に、「toraさん、僕一生懸命に福を招く様頑張りますので、是非おうちへ連れて帰ってはくれませんか・・・」という訴えに、1260円で購入してきたものです。
猫背な後ろ姿が何とも可愛らしいです。貯金箱になっていて縦に溝が切られているのがちょっぴり可哀想な気がします。

生きていれば141歳になった漱石先生、誕生日おめでとうございます。
そして・・・