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言葉は人を生かすことも殺すことも出来る。傷付け合うのではなく、支え合ってお互いを生かしあうページにしたい。

本当のイラク支援とは何か?

2007年08月18日 | 平和・福祉・介護を考える
国立循環器病センター(大阪府吹田市)にて、5月21に入院し、NGOの支援を受けて心臓病の治療を受けた二人のイラクの子供が、無事手術が成功した退院することとなった。このニュースは、昨今イラク問題で暗いニュースが多かっただけに一条の光を放っている。…二人の病気は、それぞれ違うが・・・

5歳のサジャド・アルサライ君は二つある動脈が入れ替わる「完全大血管転位症」、2歳のアリア・アルサリヒちゃんは心室に穴が開いている「ファロー四徴症」・・・二人とも、来日した頃は、10M歩くのもままならない体で、重い心臓病と診断された。しかし、日本の進んだ医療治療により二人の病状は術後改善し、無事退院を迎えることとなった。

今イラクでは、二人の子供たちのように重い心臓病などで手当てを待っている子どもたちは1000人居ると言われている。

すでに走り回ることが出来るようになったサジャド君、アルサリヒちゃんがイラクに帰り元気に過ごすことを願いたいが、このニュースを聞いてつくづく思うのです。

本当のイラク復興支援とは何なのか?という問題に答えていると思う。

現在の日本の医療技術を屈指すれば、遅れているイラクの医療を側面から支援する様々な活動が可能なのです。・・・必要ならば、今回のように日本にきて手術や先進治療を行うことも出来るし、医療チームをイラクに派遣して現地での医療活動を増やすことも可能なはずです。

大切なことは、軍事部隊を派遣したりすることではなく、本当に困っている医療、生活環境などの支援などの為に人と資材・資金などを送り込むことです。
一体、大人たちはイラクでどれだけの軍事的な費用を浪費させているのか?
同胞を殺傷させ、お互いが傷つけあって何の利益があるのか?よく考えてもらいたい。
特に、今回のように、医療支援により救済される子供達は、きっとその後日本との平和的な協調の懸け橋となるということです。
この可能な支援を怠れば、死が待っているだけです。彼らの前には、もはや自分たちだけで病気を治し回復することが困難な状況にあるのです。

今こそ、再確認をしていきたい。
日本がやらねばならないイラク支援とは、こうした医療支援、教育の為の支援、生活などの関連項目の支援にあります。

こうしたイラクの人たちにとって切実な問題に対する支援を、率先して実施することが急務です。・・・これらの支援活動は、今政府が行っている米軍の後方支援とは意味が違う。ましてや、武装した自衛隊を派遣するどんな理由もない。

イラクで必要なことは戦闘行為ではない。
本当に必要とされている支援を行え、と言いたい。

また、せっかく治療して本国に帰っても、国内で戦闘が続発し、危険がいっぱいの現状では安心して子供を育てることも出来ない。
大人たちが、宗派を隔てて未だ争っているが、何時までこんなことでイラク国内を疲弊させていくのか?
どれだけの犠牲を増やすことが続いても、憎しみの連鎖が尾を引くだけでは双方の殺傷行為はすこぶる無意味です。
早期に、イラク国内の争いを止めること、このことの為にすべての勢力は意思一致をして戦闘行為やテロ行為を終息させるべきです。

もはや、躊躇はいらない。
まず平和をもたらせること、子供たちやお年寄り・障害を持つ人々が安心して暮らせる国を再建することです。
この平和再建には、どんな近代兵器も武装も必要がない。
全ての危険な武器を一掃することが平和につながる。


8月の朝、朝顔を撮る楽しみ。

2007年08月12日 | 平和・福祉・介護を考える
じりじりと照りつける太陽光線。早朝にきれいに咲く朝顔たちにとって、その姿をとどめる時間は少ししか与えられていない。…やがてその光線により、花たちは姿を隠して萎んでしまう。…あまりにもはかないからこそ、かれんな花は人々の心をとらえるのでしょうか?

シャッターチャンスは、限られた時間でしかないので、朝の間にどんどん撮ります。同じ花でも、撮る角度やアップの仕方により、見栄えが変わるのです。

写真に残すことにより、その花の姿は残すことが出来る。
実際に見るのは、その時々でしかないが、写真は何度でも見ることが出来る。

・・・これからも、沢山の朝顔の美しさを、残していきたい。

新作sickoが公開されます。

2007年06月23日 | 平和・福祉・介護を考える
M.ムーア氏が、今度は米国の医療保険問題をテーマとした作品を発表した。その名はsicko.

おしっこの事ではありません。英語の俗語として病人を表す言葉ですが、現在の医療制度とその制度による利益を専有している人達に対して使われている意味がある。

米国では、何と16%の人が、保険に未加入の状態と言われている。(2005年調べ)この人達が、もし医療を必要として治療や入院をすることになると、莫大な医療費の請求をされることとなる。
日本のように、国民皆保険が無く、個人が医療保険を任意にかけていることと、様々な適用除外項目が設定されていて複雑になっていることも指摘されている。

例えば、日本人が米国に留学などをするときは、米国での医療保険をどういう形で契約するのか?と言う問題は必ず決めておく必要がある。・・・そうでないと、海外でで病気になり、治療を受ければとんでもない請求金額に目を向くことになる。

低所得者に対しては、医療給付と言う形で病気になったときに受けられる保険制度があるものの、医療費をめぐる訴訟問題は、常に裁判所において取り扱われている社会問題として定番の争いとなっている。保険会社も、訴訟を起こされないように、複雑な契約内容を設定しており、最低限の保険に対する知識を持たないと米国では安心して医療を受け続けることができない。
もちろん、所得などで裕福な生活をしている階層では、高額な保険に入って最先端の医療を享受する事は可能です。お金がありさえすれば、それは実現するかもしれないが、高い医療契約を結べない一般市民にとっては、医療保険制度の改革が、一つの大きな社会問題となっている。

今度の大統領選挙においても、医療保険の改革問題は、政策として重要なテーマの一つとされている。

今回マイケルムーア監督が、sickoの発表により、またまた社会的な注目を当てられるようになるが、今回のテーマは、全ての人にとって身近な医療の問題として静かな論議を呼びそうです。
この映画が、米大統領選挙にどういう影響を与えることになるのか?又、医療改革に対する一つの起爆剤となるのか?非常に注目されます。


マイケル・ムーア監督・映画シッコ

全ての駅に、視覚障害者等の転落防止柵設置を義務付けるべきです。

2007年04月30日 | 平和・福祉・介護を考える
29日、大阪のJR環状線で、70代と60代の視覚障害者の夫婦(針きゅう師)が、反対側に到着し停車していた電車をこちら側の電車と誤って乗り込もうと歩き始めホームに転落した。直後に入ってきた外回りの電車にはねられ大怪我をした。幸い、命は助かったが、夫の方は右腕を切断する大怪我、妻の方は肩の骨を折るなどの重傷を負っている。
事故当時、ホームに配置されている係員はおらず、とっさの出来事に誰も救出対応が出来なかった。・・・二人は手をつなぎあって、付近の状態を確認しながらホームに入り、百貨店まで行く予定であったと言う。
視覚障害者は、外出時に視覚障害用の白い杖を持って外出するが、この日は二人は杖を持っていなかった。・・・恐らく、一人なら不安なので杖を持っていただろうが、二人の外出と言うことで杖を持つのをやめたらしい。このため聴覚により今どこに歩いているのかを判断しながら移動する必要があり、本来ならばガイドヘルパーなどが付いて安全な誘導をする必要があった。しかし、この日は休日であり、そうした支援を受けることが困難であり、いつも良く出かけていると言う自信もあって二人で外出することになったらしい。

今回、ホームからの転落により、大怪我をすることとなったが、視覚障害者にとっては電車のホームはもっとも危険な場所とされている。
日本では、一部の地下鉄をのけては、転落防止のための防護柵が取り付けられていない。目の見えるものにとっては何の不自由もない問題かもしれないが、目の見えない人達にとってはもっとも危険な出入り口となる。
諸外国では、こうした電車の乗降口は、防護柵によりしっかりがーとされているのが通常である。日本の場合、特にJRの防護柵設置が進んでおらず、私鉄関係でも未設置の駅が殆どです。

防護柵のないホームと言うものが、視覚障害を持つ人に、どれだけの危険を強いているのかを検討して、早期の防護柵設置を考えて欲しいです。
まだまだ、これからこういう事故は起こる可能性があり、目の見える人でも謝って転落したり、酔っ払いなどの転落事故も年間相当の数に上ると思います。また、自殺のためのスペースともなっており、こうした危険性を少しでも防止して未然に防ぐ対策が急がれると思うのです。

視覚障害者の中では、「ホーム転落は、3回やって一人前」?と言われているとのことです。つまり、それほどホームから転落する危険性があると言うことなんです。

試しに、目をふさいで、ホームに入り、電車に乗り込む実験を遣るべきだと思います。・・・どれだけの不安と恐怖を感じるのかを健常者も一度味わうべきです。
・・・自分たちは良く目が見えるから、目が見えない人の気持ちが判らない・・・?そんな、温かみのない社会生活はやはり改めるべきだと考えます。どんな障害を持っていても、安心して社会生活が営めるように、社会のあり方を変更改革してこそ、本当の意味で誰もが安心して暮らせる世の中となるわけですから。
こうして考えてくると、日本の交通機関は、まだまだ障害のある人にはバリアの多い形態のままになっているんです。これでは、長寿国の中身が薄れると思います。体が不自由になり、障害を持つ人々にとって優しくないあり方であると思います。このままでは、恥ずかしい。

今度のJRの事故を知り、多くの人が視覚障害者の声を聞く必要があると思います。
全ての電車などの公衆乗車駅で、転落防止のための防護柵設置を義務付け、障害を持つ人々が事故なく安心して快適に利用できる交通網を広げてゆく必要があります。
今回の事故が、再び繰り返されないために、駅設備の改修をぜひ考えて頂きたい。全ての駅に、視覚障害者等の転落防止柵設置を義務付けるべきです。

2007年、桜の季節。

2007年04月01日 | 平和・福祉・介護を考える
待ちきれず、一足速い桜見物に行きました。
こちら奈良では、未だ3部咲きですが、咲き始めの初々しさが匂っていてとても気持ち良かった。デジタルカメラで花を撮りながら、夢中になっている自分が居ます。・・・未だ、花見に来る人も少なく、得をしたような気持ちになりました。

自然の花たちは、こうして、季節に合せて花を咲かせます。
誰に見て貰う訳でもなく、ただ、自然の摂理に合せて咲いている。

しばし、全てを忘れて、花を見る。・・・こうした時間の価値は、お金では計算できないものです。

日本全国、多くの人達が、桜の花の美しさに酔う季節ですね。

(原題『SHOOTING DOG』)ルワンダの涙を観て。

2007年03月04日 | 平和・福祉・介護を考える
原題『SHOOTING DOG』を観てきました。まだ、あまり知られていない作品ですが、多くの人に観て得頂きたい作品です。1994年に起こったアフリカルワンダの虐殺をテーマにした映画ですので、人々が無残に殺されている場面も描かれています。・・・でもそれは、事実、ほんの12年前に地球上の裏側のアフリカにて実際に起こっていた事実なんです。

詳しい映画の情報を知りたい方は、下記のサイトを見てください。
http://www.r-namida.jp/index.html



この映画の中でイギリスから技術学校の教師として海外協力を志願した青年ジョーが描かれているんですが、大好きな女性とマリーに普段からルワンダのために命をはって支援をしたいと話していた。
ところが、学校の平和は長く続かず、フチ族による襲撃におびえるツチ族の数千人が学校の敷地に逃げ込む事態を迎えた。鉈や銃を携えて、飢えた狼のように学校周辺を包囲されてしまうことになる。今や、絶体絶命の砦の中で、何時フチ族の襲撃がされるのか?不安な何日かを送る。

そんな中、取材のために派遣されていた女性報道記者レイチェルが、ジョーに話す。「コソボ紛争を取材したときは、白人の女性が死んでいる姿を見て自分の母親を想像し涙が止まらなかった。・・・しかし、今回、アフリカという土地に来て、こんなにも多くの黒人たちが虐殺されている様を見て、なぜか涙が出ない自分を知った。・・・何故、涙することが出来ないのか?それは分からないが、人間と言うものは、肌の色や宗教・人種などがちがえばこうも冷静になれるものなのか・・・
このように話していたのが印象深い。
人間の死というものに対して、それも虐殺と言うことに対して私たちがあまりにも無感覚になってはいないのか?

ジョーは、それを聞きながら震えていた。
あまりにも衝撃的な人間の虐殺を目の当たりにして、どうすることも出来ずに恐怖を抱いている若者がそこに居たのです。
ジョーと同じように、映画を観ている私たちも、ただ呆然と、繰り広げられる虐殺の場面を自分の眼で観る事しかできない。

・・・しかし、こうした事実をまだ知らない人たちが世界に沢山居る。
わずか100日足らずで、80万人以上の人たちが虐殺されていったことが、1994年に起こっているのです。

上述した話に戻せば、取り囲まれた学校から、結局ベルギー軍とジョー達が脱出し、残されたツチ族2500人あまりが、取り囲んでいたフツ族の暴徒に虐殺されたと言うことです。・・・之は、文字通り国連軍が2500人の人達を見捨てて逃げ去ったと言う事実があるのです。こんなことが許されて良いのでしょうか?

何故、当時の国連軍は、最後まで避難していた人々を守ることが出来なかったのか?この問題は、その後大きな国連のテーマとして突きつけられた事件でした。

単に、部族間の争いを監視し、間に入って見ているだけなら何の意味もない。
フツ族の暴行が明らかならば、暴徒を厳しく取り締まることが必要なはずです。
しかし、当時の国連軍は、何もせず、ただ監視だけを任務としていたから、人々を助けるためのどんな積極的な役割も果たさなかったのです。
勿論、当時のルワンダ国内が、まったくの無政府状態と化しており、部族間の抗争が家族や親族をも引き裂くような事態に発展していたということです。

国連軍が銃を撃とうとしたのは、唯一犬に向かってだけです。殺されたツチ族の死体を犬が食い散らかそうとしているのを観て、疫病が蔓延するかもしれないと心配して撃ち殺すことを提案したのです。

そこで、学校長のクリストファー神父は、「SHOOTING DOG?」と司令官に問いただします。・・・犬はあなた方に発砲したんですか?国連軍の方針は、発砲して脅威を及ぼすものに対して、武器の使用を認めているんでしょう?と。
・・・結局、司令官は、犬の銃撃を実行できなくなる。

しかし、その後、結局は部隊はルワンダ人を学校に残したまま立ち去ることになる。危険な状況になったので、国連軍を撤退させようと言うことです。
その後国連軍が行ったことは、トラックの前にしがみついて、部隊が脱出するのを阻止しようとする人達を空砲をぶっ放して脅しながら・・・自分たちだけ安全なところへと逃走したのです。

ある父親が司令官に申し出ていた。
あなた方がここから立ち去ることは止めようがない。
私たち大人は良いです。しかし、子供たちには何の罪もない。
出来るだけ苦しまずに死ねるために、子供たちを銃で殺してくれ。銃なら鉈で切り殺されるより、おそらく一瞬で死ねるはずだ。お願いだから、俺たちの子供を銃で撃ってから脱出してくれ!

勿論、この願いは司令官が受け入れるはずもなく、国連部隊は出て行ってしまう。
残された人々のうち、子供たち数人をトラックの荷台に詰め込み、シートを被せ、神父は決死の脱出を試みる。・・・うまく、フツ族の殺人部隊をすり抜けて逃れられたら・・・と言う願いを乗せて。

しかし、このトラックは、道路の途中でフツ族民兵たちにより静止される。
子供達をかばおうと神父は交渉するが、結局フツ族の青年に銃殺されてしまう。そして、かろうじて子供たちは荷台から逃げ出すことが出来た。・・・

この映画のことを話そうとすれば、多くのテーマがわたし達に突きつけられていることが判る。

今ここで述べたいことは、いかに国連軍が、2500人の住民たちをみすみす虐殺者たちの手に放置したのか?その責任を追求することにあるのだろうか?
確かに、あの場に居るものが何が出来たのか?判らない。

命を守れないのなら、わざわざ監視団として遠いルワンダの地に軍隊が派遣される意味がどこにあるのでしょうか?
今まさに行われている暴力に対して、そんなにも無力な国連軍なら何のための役割なのか?人々が殺されるのをただ見て監視するのなら、それは、人道的な救済も出来ない「でくの坊の軍隊」です。

いじめ問題で悩む日本の親たち、子供たちがぜひこの映画を鑑賞し、人間の本来的な平和とは何か?愛とは何か?を学んで欲しいと思う。

君が代伴奏命令は誰のためか?

2007年03月01日 | 平和・福祉・介護を考える
君が代の伴奏命令を拒否した教員が処分不当撤回のための裁判続けている。
しかし、2月27日の最高裁で彦倉の訴えを棄却し、東京都教育委員会の指示で学校長が下した職務命令を容認し、憲法が保障する「思想・良心の自由」を侵害するものではないとの判断を下した。この判断に伴い、伴奏を拒否した被告等への処分も当然認められる処分であると容認する立場をとっている。

こうした見解が、今後の裁判所の考え方にどう浸透してゆくのか?君が代斉唱などの行為を強制するものに繋がるのかどうか?大いに懸念される判決です。
今回の、最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は「伴奏を命じた校長の職務命令は、思想・良心の自由を保障する憲法19条に反しない」との初判断を示しているが、公務員としての職務が、君が代を演奏するという特殊な行為にまで指定できるのかどうかが問題です。

君が代は、過去の戦争時より、常に日本の国を代表する国家として演奏されてきたが、その音楽にまつわる血なまぐさい戦争の歴史は拭う事は出来ない。
アジアの人々に多大の犠牲を及ぼしただけではなく、日本国民の膨大な数の犠牲者を無残な苦しみに追い詰めた象徴の歌曲であることは否定し得ないはずです。

今、君が代を懐かしいものととらえる人がいても、その人の心の有り方には介入できない。しかし、それを強制したり、子供たちに歌わす行為に関しては、容認することは出来ない。
音楽には好き嫌いがあり、あの君が代の短調的なメロディーを好む人がいても良いだろう。しかし、それを学校で国家として歌わせたり、強制的に規律させて斉唱させることが教師の職務とされる方向性には、反対しなければならない。

戦後の歴史的に見ると、文部省の学習指導要綱が、1989年に改定され、今までの「望ましいあり方」が、「指導する内容」としての方向性に変えられたことが挙げられる。この文部省の通達が、やがては1999年の日の丸を国旗とし・君が代を国歌とする国歌国旗法へと繋がることとなった。
これを受けて、文部省が通達を発して教育委員会への指導徹底へと道筋が作られ、その年には大量の処分も出されている。
ここから、裁判闘争に繋がることになったが、昨年9月の東京地裁判決では、2003年の10・23通達が、「国歌斉唱を公務員に義務付けることは違憲である」との判断が下され、集団訴訟側が勝訴した判決となっていた。この時点では、文部省・東京都教育委員会側の遣り方は正しくないとの判断がなされていた。

ところが、その判決後も石原知事を始めとして、裁判所の判断を省みず、処分した教諭たちへの処遇についても、従来どおりの方針を採り続けていた。
そして、今回、最高裁は、(裁判官意見では4対1)東京地裁の判決を覆して国側の考え方を認める立場を正しいと判定した。

最高裁は、国旗・国歌法の定めるところに従って今後も公立学校での国旗掲揚と国歌斉唱を子供たちに押し付けてゆこうとする立場を容認しているわけです。

日本の国旗が日の丸でなければならないと誰が考えているのか?
過去の血なまぐさい象徴としてのシンボルを、今後の日本で掲げたくない、と思う人がいてても良いと思う。逆に、日の丸を掲げたい、と信じる人が居れば、どうぞご自由に。
要するに、強制するものではないわけです。
ただ、それを日本の国旗とするのかどうかでは、十分論議を尽くして決めていただきたい。ただし、一度決めたからといって、それを強制する必要は無いのです。

国歌についても同様です。君が代を好む人、好まない人、それぞれ両方があってよろしい、しかし、それを強制する遣り方はおかしい、またするべきではないと思う。嫌なのは、勝手の軍国主義日本が、日の丸を国民に強制し、日の丸に対しては直立不動の姿勢をしなければ「非国民」とされた。こうした強制が生々しく残る日の丸は、掲げたくないという気持ち・・・それの何処がおかしいのでしょうか?
むしろ、こうした気持ちを持つ人の方が人間として感受性が豊かであると思います。同様のことが君が代についても言えます。
大相撲の千秋楽に、いつも流れる君が代・・・あれには正直、何時もついてゆけません。
それぞれの思いがあって良いんです。

ただ、礼儀としては、それぞれの人達が重んじる国旗や国歌なりに対して、それを冒涜したり、けなしたりする行為は失礼に当たる。・・・そうした意味で、仮に現在の日本の国旗・国歌が日の丸・君が代であるなら、公式の場面でそれを使うことは良いだろう。・・・というか、勝手にやってという感じです。
ただ、それに対して、一緒に詠えとか、規律しなさいとか・・・そんな振る舞いはそれぞれの考え方でさせて頂いて良いのではないか?と思うのです。
特に、君が代斉唱については、私個人としては、したくありません。
歌詞の文句も、好きではありません。
第一、唄自体が暗すぎるし、国歌にするなら、もっと美しく、リズミカルな歌にしたほうが良いと思います。

日の丸についても、どうしても戦争のイメージが重なってしまうので、いっそ、新しく平和日本を象徴するようなイメージの旗を作ったほうが良いと思います。
例えば、桜の花をちりばめて、森林の緑が背景となる旗なんかが良い。・・・一度イメージ作品を作ってみたいものです。

とにかく、白地に真っ赤な円が書かれている現在の日の丸は、味気ない旗に思えます。もっとデザインを斬新なものに変えることに賛成です。

君が代裁判に続いて、全国13件の裁判が争われており、今後も裁判所の判定はいろいろ出ることでしょう。
大切なことは、国や教育委員会が、変な押し付けがましい指導方針を掲げないことを要望します。子供たちへの関わり方は、こんなところで厳しく指導するものではない。本当に大事にさせたいことは、人の心を重んじ、弱い立場の人を支えてゆく思いやりの気持ちを育ませる事です。
右翼の人達が喜ぶような法律ばかりが目立つ昨今ですが、そんな強制を子供たちに持ち込んではなりません。敬うべきは国旗や国歌への忠誠ではなく、自分の家族と地域の人達と仲良く暮らし、助け合い・支えあって共に生きてゆく社会を作ることなんですから。

ただ、今回の裁判でも、きちんと多数の意見に反対して自分の意見を貫かれていた裁判官も居られることを覚えておきたいです。4人の多数意見に対して、藤田裁判官は以下のように今回意見を述べられていたのです。
「君が代斉唱の強制自体に強く反対する信念を抱く者に、公的儀式での斉唱への協力を強制することが、当人の信念そのものへの直接的抑圧となることは明白だ」
この判断は正しい判断だと思います。
法律をたてに取り、通達で教育委員会から校長の職務命令が出ているのですが、そうした強制指示が憲法に照らして不当であることを正しく指摘している意見だと思います。

裁判官であろうと、ほんといろんな意見の人が居ます。
決定そのものは多数決という形で決められてしまうのですが、その決定事を何でも強制してしまう論理というものはどうなんでしょうか?
やたら、横1列に物事を統一させることがお好きな人達が多いようですが、個人の自由というものは犯すべきではないでしょう。

「ホワイトライト/ブラックレイン」に注目する。

2007年02月10日 | 平和・福祉・介護を考える
スティーブン・オカザキ監督作のドキュメンタリー映画「ホワイトライト・/ブラックレイン」がアメリカで完成し、1月のユタ州で開かれたサンダンス映画祭で初上映され大喝采を受けたと言う。
1200枚のチケット完売と、聴衆に多数の若い世代が含まれていたことなど今までのアメリカ社会ではなかなか受け入れられなかった原爆を取り扱った作品として、今後どういう影響を及ぼしてゆくのか注目に値する作品です。

監督のオカザキ氏は、アカデミー賞受賞経験もある実力派ですが、かって、戦後50年を記念した日米共同作品作りで米国世論の反発を食い、製作を中止した苦い経験も持っている。原爆に対する米国民の先入観が根強く、なかなかドキュメンタリー映画が受け入れられない実情があります。

しかし、今回90分もので作られた力作は、広島長崎の被爆者約100人を取材して、その中の十数名の体験を紹介する。被爆当時の生々しい映像を交えて原爆の製造・投下にかかわった米国の科学者・軍人たちも取材に盛り込んでいます。

はたして、監督が描きたかったメッセージが、多くの米国人に届いてゆくのか?
オカザキ監督が描きたかった題材は、広島・長崎の被爆の現状には違いないが、彼が立っているところは日米の狭間にある。どちらの立場からも距離を置き、しかも事実を正確に伝えてゆこうとする姿勢が見られる。・・・はたしてどういう出来栄えなのか?興味が湧く作品です。

この映画は、日本でも夏に公開される予定ですが、楽しみな作品です。
関連情報はここです。
http://www.hollywoodreporter.com/hr/awards_festivals/fest_reviews/article_display.jsp?JSESSIONID=F11kFSLJ6sWGLGT1YhdWl2qhGFyHQFrdFVGBy4gp63W6yLnd6s5F!727677420&&rid=8734


新しい2007年、希望をテーマに進んでゆきたい!

2006年12月31日 | 平和・福祉・介護を考える
A Happy New Year to you.

気持ちを新たに、本年も自身のホームページをマイペースにて作り上げたいと思います。

何かと、至らない発言でご迷惑をかけることも多々あると思います。でも、前向きに進むこと、希望を失わずに生きることをテーマに、今年もいろんな記事にチャレンジしてゆきたいです。
現代の社会は、政治・経済・教育・高齢者問題・など多方面の問題を孕んでおり、専門的な知識も必要とされ、新しい技術もどんどん切り開かれております。果たして、個々の人間がそうした社会の流れにどれだけ適応できるのか不安な面も多いのではないでしょうか?

自分さえ良ければ言い・・・?という自己中心社会ではなく、自分の周りに生活する人々のことを常に考え、共に生きてゆこうとする生き方が必要となります。

人間一人が達成できることは僅かかもしれませんが、善意と善意を繋げてゆけば、必ずや今よりもすばらしい地球環境が生み出されてゆくという希望は失いたくない。

ともすれば、なえてしまいそうな痛ましい争いごとが世界のあちこちで続いておりますが、少なくとも日本からは、平和の歌声が響き渡るよう一人ひとりの願いと努力を繋げてゆきたいと思います。

唯一の被爆国として、頑固に核兵器の廃絶と軍備拡張のすべての試みに対して警鐘を鳴らしてゆきたいと思います。



皆さん、今年もお元気で!すべての地球上で戦闘行為が収束し、人々が安心して眠れるときが来ることを祈ります。

2007年 元旦。

のーむ

凄惨なイラクの現状を憂う。

2006年11月23日 | 平和・福祉・介護を考える
記録によると、イラクでは03年の開戦以来、3年間で少なくとも10万人、多く見積もれば15万人の犠牲者が出ているという。・・・これだけの犠牲者が出ていることを全世界の人々は再認識する必要がある。

加えて、今年になって国内での内戦状態が深刻化し、スンニ派とシーア派の宗派対立が激しさを増している。同じ国家でありながら、対米戦争とは別に激しい憎しみを伴ってお互いの存在を否定し合っている状態が続いている。

日本に居る自分達から考えると、これほどの混乱をきたしているイラクの現状は、なかなか理解しがたいものだ。
いくら、米軍の過剰な攻撃とブッシュの好戦的な戦略を非難しても、混乱した現状が好転する出口が見つからない。
先日、11月12日には、1日の死者としては最悪の159人の内戦死亡者が出たと報告されている。これだけの人間が、命を消されている現状が、もはや普通の状態であるとは誰も思わないでしょう。内戦、と呼ぼうが呼ぶまいがそんなことに関係なく国として瀕死の状態に陥っていること、言い換えれば狂気の殺戮がまかり通っている現状があることを確認したい。
こんな状態が日常化することを国際世論としても許すわけにはいかないし、混乱収束のための方策が国連等を中心に進展することを祈りたい。
・・・僕たちが出来ることは、祈ることだけなのか?
それとも、勇気ある人達のように、現地に乗り込んで、「戦いを止めろ!殺しあうことを止めて話し合え!」と体を投げ出し呼びかけることなのか?
また、医療品等、子供や老人を救出するための現地接触を企画して、NPO等による市民救援運動を盛り上げることが大切なのか?
遣り方は様々在って良いと思う。
それぞれの狙いから、可能な支援活動が継続されることが必要です。
大切なことは、諦めず、混迷するイラクの現状を打開するための努力を継続することです。一人ひとりの立場で出来る支援をしてゆくしかないと思います。

日本の政府に対しても、米国のイラク占領政策に追随することを止め、自衛隊の派遣を止めるよう今後も働きかけることが必要です。

憎しみの連鎖に終止符を打つべきです。次の世代の子供たちに、争いごとの種を引き継ぐべきではないのです。新たな悲しみ、新たな混乱は繰り返されてはならない。どんな考え方、思想・信条・宗派があっても、お互いの存在を否定すべきではない。ともに共存する社会のルールを確立してこそ、未来の地球上の平和が達成されるのです