「セクシャル・ハラスメント」という言葉ができて、初めて「そういう行為」が犯罪行為である、ということが認定された。
僕は、そう思っています。
ただ、「セクハラ」と略されるその行為の中には、本来であれば暴行罪や傷害罪、強姦罪に匹敵するものも、少なからず含まれているはずです。
いじめも、また然り。
他愛もない「悪ふざけ」だってあれば、殺人教唆に匹敵する罪になる可能性だってあるはずです。
罪を犯したのであれば、その罪を償う。
法治国家の基本構造は、そういうことであるはずです。
しかし、現状では、いじめの加害者に対する罰則規定は設けられていないのではないでしょうか。
「犯罪」ではなく「教育」というカテゴリーに、いじめは所属していると思われるので。
マスコミの報道を見るかぎり、ここ数ヶ月の間、何人もの子どもたちが自殺を図り、その命を自ら絶っているようです。
もちろん、それは今に始まったことではなく、「いじめの連鎖」が脈々と続いていることを示唆しています。
「いじめの根絶」は正直不可能だと思いますが、命が失われずに済むシステム作りには、いまだ改良の余地があることも確かでしょう。
今の自分にできることは、とにかく自分自身が「いじめの加害者」にならないことであると思います。
日本における社会格差は広がる一方であると、いろいろな場面で耳にします。
もちろん、経済的に成功すれば、それに越したことはない。
ただ、世界中どこを見渡しても、「金持ちだけが住む社会共同体」はないはずです。
理想とする自分像を目指して、努力する。
それは、きっと大切なことです。
でも、誰だって、必ずその過程において挫折をするはずです。
それは、その時点では「失敗」かもしれない。
でも、その失敗から得られることも、たくさんあるはず。
不本意な道を進むことになったとしても、そこから生まれる幸せだって間違いなくあるのです。
そのことを、僕ら大人が身をもって証明しなければ、どうして「いじめ」を減らすことができるでしょうか。
心からの笑顔を子どもに見せることができなくて、どうして「希望」や「夢」を感じさせることができるでしょうか。
生命とは、ただ生きて、死んでいく存在なのかもしれない。
しかし、僕らのご先祖様は、本当にただそうやって生きてきたのでしょうか。
ネアンデルタール人は、埋葬された仲間の墓に、花を手向けたと聞きます。
優しさや愛情は、人生において無用なものでしょうか。
お金を稼ぎたいという気持ち。
誰かを愛し、誰かに愛されたいと願う気持ち。
そのどちらも、間違いなく僕らの心の中にあるものです。
人体を構成する物質は、科学的に説明がつきます。
しかし、その人体に宿る「何か」は、科学だけで解明できるとは思えません。
僕に心があるように、「あなた」にも心がある。
まずは、そこから始めよう。
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