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とにかく逃げろ!!

2011年12月01日 22時06分10秒 | 東日本大震災

我が故郷の事が、河北新報の記事に・・・

 

 

岩手・洋野町、犠牲者ゼロ 「まず逃げて」訓練奏功

高台から八木地区を見下ろす佐々木さん(右)ら消防団員。海抜20メートル余りの高台からは八木港が一望できる=岩手県洋野町

 

 青森県境にある岩手県洋野町は、東日本大震災の被害が大きかった岩手、宮城、福島3県の沿岸自治体で唯一、死者・行方不明者がゼロだった。南北に長い人口1万9000人の町。「とにかく逃げろ」。過去の津波被害の教訓から、その意識の高い町民が多かったという。他の自治体では避難誘導などで犠牲者が出た消防団も、任務終了後は逃げることを徹底した。犠牲者ゼロの陰には、町を挙げたここ数年の取り組みがあった。(亀山貴裕)

<町道を封鎖>
 洋野町役場に勤める佐々木安武さん(52)は3月11日、庁舎で激震に見舞われた。「尋常ではない」。即刻、所属する地元消防団の詰め所がある八木地区(約260世帯)に車を走らせた。
 役場から約8キロ離れた詰め所には数分で到着。同地区は数々の津波被害に遭ってきたにもかかわらず、町内で唯一、防潮堤が整備されていない。
 「すぐ高台に避難してください」。消防車両に乗り込んだ佐々木さんは、拡声器で呼び掛けた。約10分後、事前に取り決めていた高台に退避。住民が低地に降りないよう、町道を封鎖した。全て訓練通りだ。
 他の地区の消防団員も、分担で決まっている水門全部を12分以内で閉鎖し、すぐさま避難した。
 八木地区を担う消防団第2分団第3部長の久保利美さん(59)が説明する。「消防団も任務を終えたら退避を徹底する。そう決めていた。津波には誰だって勝てない。死んでしまえば、その後の活動もできなくなる」

<意識変える>
 同町では明治三陸大津波(1896年)で254人、昭和三陸津波(1933年)で107人が死亡。その多くは八木地区の住民が占めた。今回も、八木地区を含めて住宅55棟、漁業施設などの非住宅125棟に津波被害が出た。漁船に至っては7割近くを失った。
 それでも犠牲者どころか、けが人すら出なかった洋野町の「奇跡」。その背景には、海のそばに丘陵地が広がる地形、消防団の意識改革、住民の日ごろの備えもある。
 同町では昭和三陸津波が襲った3月3日に毎年、早朝に防災訓練を実施してきた。しかし、参加者が年々減少。消防署が中心となり、2006年から防災訓練の在り方を見直してきた。
 住民アンケートを行い、訓練を日曜日の日中に変更。07年には消防団員の退避行動、08年には低地に続く町道の道路閉鎖が、訓練のメニューに加わった。
 それが消防団員の意識を変えた。久慈消防署種市分署の庭野和義署長が説明する。「数年前までは、地震後も沿岸で潮位を見守る団員もいた。消防団が率先して退避すれば、住民も必死に逃げるはずだ」

<防災組織も>
 訓練で「逃げる」ことを徹底してきたのに加え、08年以降、各地で設立された自主防災組織の活動が、住民意識を高めたという。
 八木北地区の自主防災組織は、高台に上る避難路の除草や整備をしてきた。避難路の掃除は、逃げる道筋を頭に焼き付けるのに役立った。過去の大津波の経験者から、話を聞く場も設けた。
 幹事の蔵義浩さん(68)は「かつて津波で多くの犠牲者を出した八木地区では“逃げるが勝ち”という意識が強い。自主防には全戸が加入し、顔が見える関係を構築したことが、今回の避難で生かされた」と話す。
 防潮堤というハードに頼らず、住民の命を守った八木地区の活動。蔵さんは痛感した。教訓に学び、それを生かす訓練がいかに大切か―と。


自分も子供のころ毎年3月3日、防災訓練をしてたな~

ていうか避難場所の神社に行くと、キャラメルが貰えるから、それが嬉しくて行てたような・・・

でも実際に津波警報が出て、何度か避難した記憶も有る・・・・・

 


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