(3)支部からの二通目の手紙
6月22日、支部から二通目の手紙が届いた。三人の援護者の変更を願い出たことに対する返事であった。
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ペンシルバニア州の
ものみの塔
聖書冊子協会
SC:SD1985年6月21日
北海道広島会衆
金沢司兄弟
親愛なる兄弟
あなたと数名の兄弟の署名の付された6月18日付のお手紙をいただきました。それによりますと、あなたと奉仕の僕を含む幾人かの兄弟たちは、協会が援助を依頼した瀬野兄弟と笹山兄弟をできればはずしてほしいと述べておられます。協会はこれまで、あなが代表するグループから三通の手紙をいただきましたが、その手紙の内容は決して健全な霊を反映するものとは思われません。
どうぞ、協会があなたあてに送った6月14日付の手紙をもう一度ご覧ください。笹山兄弟は広島会衆と直接交わる機会を持ち、ご自身で観察した事柄と信頼できる他の情報に基づき、あえて協会に知らせた方が良いのではないかと判断なさいました。通常は、こうした問題を会衆を訪問する巡回監督が扱いますが、必要に応じて円熟し経験を積んだ長老たちに協会が直接援助を依頼することがあります。上記の手紙の中で「わたしたちはこれらの情報に基づき、広島会衆に何らかの問題が生じているとは断定できませんが、経験ある長老たちの援助が必要ではないかと判断」したと記されている通りです。これらの兄弟たちは、審理委員のように行動することではなく、会衆の実情を公平に知った上で援助すべきことがあれば、そうするようにと指示されているだけです。
クリスチャンとして、豊かな経験を持つこれらの兄弟たちの援助を忌避する理由がどこにあるのでしょうか。あなたと幾人かの兄弟たちは、瀬野兄弟に関し色々な苦情を述べておられますが、なぜもっと早く当人と直接話し合うことをしなかったのでしょうか。あなたと兄弟たちのグループが巡回監督に対し、こうした見方をいだいているとすれば、7月上旬に予定されている巡回訪問から一体どのような益が得られるというのでしょうか。以上のような理由に基づき、協会は広島会衆を援助する目的で指名した三人の兄弟たちを変更することはいたしません。
これらの兄弟たちが会衆の実情を知り、もし何も問題が見当たらないのであればそれを共に喜ぶことができるのではないでしょうか。一方、もし不都合な状況が見いだされるのであれば、これら兄弟たちを通して与えられる聖書に基づく健全な見方は、みなさんが今後の忠節な歩みを全うしてゆく上で必要な調整を施してくれるものとなるでしょう。どうぞ、指名された三人の兄弟たちに惜しみない協力を示し、自分たちの義を立証することにではなく、エホバが所有しわたしたちに託しておられる神の会衆が健全な状態を保ってゆくことができるよう考え続けていただきたいと思います。上記の通りお願いし、エホバの御祝福をお祈りいたします。
皆さんの兄弟
Watch Tower B&T Society
OF PENNSYLVANIA
追伸:この手紙を署名した他の5人の兄弟たちと一緒にお読みになってください。
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手紙を読み始めてすぐ、宮坂兄弟が突然大きな声で言った。
「これはやっぱりタヌキだわ」
「どうして」
「三行目のところ。ここ読んでみてよ。“あなが代表するグループ”となってて“た”が抜けてるだろう」
「ほんとだ。なんと…」
「とうとう自分の方から正体を現わしたんだ」
“た”抜きは別として、注目すべきは、“あなが代表するグループ”という表現であった。これはすでに兄弟たちを背教者とみなしている証拠と考えられた。そうでなければ“グループ”扱いになることはあり得ず、“あなたの会衆”となるはずである。この時点では、少なくとも兄弟たちは単なる“グループ”ではなく“会衆”の成員であった。手紙も“グループ”から出したのではなく、“会衆”から出したものである。図らずも支部の本心が出てしまったということであろう。
この手紙によって、兄弟たちはもはや何を嘆願しても無駄であると感じた。出した手紙の主旨や意図はまるで通じていない。支部が明確にすべき組織上の問題も単なる個人的な問題にされている。もっとも分かっていて、あえてそうしているという可能性の方が高かったのではあるが。
この返事で報告、嘆願の段階は終了した。
(4)統治体への道
6月22日、土曜日、藤原兄弟から電話があった。彼らは今回の問題を長老と開拓者の個人的なトラブルとして処理したかったようである。しかも悪霊に取り付かれ、背教した長老と組織に従おうとする姉妹たちという図式で。その証拠を集めるべく、内々で広島会衆に対する調査を行っていたがうまくゆかず、手詰まりの状態に陥っていたらしい。彼は巡回訪問のとき、「どこから手を付けたらよいか分からなかった」と当時の状況について語っている。直接電話をしてきたのは、そういう事情によるものと思われる。
藤原兄弟は、いかにも面白くなさそうな調子でこう切り出した。
「兄弟、天軍というのはおかしいじゃありませんか」
「え~っ、どうしてですか。ものみの塔誌にそう書かれていますでしょう。それにみ使いたちの軍勢は天軍と言いませんか」
「それは、そうですが…。じゃあ兄弟たちは、あの姉妹たちが天軍によって会衆から出されたというんですか」
「別にそうだと主張しているわけではありませんが、私たちはただそういう姿勢でやってきたということです。ものみの塔誌の教えや精神に従って扱って、その結果出て行くことになったなら天軍がそう判断したということになりませんか」
<ものみの塔誌には次のように記されていた。>
「み使いたちは、だれがエホバの真の僕で、だれが偽りの僕かを識別できます。み使いたちは、ひどい不正を働く者たちが暴露されて真のクリスチャンの交わりから退けられる結果になるような状況を生じさせることが十分にできます」(1984年10月15日p.22)
「それは、そうですが…。しかし兄弟たちはもう少し愛を示すべきだったんじゃないですか。もっと誉めて励ますべきでしょう」
「そういう段階はもう終わっていると思いますが。あの姉妹たちの問題は一年や二年の問題ではありません。それに、愛を示すといっても、何でも許容していいというわけではないでしょう」
「それは、そうですが…。僕はこういうふうに言われたのは初めてですね。恣意的とはどういうことですか。兄弟たちの言い分はずいぶん聞いてあげたじゃありませんか」
「そうでしょうか。私たちはただ質問に答えただけですが」
「そうすると、兄弟たちはもう集まりには来ないということですか」
「いえ、そういうことではありません。手紙にも書きましたが、集まりの目的をはっきりしていただければ出席したいと思っています。しかし『愛』一つとってみても、意味を定義しないと話が食い違うばかりでしょう。それを一つ一つ行なっていくとなると膨大な時間がかかりますが、果たしてそこまでする必要性があるかどうか…」
彼はしきりに、「本当はやりたくない。大会の準備で忙しいので手を引きたい。協会の指示なので仕方がない」ということを強調した。また終わりの方で、「僕は今、協会に送る中間報告を書いているところですが、まだ半分しかできていないんです。残りの半分をどうしようかと考えているところですが…」と述べて、兄弟たちの態度次第では内容が変わり得ることをほのめかした。
その後少したってから、宮坂兄弟がK姉妹の偽証に関する審理について電話をしたところ、「私も地域監督ですけどねえ…。兄弟もそんな連絡なんかしていると逆に審理委員会にかけられますよ」と言われた。藤原兄弟にとって、上記の電話での話し合いはよほど不快なものであったらしい。
この藤原兄弟と金沢兄弟の話し合いで鮮明になったのは、ものみの塔誌に対する認識の相違、及び用語に関する理解の食い違いであった。典型的な例の一つは「愛」という言葉である。
広辞苑によれば、愛とは「慈しみあう心、思いやり、大切にすること」…等であり、また別の定義によれば、「誰か(何か)に対して暖かい感情をもつこと」となっている。ギリシャ語には愛を表わすアガペー(神の愛、原則に基づく愛)、フィリア(友愛)、ストルゲ(情愛)、エロス(性愛)という四つの言葉がある。アガペーは「神の定めた原則に従って誰かに暖かい感情を持ち、それを示すこと」であり、他の人の最善の益を考えるという点で最高の愛の形態とされている。
それで一口に「愛」といっても、どの愛を指すかによって意味は異なってくる。「愛」を単に、「誉めて励ます」ことに限定すれば、兄弟たちは問題の姉妹たちに対して愛を示さなかったといえるかもしれない。しかし、愛を「アガペー愛」と規定すれば、聖書の原則から外れる者を、教え、戒め、矯正しようとすることは愛の行為になり、会衆は二人に愛を示そうとしたことになる。
さて、藤原兄弟から電話があった二日後の6月24日の夜、笹山兄弟との話し合いが行われた。真実を知りたいという兄弟たちの希望に応じて開かれたものである。彼はどうも集まりには来たくなかったらしいが、後で聞いたところによると、藤原兄弟に促されてしぶしぶ出かけて来たとのことであった。一時間位すると、そそくさと帰ってしまった。
短い話し合いではあったが、この集まりの最大の意義は、問題の本質について得られた合意である。
兄弟たちは、最初から一貫して、二人の姉妹の問題はものみの塔誌の最新の義の規準に従って扱おうと努めた結果であると主張してきた。しかし笹山兄弟によれば、それは協会の方針に反するという。ものみの塔誌の最新の規準に従おうとすることが協会の方針に反するとは、どうしても信じ難いことであったので
「それでは協会に確かめてみる以外にはありませんね。返事をもらえるかどうかは分かりませんが、協会に尋ねてみたいと思います」
と金沢兄弟は申し出た。
「じゃあ、そうしてみてください」
笹山兄弟もそれを承諾した。
「あとはその裁定が出てからにしましょう」
ということで集まりは終わった。
この会合によって、『問題の本質がものみの塔誌の義の規準をどう捕らえるべきかということにある』との合意が得られたことは大きな進展であった。これを受けて、兄弟たちは統治体にものみの塔誌に関する裁定を問う下記のような手紙を送った。日本支部がものみの塔誌とは異なる方針を出してきていると判断する以上、支部に尋ねてみたところでまったく無意味なことだからである。
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1985年6月25日
親愛なる統治体の兄弟たち
時宜にかなったすばらしい霊的食物を供給して下さることに心から感謝します。
…藤原、瀬野、笹山兄弟たちと話し合った結果、問題のポイントになっているのは二人の姉妹の扱い方であることがわかりました。兄弟たちは私たちの扱い方が義に先走りすぎ、愛と哀れみに欠けていると考えているようです。私たちはエホバに対する非難をすすぐこと、会衆の清さを守ることの優先順位に関する考え方が十分通じないと感じました。
結局のところ義の規準の捕らえ方、つまり言い換えれば今、どのレベルの義の規準で物事を行うべきかということが問題の根本であるという結論に共に到達しました。私たちの理解でいえば、ものみの塔誌は時宜にかなった食物なのだから、「はい、は、はい」でその通り受け取り、全力で行おうとするのがエホバのご意志だと思います。可能な限りそうしようとしたことが三人の兄弟及び日本支部の兄弟たちからの手紙(私たちは受け取っておりませんが)によれば協会の方針と異なっているとのことです。私たちのものみの塔誌の理解が間違っているということも十分あり得ますので、是非、兄弟たちにその判断と指示をお願いしたいと思います。
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<その他、笹山兄弟との会合から分かったこと>
大事なことはすべて電話で話し合い、証拠を残さないようにしている。
協会へ報告を送るとき、巡回監督の名前を使ったらしい。
支部に直接手紙を書いたということだけで大問題になっている。
(5)支部からの第三通目の手紙
6月30日、支部から三通目の手紙が届いた。日本支部から来た公的な手紙としてはこれが最後のものとなった。
これは藤原兄弟の中間報告を受けて送られてきたものである。巡回訪問の木曜日の集会で自ら「真実の一かけらぐらいはあったでしょう。3ページも書いたのですから」と語った問題の報告書である。何を3ページも書いたのかは分からないが、協会の手紙に述べられている範囲では、やはり真実は一かけらもない。
この時期、兄弟たちは「あらかじめ仕組まれた筋書きに従って物事が進められているに違いない、彼らも真実を曲げているという意識はあるのではないか」と考えていた。
しかし後の進展からすると、どうもそうではないらしい。藤原兄弟にはそういう自覚がなかったようである。
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ペンシルバニア州の
ものみの塔
聖書冊子協会
SC:SD1985年6月28日
北海道広島会衆
金沢司兄弟
柳村勝実兄弟
宮坂政志兄弟
押切博兄弟
飛田栄二兄弟
八幡幸司兄弟
親愛なる兄弟たち
協会はただ今、北海道広島会衆を援助すべく協会が調査を依頼した藤原兄弟から、中間報告書をいただきました。それによりますと、皆さんは6月19日に予定された会合にいったんは出席を拒否したものの、藤原兄弟たちの説得により、午前中の集まりに出席してくださったようです。しかしながら、午後に入ってから個人的に情報を求めようとしたこれら三人の兄弟たちに対し、皆さんは時間がないという理由でその場を引き揚げ、その後はどなたも出席を要請された会合においでにならなかったとのことです。しかも、皆さんは協会の代表者であるこれら三人の兄弟たちに対し、きわめて不敬な態度をお取りになったようです。わたしたちはこのような報告をいただいたことを本当に残念に思います。皆さんがお取りになったこのような態度ゆえに、協会はあらためて特別委員を任命し、広島会衆の実情を調査するよう取り決めることにいたしました。ただし、笹山兄弟は特別委員の一人に入っておりませんので、このことを念のためにお伝えしておきます。また、宮坂兄弟は笹山兄弟に電話をかけ、二人の姉妹たちと笹山兄弟をそれぞれ審理事件として告発したいとの連絡をしたようですが、もしそうであるとすれば、これら特別委員は審理事件として問題を取り扱うようになるかもしれません。それで、特別委員からの連絡を待ち、予定される会合に出席し必要と思われる証言とご自身の弁明を行っていただきたいと思います。わたしたちは皆さんが宇宙の最高主権者であられるエホバ神とクリスチャン会衆の頭であられるイエス・キリストの前に清い良心をいだいて服してゆかれるよう心から希望しております。上記の通りお知らせし、問題解決の上にエホバ神の豊かな祝福をお祈りいたします。
皆さんの兄弟
Watch Tower B&T Society
OF PENNSYLVANIA
この手紙の写し:特別委員
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支部の手紙によると、広島会衆の兄弟たちの罪は『不敬罪』ということらしい。『不敬罪』とは、1947年改正以前の刑法で、「天皇および皇族、もしくは神宮、皇陵に対して不敬行為を成すことによって成立する罪」と説明されている。これに相当するような罪がキリスト教にもあるのだろうか。聖書には次のように記されている。
「このようなわけであなた方にいいますが、あらゆる種類の罪や冒とくは許されます。しかし、霊に対する冒とくは許されません。たとえば人の子に逆らう言葉を語っても、その者は許されるでしょう。しかし、聖霊に言い逆らう者は誰であっても許されないのです。この事物の体制においても、また来たるべき体制においてもです」(マタイ12:31,32)
キリストに対する不敬でも許されるのに、ものみの塔協会は許さないという。自分たちを聖霊と同列に考えているのであろうか。すでに過去の法律となった不敬罪がものみの塔協会で有効であったとはまったく知らなかった。
たいして意識もせずに偽りを語り、それを指摘されると「不敬だ」という。これはいったい何を示唆しているのであろうか。恐らく、彼らの報告は簡単に受け入れられ、その真実性が問題にされるということもほとんどないのであろう。もしそうでないとすれば、もっと真実に注意を払うはずである。
巡回訪問のとき、「それでは私たちはどうしたらよかったのでしょうか」と藤原兄弟に尋ねてみた。すると「何も言わずに、黙って、指示された通りにしていればよかったんです」ということであった。これはつまり、組織にとっては真理か真実かなどということより、従うか従わないか、従順か不従順かの方がはるかに重要な問題であるということを意味している。いやしくも協会の代表者たちに疑問を差しはさみ、真実に従って扱って欲しいと要求するなどとは、彼らの目には「きわめて不敬な態度」に映るのであろう。
何ともこの主観の世界というか、感覚のズレは本人にその自覚が無くなると恐ろしいものである。支部の感覚では不敬な態度を取ると「特別委員会」が任命されることになってしまう。しかも「審理事件として扱うことを検討している」と語るだけで、逆に審理にかけられるかもしれないという。このような何ら聖書的根拠のないことを平気でやろうというのは、普段いかにムチャクチャなことを組織の権威で押しとおしているかを物語っている。今まではそれでも何ともなかったのであろう。
この手紙でいよいよ審理は確実なものになった。文面には「審理事件として扱うようになるかもしれません」とあるが、「かもしれない」というのは表向きのことであって、実際は、間違いなく行うということである。監督たちにやらせていることはまさに審理の準備にほかならないわけであるから、疑問の余地はない。
この頃、会衆内には動揺が広がっていた。それに大いに貢献したのは、監督たちが会衆の成員にかけてきた電話やその調査の仕方であった。巡回訪問を翌週に控え、「いったい兄弟たちはどうなるのだろうか」という不安が強まっていた。それで会衆に状況を知らせ、個人の信仰で自らの進む道を選んでもらうため、集会で特別のプログラムを組むことにした。
支部が組織の権威できているので、兄弟たちは、聖書、真理、真実の権威、神の権威を前面に押し出すことにした。そうすれば、組織の権威で押し切ろうとする組織主義は、神と真理を敵に回すことになる。その図式を明確にした上で、会衆にも支部にも好きな方を選んでもらおうということに決めた。
7月4日木曜日の集会で金沢兄弟は事件のあらましを会衆の成員に説明した。
彼は話の終わりの方で、「いかに日本支部といえども人間なら恐れる必要はない」と語った。私たちが本当に恐れるべきなのは真実をご存知のエホバ神であり、組織の権威をかさに着た人間ではない、ということを強調したのである。支部はこの発言を問題にし、「告発する」とまで憤ったが、彼は別に支部を挑発するために語ったわけではない。それに、身に覚えがなければ怒る必要もまたないわけである。使徒5:38,39に基づき、エホバの証人として神の道を取るか、それとも権威主義という人間的な道を取るかということを象徴的に述べたにすぎない。
「この企て、また業が人間から出たものであれば、それは覆されるからです。しかし、それが神からのものであるとしたら、あなたがたは彼らを覆すことはできません。さもないと、実際には神に対して戦うものとなってしまうかもしれません」 (使徒5:38,39)
それゆえ同時に、「これは義の戦いである」とも強調した。支部にやましい動機がなければ話の主旨を取り違えるはずはないと判断したのである。
この話はテープに取られ、監督たちのもとへと送られた。藤原兄弟はこのテープの入手について、「エホバのお導きだと思いました」と巡回訪問の際に語っている。しかし金沢兄弟はプログラム前から、自分の話が録音されるであろうことを予想していた。K姉妹と親しくしていたT姉妹がテープレコーダーを持ってきていたからである。集会後、隣に座っていた姉妹に尋ねるとやはり録音していたとのことであった。
だが、兄弟たちはそれをとどめようとは思わなかった。闇の業であれば、それは完成させてしまうのがエホバの方法だからである。
6月22日、支部から二通目の手紙が届いた。三人の援護者の変更を願い出たことに対する返事であった。
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ペンシルバニア州の
ものみの塔
聖書冊子協会
SC:SD1985年6月21日
北海道広島会衆
金沢司兄弟
親愛なる兄弟
あなたと数名の兄弟の署名の付された6月18日付のお手紙をいただきました。それによりますと、あなたと奉仕の僕を含む幾人かの兄弟たちは、協会が援助を依頼した瀬野兄弟と笹山兄弟をできればはずしてほしいと述べておられます。協会はこれまで、あなが代表するグループから三通の手紙をいただきましたが、その手紙の内容は決して健全な霊を反映するものとは思われません。
どうぞ、協会があなたあてに送った6月14日付の手紙をもう一度ご覧ください。笹山兄弟は広島会衆と直接交わる機会を持ち、ご自身で観察した事柄と信頼できる他の情報に基づき、あえて協会に知らせた方が良いのではないかと判断なさいました。通常は、こうした問題を会衆を訪問する巡回監督が扱いますが、必要に応じて円熟し経験を積んだ長老たちに協会が直接援助を依頼することがあります。上記の手紙の中で「わたしたちはこれらの情報に基づき、広島会衆に何らかの問題が生じているとは断定できませんが、経験ある長老たちの援助が必要ではないかと判断」したと記されている通りです。これらの兄弟たちは、審理委員のように行動することではなく、会衆の実情を公平に知った上で援助すべきことがあれば、そうするようにと指示されているだけです。
クリスチャンとして、豊かな経験を持つこれらの兄弟たちの援助を忌避する理由がどこにあるのでしょうか。あなたと幾人かの兄弟たちは、瀬野兄弟に関し色々な苦情を述べておられますが、なぜもっと早く当人と直接話し合うことをしなかったのでしょうか。あなたと兄弟たちのグループが巡回監督に対し、こうした見方をいだいているとすれば、7月上旬に予定されている巡回訪問から一体どのような益が得られるというのでしょうか。以上のような理由に基づき、協会は広島会衆を援助する目的で指名した三人の兄弟たちを変更することはいたしません。
これらの兄弟たちが会衆の実情を知り、もし何も問題が見当たらないのであればそれを共に喜ぶことができるのではないでしょうか。一方、もし不都合な状況が見いだされるのであれば、これら兄弟たちを通して与えられる聖書に基づく健全な見方は、みなさんが今後の忠節な歩みを全うしてゆく上で必要な調整を施してくれるものとなるでしょう。どうぞ、指名された三人の兄弟たちに惜しみない協力を示し、自分たちの義を立証することにではなく、エホバが所有しわたしたちに託しておられる神の会衆が健全な状態を保ってゆくことができるよう考え続けていただきたいと思います。上記の通りお願いし、エホバの御祝福をお祈りいたします。
皆さんの兄弟
Watch Tower B&T Society
OF PENNSYLVANIA
追伸:この手紙を署名した他の5人の兄弟たちと一緒にお読みになってください。
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手紙を読み始めてすぐ、宮坂兄弟が突然大きな声で言った。
「これはやっぱりタヌキだわ」
「どうして」
「三行目のところ。ここ読んでみてよ。“あなが代表するグループ”となってて“た”が抜けてるだろう」
「ほんとだ。なんと…」
「とうとう自分の方から正体を現わしたんだ」
“た”抜きは別として、注目すべきは、“あなが代表するグループ”という表現であった。これはすでに兄弟たちを背教者とみなしている証拠と考えられた。そうでなければ“グループ”扱いになることはあり得ず、“あなたの会衆”となるはずである。この時点では、少なくとも兄弟たちは単なる“グループ”ではなく“会衆”の成員であった。手紙も“グループ”から出したのではなく、“会衆”から出したものである。図らずも支部の本心が出てしまったということであろう。
この手紙によって、兄弟たちはもはや何を嘆願しても無駄であると感じた。出した手紙の主旨や意図はまるで通じていない。支部が明確にすべき組織上の問題も単なる個人的な問題にされている。もっとも分かっていて、あえてそうしているという可能性の方が高かったのではあるが。
この返事で報告、嘆願の段階は終了した。
(4)統治体への道
6月22日、土曜日、藤原兄弟から電話があった。彼らは今回の問題を長老と開拓者の個人的なトラブルとして処理したかったようである。しかも悪霊に取り付かれ、背教した長老と組織に従おうとする姉妹たちという図式で。その証拠を集めるべく、内々で広島会衆に対する調査を行っていたがうまくゆかず、手詰まりの状態に陥っていたらしい。彼は巡回訪問のとき、「どこから手を付けたらよいか分からなかった」と当時の状況について語っている。直接電話をしてきたのは、そういう事情によるものと思われる。
藤原兄弟は、いかにも面白くなさそうな調子でこう切り出した。
「兄弟、天軍というのはおかしいじゃありませんか」
「え~っ、どうしてですか。ものみの塔誌にそう書かれていますでしょう。それにみ使いたちの軍勢は天軍と言いませんか」
「それは、そうですが…。じゃあ兄弟たちは、あの姉妹たちが天軍によって会衆から出されたというんですか」
「別にそうだと主張しているわけではありませんが、私たちはただそういう姿勢でやってきたということです。ものみの塔誌の教えや精神に従って扱って、その結果出て行くことになったなら天軍がそう判断したということになりませんか」
<ものみの塔誌には次のように記されていた。>
「み使いたちは、だれがエホバの真の僕で、だれが偽りの僕かを識別できます。み使いたちは、ひどい不正を働く者たちが暴露されて真のクリスチャンの交わりから退けられる結果になるような状況を生じさせることが十分にできます」(1984年10月15日p.22)
「それは、そうですが…。しかし兄弟たちはもう少し愛を示すべきだったんじゃないですか。もっと誉めて励ますべきでしょう」
「そういう段階はもう終わっていると思いますが。あの姉妹たちの問題は一年や二年の問題ではありません。それに、愛を示すといっても、何でも許容していいというわけではないでしょう」
「それは、そうですが…。僕はこういうふうに言われたのは初めてですね。恣意的とはどういうことですか。兄弟たちの言い分はずいぶん聞いてあげたじゃありませんか」
「そうでしょうか。私たちはただ質問に答えただけですが」
「そうすると、兄弟たちはもう集まりには来ないということですか」
「いえ、そういうことではありません。手紙にも書きましたが、集まりの目的をはっきりしていただければ出席したいと思っています。しかし『愛』一つとってみても、意味を定義しないと話が食い違うばかりでしょう。それを一つ一つ行なっていくとなると膨大な時間がかかりますが、果たしてそこまでする必要性があるかどうか…」
彼はしきりに、「本当はやりたくない。大会の準備で忙しいので手を引きたい。協会の指示なので仕方がない」ということを強調した。また終わりの方で、「僕は今、協会に送る中間報告を書いているところですが、まだ半分しかできていないんです。残りの半分をどうしようかと考えているところですが…」と述べて、兄弟たちの態度次第では内容が変わり得ることをほのめかした。
その後少したってから、宮坂兄弟がK姉妹の偽証に関する審理について電話をしたところ、「私も地域監督ですけどねえ…。兄弟もそんな連絡なんかしていると逆に審理委員会にかけられますよ」と言われた。藤原兄弟にとって、上記の電話での話し合いはよほど不快なものであったらしい。
この藤原兄弟と金沢兄弟の話し合いで鮮明になったのは、ものみの塔誌に対する認識の相違、及び用語に関する理解の食い違いであった。典型的な例の一つは「愛」という言葉である。
広辞苑によれば、愛とは「慈しみあう心、思いやり、大切にすること」…等であり、また別の定義によれば、「誰か(何か)に対して暖かい感情をもつこと」となっている。ギリシャ語には愛を表わすアガペー(神の愛、原則に基づく愛)、フィリア(友愛)、ストルゲ(情愛)、エロス(性愛)という四つの言葉がある。アガペーは「神の定めた原則に従って誰かに暖かい感情を持ち、それを示すこと」であり、他の人の最善の益を考えるという点で最高の愛の形態とされている。
それで一口に「愛」といっても、どの愛を指すかによって意味は異なってくる。「愛」を単に、「誉めて励ます」ことに限定すれば、兄弟たちは問題の姉妹たちに対して愛を示さなかったといえるかもしれない。しかし、愛を「アガペー愛」と規定すれば、聖書の原則から外れる者を、教え、戒め、矯正しようとすることは愛の行為になり、会衆は二人に愛を示そうとしたことになる。
さて、藤原兄弟から電話があった二日後の6月24日の夜、笹山兄弟との話し合いが行われた。真実を知りたいという兄弟たちの希望に応じて開かれたものである。彼はどうも集まりには来たくなかったらしいが、後で聞いたところによると、藤原兄弟に促されてしぶしぶ出かけて来たとのことであった。一時間位すると、そそくさと帰ってしまった。
短い話し合いではあったが、この集まりの最大の意義は、問題の本質について得られた合意である。
兄弟たちは、最初から一貫して、二人の姉妹の問題はものみの塔誌の最新の義の規準に従って扱おうと努めた結果であると主張してきた。しかし笹山兄弟によれば、それは協会の方針に反するという。ものみの塔誌の最新の規準に従おうとすることが協会の方針に反するとは、どうしても信じ難いことであったので
「それでは協会に確かめてみる以外にはありませんね。返事をもらえるかどうかは分かりませんが、協会に尋ねてみたいと思います」
と金沢兄弟は申し出た。
「じゃあ、そうしてみてください」
笹山兄弟もそれを承諾した。
「あとはその裁定が出てからにしましょう」
ということで集まりは終わった。
この会合によって、『問題の本質がものみの塔誌の義の規準をどう捕らえるべきかということにある』との合意が得られたことは大きな進展であった。これを受けて、兄弟たちは統治体にものみの塔誌に関する裁定を問う下記のような手紙を送った。日本支部がものみの塔誌とは異なる方針を出してきていると判断する以上、支部に尋ねてみたところでまったく無意味なことだからである。
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1985年6月25日
親愛なる統治体の兄弟たち
時宜にかなったすばらしい霊的食物を供給して下さることに心から感謝します。
…藤原、瀬野、笹山兄弟たちと話し合った結果、問題のポイントになっているのは二人の姉妹の扱い方であることがわかりました。兄弟たちは私たちの扱い方が義に先走りすぎ、愛と哀れみに欠けていると考えているようです。私たちはエホバに対する非難をすすぐこと、会衆の清さを守ることの優先順位に関する考え方が十分通じないと感じました。
結局のところ義の規準の捕らえ方、つまり言い換えれば今、どのレベルの義の規準で物事を行うべきかということが問題の根本であるという結論に共に到達しました。私たちの理解でいえば、ものみの塔誌は時宜にかなった食物なのだから、「はい、は、はい」でその通り受け取り、全力で行おうとするのがエホバのご意志だと思います。可能な限りそうしようとしたことが三人の兄弟及び日本支部の兄弟たちからの手紙(私たちは受け取っておりませんが)によれば協会の方針と異なっているとのことです。私たちのものみの塔誌の理解が間違っているということも十分あり得ますので、是非、兄弟たちにその判断と指示をお願いしたいと思います。
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<その他、笹山兄弟との会合から分かったこと>
大事なことはすべて電話で話し合い、証拠を残さないようにしている。
協会へ報告を送るとき、巡回監督の名前を使ったらしい。
支部に直接手紙を書いたということだけで大問題になっている。
(5)支部からの第三通目の手紙
6月30日、支部から三通目の手紙が届いた。日本支部から来た公的な手紙としてはこれが最後のものとなった。
これは藤原兄弟の中間報告を受けて送られてきたものである。巡回訪問の木曜日の集会で自ら「真実の一かけらぐらいはあったでしょう。3ページも書いたのですから」と語った問題の報告書である。何を3ページも書いたのかは分からないが、協会の手紙に述べられている範囲では、やはり真実は一かけらもない。
この時期、兄弟たちは「あらかじめ仕組まれた筋書きに従って物事が進められているに違いない、彼らも真実を曲げているという意識はあるのではないか」と考えていた。
しかし後の進展からすると、どうもそうではないらしい。藤原兄弟にはそういう自覚がなかったようである。
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ペンシルバニア州の
ものみの塔
聖書冊子協会
SC:SD1985年6月28日
北海道広島会衆
金沢司兄弟
柳村勝実兄弟
宮坂政志兄弟
押切博兄弟
飛田栄二兄弟
八幡幸司兄弟
親愛なる兄弟たち
協会はただ今、北海道広島会衆を援助すべく協会が調査を依頼した藤原兄弟から、中間報告書をいただきました。それによりますと、皆さんは6月19日に予定された会合にいったんは出席を拒否したものの、藤原兄弟たちの説得により、午前中の集まりに出席してくださったようです。しかしながら、午後に入ってから個人的に情報を求めようとしたこれら三人の兄弟たちに対し、皆さんは時間がないという理由でその場を引き揚げ、その後はどなたも出席を要請された会合においでにならなかったとのことです。しかも、皆さんは協会の代表者であるこれら三人の兄弟たちに対し、きわめて不敬な態度をお取りになったようです。わたしたちはこのような報告をいただいたことを本当に残念に思います。皆さんがお取りになったこのような態度ゆえに、協会はあらためて特別委員を任命し、広島会衆の実情を調査するよう取り決めることにいたしました。ただし、笹山兄弟は特別委員の一人に入っておりませんので、このことを念のためにお伝えしておきます。また、宮坂兄弟は笹山兄弟に電話をかけ、二人の姉妹たちと笹山兄弟をそれぞれ審理事件として告発したいとの連絡をしたようですが、もしそうであるとすれば、これら特別委員は審理事件として問題を取り扱うようになるかもしれません。それで、特別委員からの連絡を待ち、予定される会合に出席し必要と思われる証言とご自身の弁明を行っていただきたいと思います。わたしたちは皆さんが宇宙の最高主権者であられるエホバ神とクリスチャン会衆の頭であられるイエス・キリストの前に清い良心をいだいて服してゆかれるよう心から希望しております。上記の通りお知らせし、問題解決の上にエホバ神の豊かな祝福をお祈りいたします。
皆さんの兄弟
Watch Tower B&T Society
OF PENNSYLVANIA
この手紙の写し:特別委員
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支部の手紙によると、広島会衆の兄弟たちの罪は『不敬罪』ということらしい。『不敬罪』とは、1947年改正以前の刑法で、「天皇および皇族、もしくは神宮、皇陵に対して不敬行為を成すことによって成立する罪」と説明されている。これに相当するような罪がキリスト教にもあるのだろうか。聖書には次のように記されている。
「このようなわけであなた方にいいますが、あらゆる種類の罪や冒とくは許されます。しかし、霊に対する冒とくは許されません。たとえば人の子に逆らう言葉を語っても、その者は許されるでしょう。しかし、聖霊に言い逆らう者は誰であっても許されないのです。この事物の体制においても、また来たるべき体制においてもです」(マタイ12:31,32)
キリストに対する不敬でも許されるのに、ものみの塔協会は許さないという。自分たちを聖霊と同列に考えているのであろうか。すでに過去の法律となった不敬罪がものみの塔協会で有効であったとはまったく知らなかった。
たいして意識もせずに偽りを語り、それを指摘されると「不敬だ」という。これはいったい何を示唆しているのであろうか。恐らく、彼らの報告は簡単に受け入れられ、その真実性が問題にされるということもほとんどないのであろう。もしそうでないとすれば、もっと真実に注意を払うはずである。
巡回訪問のとき、「それでは私たちはどうしたらよかったのでしょうか」と藤原兄弟に尋ねてみた。すると「何も言わずに、黙って、指示された通りにしていればよかったんです」ということであった。これはつまり、組織にとっては真理か真実かなどということより、従うか従わないか、従順か不従順かの方がはるかに重要な問題であるということを意味している。いやしくも協会の代表者たちに疑問を差しはさみ、真実に従って扱って欲しいと要求するなどとは、彼らの目には「きわめて不敬な態度」に映るのであろう。
何ともこの主観の世界というか、感覚のズレは本人にその自覚が無くなると恐ろしいものである。支部の感覚では不敬な態度を取ると「特別委員会」が任命されることになってしまう。しかも「審理事件として扱うことを検討している」と語るだけで、逆に審理にかけられるかもしれないという。このような何ら聖書的根拠のないことを平気でやろうというのは、普段いかにムチャクチャなことを組織の権威で押しとおしているかを物語っている。今まではそれでも何ともなかったのであろう。
この手紙でいよいよ審理は確実なものになった。文面には「審理事件として扱うようになるかもしれません」とあるが、「かもしれない」というのは表向きのことであって、実際は、間違いなく行うということである。監督たちにやらせていることはまさに審理の準備にほかならないわけであるから、疑問の余地はない。
この頃、会衆内には動揺が広がっていた。それに大いに貢献したのは、監督たちが会衆の成員にかけてきた電話やその調査の仕方であった。巡回訪問を翌週に控え、「いったい兄弟たちはどうなるのだろうか」という不安が強まっていた。それで会衆に状況を知らせ、個人の信仰で自らの進む道を選んでもらうため、集会で特別のプログラムを組むことにした。
支部が組織の権威できているので、兄弟たちは、聖書、真理、真実の権威、神の権威を前面に押し出すことにした。そうすれば、組織の権威で押し切ろうとする組織主義は、神と真理を敵に回すことになる。その図式を明確にした上で、会衆にも支部にも好きな方を選んでもらおうということに決めた。
7月4日木曜日の集会で金沢兄弟は事件のあらましを会衆の成員に説明した。
彼は話の終わりの方で、「いかに日本支部といえども人間なら恐れる必要はない」と語った。私たちが本当に恐れるべきなのは真実をご存知のエホバ神であり、組織の権威をかさに着た人間ではない、ということを強調したのである。支部はこの発言を問題にし、「告発する」とまで憤ったが、彼は別に支部を挑発するために語ったわけではない。それに、身に覚えがなければ怒る必要もまたないわけである。使徒5:38,39に基づき、エホバの証人として神の道を取るか、それとも権威主義という人間的な道を取るかということを象徴的に述べたにすぎない。
「この企て、また業が人間から出たものであれば、それは覆されるからです。しかし、それが神からのものであるとしたら、あなたがたは彼らを覆すことはできません。さもないと、実際には神に対して戦うものとなってしまうかもしれません」 (使徒5:38,39)
それゆえ同時に、「これは義の戦いである」とも強調した。支部にやましい動機がなければ話の主旨を取り違えるはずはないと判断したのである。
この話はテープに取られ、監督たちのもとへと送られた。藤原兄弟はこのテープの入手について、「エホバのお導きだと思いました」と巡回訪問の際に語っている。しかし金沢兄弟はプログラム前から、自分の話が録音されるであろうことを予想していた。K姉妹と親しくしていたT姉妹がテープレコーダーを持ってきていたからである。集会後、隣に座っていた姉妹に尋ねるとやはり録音していたとのことであった。
だが、兄弟たちはそれをとどめようとは思わなかった。闇の業であれば、それは完成させてしまうのがエホバの方法だからである。