エホバの王国をふれ告げる証人たち

エホバの証人の世界的な交わりにようこそ!

エホバの証人という宗教 Ⅲ

2007-03-28 20:41:17 | Weblog
(3) 新世界訳聖書の諸問題
1986年7月21日、新世界訳聖書日本語版の翻訳上の問題点に関する質問を支部と本部に送った。回答がなかったので同年11月6日、創世記の翻訳について分析した手紙をさらに本部へ送った。その時、問題として上げたのは次の点である。

誤訳が多い。
極めて冗長である。
代名詞の使い方が無神経である。
難解、あいまい、不透明で非常に意味が分かりにくい表現が多い。
一般に悪訳、悪文の条件として上げられているすべての項目を含んでいる。
上記の点について具体的な事例を上げ、改訳の必要性を伝えたが何の回答もなかった。新世界訳の諸問題については、「欠陥翻訳-新世界訳」(広島会衆発行)の中で詳しく論じてある。

(4)教義上の諸問題
この事件が始まったころ、教義に関する疑問は誰も持っていなかった。悪いのはものみの塔協会の体質であって教義ではない、教えは正しいのだから、やがてものみの塔協会はエホバによって正されるはずであると考えていたからである。ところが去年の秋ごろから、次第に教義もおかしいのではないかと思うようになった。

特に転機となったのは、ものみの塔協会に対する糾弾を開始してからである。これほど偽善的で腐敗している組織に、果たして真理が啓示されるということがあるのだろうか、偽善はエホバの神性やキリストの精神と真っ向から対立するものではないか。教義だけは何も問題がないということがありうるだろうか、これはちょっと考えにくいことであった。教義も大いに検討してみる必要がありそうだと強く感じるようになった。

イエス・キリストは神がどんな人々に真理を啓示するかについて、次のように述べている。

「天地の主なる父よ、わたしはあなたを公に賛美します。あなたはこれらのことを賢くて知能のたけた者たちから隠し、それをみどりごたちに啓示されたからです」(マタイ11:25)
偽善者に真理が啓示される…天地がひっくり返らない限り、そういうことは絶対にあり得ない。だとするとものみの塔協会の教義もどこか間違っているはずである。この推測は外れてはいなかった。やがてものみの塔協会のモードから出るにしたがって、教義上の欠陥が徐々に見えるようになった。

おそらく組織が偽善的な体質になってから作られた教理や明らかにされた預言は、もう一度徹底的に調べて見る必要があるだろう。

現在はっきり間違っているといえる教理の主な項目を上げると次のようになる。

義認
神の組織、サタンの組織
大いなるバビロン
忠実で思慮深い奴隷級
信仰と不謬性
統治体
天的権威と組織の権威
問題点はこれだけではない。日常生活における様々な禁止事項にも問題のある教理は多々ある。こうした教義上の諸問題については現在広島会衆で検討中である。

今後この事件が進展してゆけば、さらに多くのことが明らかになるであろう。

10章 事件の意味と今後の展望
<<ものみの塔協会に救いはない>>
1987年5月1日号のものみの塔誌には、協会の会長F・W・フランズ兄弟の経験が載せられている。読んだ限りではどうしても偽善者が書いた記事とは思えない内容である。神の祝福と保護に対する確信、組織に対する自信に満ちあふれている。組織の実態、真実の状態を知っているならとてもあのような記事を書くことはできないであろう。やはりまったく知らされていないとしか考えようがない。

このような点を考慮すると、もしかすると統治体のメンバーの中にも、今回の事件を通して明らかになった組織の実態を知らされていない人たちがいるのかもしれない。しかし、事態がここまで進展してしまうと、組織の最高指導機関である「統治体」として、「知らなかった、報告がなかった」では済まされないであろう。

少なくとも現時点で組織を実際に指導し、牛耳っている人々は、不真実な行為を完全に意識して行なっている。彼らは叩き上げられ、鍛え上げられた偽善者である。そうでなければ、日本支部の監督たちが示す偽善的な精神が、これほど組織内に蔓延することはあり得ない。また、広島会衆が送った千通を越える手紙を一切無視することもないはずである。やはり最終的な責任は統治体にあるといえる。

法的には疑問の余地がないほど偽善が立証された今、統治体およびものみの塔聖書冊子協会に対し、以下のことが当てはまる。

統治体、ものみの塔協会は大患難を通過することができない。
神とキリストはものみの塔協会と共にはいない。
組織としての霊的パラダイスは否定された。
I. これは当然であろう。キリストの言葉によれば“偽善者”は“盲目の案内人”であり、導く者も導かれる者も共に穴に落ち込むことになるからである。偽善は「霊と真理」による真の崇拝と真っ向から対立する。偽善的な宗教指導者はゲヘナの裁き(永遠の滅び)に値すると述べられている。

II. 説明を要しない。偽り、偽証は神性とまったく相容れないものであり、公約違反はエホバの最も嫌われる事柄の一つである。

III. 霊的パラダイスという言葉は直接聖書の中には出てこないがエホバの証人はこの言葉を“回復された神との関係”を表わすものとして用いている。簡単に言えば、人の心、内面に設立されるパラダイスのような状態ということになるだろうか。

エホバの証人は長い間、「全地はキリストの支配により、まもなくパラダイスに変えられる」と宣べ伝えてきた。この音信の真偽は霊的パラダイスによって証明されることになるのでこの点は非常に重要である。

言うまでもなく、いかにパラダイスのように美しいところであっても住んでいる人々の心が醜ければ、遅かれ早かれ荒廃してしまう。パラダイスができるかどうかは、環境そのものよりむしろ、人の心に大きく依存している。

全地がパラダイスになるためには、まずその前に、人々の心の中にパラダイスが設立されていなければならない。この霊的パラダイスができなければ、全地のパラダイスの話などまったくのナンセンスに過ぎない。偽善者が霊的パラダイスを建設する…ありようはずがない。

こうした事柄はキリスト教にとっては極めて本質的な問題である。これに取り組まずして、真のキリスト教の証しを立てようとしても無意味であろう。いかに奉仕時間を多くしようとも、いかに立派なべテルや王国会館を建てようとも、それで神の律法に対する違反や偽善が贖われることはない。

この点に関するエホバの見方は、アモス書5章22、24節の中に次のように記されている。

「また、あなた方が全焼燔の捧げ物をささげるとしても、その供え物を喜びとはしない。あなた方の共与の犠牲の肥えたものに目をとめない。公正を水のように、義を絶えず流れいく奔流のようにわき出させよ」
したがって、「彼らが私を崇拝し続けるのは無駄なことである。組織の命令を教理として教えるからである」「まず杯と皿の内側を清め、それによって外側も清くなるようにしなさい」という言葉が、ものみの塔協会に当てはまるであろう。今回の事件を通して明らかになった統治体、ものみの塔協会の実態は、私たちの予想をはるかに越えるものであった。これほど幹部が偽善的で尊大であるとは考えてもみなかった。やはり外部の指摘は正しかったのである。

「私が説明した『客観的な立場に立った取材と執筆』という態度選択が気に入らなかったらしい。渉外担当者は私に『(教団のマイナスにならない)証しが欲しい』と要求した。私は『“証し”というのが、自由な検閲を認めるとか、信者になって、批判的な表現を一切しないと約束するという意味ならそれは不可能だ』と答えた。話は物別れに終わった。
その担当者の要求には、ふつうの教団がとっくの昔に放棄しているような強い閉鎖性と、外部に批判はおろか、客観的なアプローチさえ許そうとしない“かたくなさ”があった。
『もう少し社会に教団を開いたらどうですか。急成長している教団ならなおさら、その内部を公開し、社会に教団を正確に理解させる努力が必要でしょう。またその義務もあるはず』という私の主張に対して、その担当者は教科書を暗唱するような、感情を押し殺した、それでいて妙に他人を寄せつけない声音でこういいはなった。
『私たちは私たちで一生懸命やっています。(信者になる気もないあなたや)社会一般なるものに、理解してもらおうとは思いません』…日本支部の渉外担当者の言葉をききながら、私は嫌悪感をおぼえた。よほど取材をやめようかと思った。」(「若者はなぜ新・新宗教に走るのか」p.28、29室生忠著)
幹部が腐敗している教団には一つの明確な特徴が現れると、「宗教の時代-2神様はあなたの頭の“強精剤”」という本は述べている。

「しかし、引き込まれたあと、教団がどのようなかたちでそれに応じているかというと、あいも変わらず布教のための機関紙の拡大、信者の増加といった日常活動を課しているだけである。この場合、幹部が奢り高ぶっていると、信者はかわいそうなことになる。幸福になるつもりで教団に入ったのだが、逆に苦しみを味わうことになってしまうからだ。毎日、幹部から尻をたたかれて活動にはげむわけだが、それで生活基盤を失ってしまったりすると、それはもう悲惨としか言いようがない」(p.168小田晋著)
これも見事にものみの塔協会に当てはまる。このままでは今後ますます、成員に対する「雑誌配布、文書配布、予約の獲得」の圧力は強まることであろう。これ以上悲劇を繰り返さないためにも、幹部の偽善は徹底的に糾弾されてしかるべきである。

まだすべての人の前に統治体、ものみの塔協会の正体が明らかになったわけではない。加えて決着をつけねばならない重大な問題も幾つか残っている。その中にはものみの塔協会の土台となるような教義や預言年の問題が含まれている。最終的な結論を下すには、今後少なくとも3つの点を確かめねばならないが、神が生きて活動しておられるのであれば、どのような方法が選ばれるにせよ、やがて真実は明らかになるものと思う。

<<予想される三つの段階>>
(1) 神の子たちの実態と付随する教理
統治体の実態については、はっきりした。残念ながら彼らには、真実を擁護し非聖書的な組織の体質を改めるつもりはなかった。統治体が神の用いている器でないということは、もはや疑問の余地がない。

ということは同時に、「忠実で思慮深い奴隷級」の教理もまた否定されたことになる。神のみ言葉を擁護しようとしない者は神に忠実な者ではないし、神の権威より組織の権威の方が上であると考え、み言葉を退けても無事でいられると思う者は、少しも思慮深くはないからである。

そこで問題となるのは統治体の各成員を含めた、神の子の実態である。なぜなら、この章の冒頭でも触れたように、統治体のすべての成員が事件の全容を知っているとは考えられないため、成員各人の実態について最終的な結論が出ているとは言えないからである。

統治体は、「地上に残っている神の子の代表である」と主張している。エホバの神性を証明しようとしない統治体を見て、全世界の神の子たちは果たしてどうするであろうか。

事態を正すために立ち上がるなら、確かに本物の神の子と言える。しかし組織を恐れて何もできないのであれば間違いなく“偽物”である。そうなれば14万4千人の教理が否定されることになろう。

14万4千人とは、地上から選ばれて天に上り、霊者となって地上の民を統治する人々であると教えられている。真理、真実に基づいて行動しようとせず、神の民の中でなされた不公正を正すために立ち上がろうとしない人々が、いかにして地上の神の民を公正に統治できようか。無理な話だ。

ところで、この「忠実で思慮深い奴隷」および「14万4千人」の教理はものみの塔協会の骨格をなす教理である。忠実で思慮深い奴隷級の残りの者の数が少なくなっているので終わりは近いと預言しているし、神の王国は14万4千人とイエス・キリストによって構成されると教えているからである。エホバの証人は、この『ハルマゲドン接近説』と『神の千年王国到来説』を最大のセールスポイントにして、組織内部の者には宣教の強制を、組織外の人々にはものみの塔入会の必要を強調してきた。

もし、神の子たちが神の子の証を証明しようとしなければ、神の子の教理が否定される。そうすると神の千年王国そのものも否定され、エホバの証人の伝える音信はその実質を失うことになる。

ものみの塔協会の教義と預言年が崩壊してしまうのである。

(2) 個々のエホバの証人
統治体もダメ、神の子もダメということになったら、最後はエホバの証人一人一人の問題になる。事態がここまで進めば「ものみの塔協会はものみの塔ならずして偽りの塔」になっているはずである。つまり彼らが散々非難してきた大いなるバビロンに、自ら成り下がるのである。

そうなれば次の聖句が当てはまることになろう。

「私の民よ、彼女の罪にあずかることを望まず、彼女の災厄をともに受けることを望まないなら、彼女から出なさい」(黙示録18:4)
その時、真理を心から愛する人は、迷うことなくものみの塔協会から出るべきである。エホバの証人とはエホバを証しする人という意味である以上、エホバの神性と相容れない組織に留まることは神に対して不忠実になるからである。

真理を愛さない不法の人に従うことは、滅びを意味している。

(3) エホバの存在とその神性
ものみの塔聖書冊子協会は自分たちを別名「エホバの証人」と呼び、神のみ名エホバを担う唯一の存在であると主張している。

その「ものみの塔」が「偽りの塔」に変質した時、「エホバの組織だ」という主張をいつまでも許すことは、神の神性からして到底あり得ないことである。またその中に神の聖霊の所産である霊的パラダイスができようはずもない。

ゆえに、エホバ神が本当に存在するなら、必ず統治体とものみの塔協会を裁くはずである。霊的パラダイスを本気で作るつもりであれば、何らかの方法で実現させるはずである。

しかし、ものみの塔も裁かれず、霊的パラダイスも一向に実現しないならどうであろうか。自分のみ言葉であると明言する聖書の中で述べたことを、実際に行なわない神であれば、たとえ存在していたとしても、人類にとっては存在しないのと同じである。

エホバの存在とその神性は、ものみの塔協会に天の裁きが下るか否か、霊的パラダイスが実現するか否かによって明らかにされる。

統治体は、神の子たちは、果たしてどうするであろうか。そして何よりもエホバとキリストは、天の法廷は、どんな判決を下すのであろうか。

もし神の子たちが表わし示されるなら、次の聖句が成就するであろう。

「被造物自体も腐朽への奴隷状態から解放され、神の子の栄光ある自由を持つようになるのです」ローマ8:21

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エホバの証人という宗教 Ⅱ

2007-03-28 20:40:20 | Weblog
また宮坂兄弟は組織バアルの具体的な事例を上げて本部に送った。


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1986年11月21日

親愛なる兄弟たち

私は、ものみの塔協会の組織の中でバアル崇拝が行われていることを明らかにすると共に、そのことに関する本部の皆さんの見解を問う手紙を書いています。

〔1〕 ものみの塔協会内で確かにバアル崇拝が行われている証拠 エホバの組織内におけるバアル崇拝の傾向は、今回の事件を扱った監督たちの態度に非常によく現れていました。それを証拠として提出したいと思います。
(イ) 事件発生に関係した笹山兄弟の態度

事件の発端となる、広島会衆に関する報告を送った笹山兄弟はエホバの証人として、かつ、監督として長い経験をもつ兄弟です。また職業上、法律上の手続きや手順についても熟知しておられると思います。

正常な監督であれば、また法律事件に詳しければなおさら事実確認のない報告を送ることが、いかに愚かでふさわしくないことか理解しているはずです。一般の社会で、もしそのようなことを行なえば社会的信用を失う結果になるのは自明のことです。まして、エホバの証人であれば、偽り、偽証には細心の注意を払うはずですから、そのような報告を故意に送ることなど考えられません。ところが笹山兄弟は、事実確認がなされていないことを認めながらそのような報告を送りました。その後、何の調査、確認もしようとはしませんでした。さらにその点を指摘されても、平然と構えている兄弟の態度を私たちは不信(ママ)に思ったものです。

後日、明らかになったことですが、笹山兄弟は、事件発生前から日本支部の兄弟と個人的に電話で密接な連絡を取り合っていたようです。そして、事件に関する指示は、笹山兄弟を通して地域監督や巡回監督に伝えられたようです。笹山兄弟が、事実確認のない報告を送り、またその点を指摘されながらも平然としていられたのはこの背後関係によるものとしか考えられません。

このことからすれば、笹山兄弟は、神の前で真理によって得られる良心の平安より組織との関係で得られるものに平安を見いだしていた事になります。それはつまり、エホバより、組織を重視していたことにならないでしょうか。さらに、エホバより、組織を崇拝している証拠にはなりませんか。

(ロ) 地域監督の藤原兄弟は巡回訪問の際、金沢兄弟と話し合い、同兄弟が勤勉に聖書研究をし、また、よく理解していることを認められました。そして、広島会衆の兄弟たちの動機が悪くないことも認めて下さいました。にもかかわらず、藤原兄弟は柳村兄弟にこう語りました。「知識ではないんですよね。組織を知らないからこういうことになったんですよ。金沢兄弟も柳村兄弟も組織を一から勉強し直すんですね」

エホバの民にとって、霊と真理による崇拝より、組織についての知識の方が大切なのでしょうか。いわゆる組織についてよく理解しているという藤原兄弟が残り、霊と真理による崇拝を促進しようと努力している人々が排斥される。これが実態です。

(ハ) 今回の事件を扱った上訴委員会は、私たちを審理委員会に一度招集したのみで、本人に対する調査は何も行なわずに排斥の通知をしました。その後、彼らは「これは支部の決定です」という言葉を繰り返すのみです。その言葉を裏付けることとして、上訴委員会の中には排斥の理由さえ正確には知らない兄弟たちもいました。上訴委員会はいつから支部の決定を通知する委員会になったのですか。(「奉仕の務め」p.145~148)

「奉仕の務め」とは異なる行為を支部組織の名のもとに平然と行なえるということは、何を物語っているのでしょうか。まさに組織を神としていると言えませんか。

(ニ) 事件後、広島会衆に長老として任命された小熊兄弟は研究生との会話の中で、協会を異常に意識し、「これ以上話すと支部から怒られる」とか「真実を語ると支部から排斥される」などと語っています。一連の会話の中で小熊兄弟が一番恐れていたのは組織でした。彼の心の中は何に奪われていると思いますか。それは何を表しているでしょうか。
以上のような事実を冷静に考慮すれば、ものみの塔協会内において組織がかなり強力な影響を行使していることが理解できると思います。

〔2〕さて兄弟たち、ものみの塔誌の幾つかの記事が、この組織バアル的考えを助長していることにお気付きでしょうか。次の二つの記事を検討して下さい。

(イ) 日本語'79,6/1号第一研究記事「エホバの勝利の組織に対する信仰」の中に次のような一文があります。

「彼(イエス)は神権組織における揺るがない献身ゆえに西暦33年の過ぎ越しの日に殉教の死を遂げるに至りました」(p.14.8節)

イエスが神権組織に献身していたなどという聖書的根拠がどこにあるのでしょうか。

例えば、'82,2/15号第一研究記事「献身-誰に?なぜ?」という記事には「イスラエル人は神と双務契約を結んだがゆえに、神に献身した民であり、生来のイスラエル人として誕生したイエスは生まれながらにエホバに献身した人間でした」という主旨の記事が載せられています。この二つの記事は矛盾するのではないでしょうか。献身の対象としてエホバ以外の何かが存在するのでしょうか。もちろん、偶像崇拝者たちは、物質や富や名誉、欲望に献身しているかもしれません。しかし、エホバの民が、ましてイエスがエホバ以外の者に献身するなどという表現は人々を混乱に陥れるものです。このような不適切な表現が、神の民に組織バアル的な考えを助長しないと断言できるでしょうか。

(ロ)86,1/15号第二研究記事

「再び力を得て、疲れはてることがない」という記事のP.18,14節に引用された経験は次のとおりです。

「組織に堅く従いなさいと強く申し上げたいと思います。十分理解できないことや、受け入れ難いことがあったとしても、しばらくすれば解決されるという信頼を抱くことです。」
この兄弟が言いたいこと、また記事を取り上げた目的はわかります。しかし、このような表現をすれば、どんな誤解が生じるでしょうか。このような表現を用いれば、常に組織の言うことに従順に従い、疑問や疑念、また理解できない点でも、とにかく指示に従っていればよいということになりませんか。このような考えは、常に組織が正しいという確信に基づいていると思います。しかし、組織が真理からそれたり、支部レベルで背教が生じないと断言できるでしょうか。そのような場合でも組織に従っていればよいのでしょうか。地上の被造物で不謬なものは何もありません。すべてが誤ちを犯し誤導する危険を持っています。そのような組織に盲目的に従うことを勧めるような書き方は神の民の信仰に重大な欠点を作ることになりませんか。そして必要以上に組織に信頼を抱かせる結果、組織バアルに力を貸すことにならないでしょうか。

私は今回の事件を通して、今の神の民が特に、監督たちが霊と真理による崇拝をわきに押しやり、組織優先的考え、言い換えれば組織バアル崇拝に捕らわれていることを痛感しました。それで少しでも早くこのような事態が解決され、エホバに真の栄光が帰されることを願っています。もし、本部の兄弟が真理に従って行動するのを拒めば、日本支部と同様バアル崇拝者であることが明らかになります。それで、どうか本部の兄弟の見解を教えて下さい。手紙でも結構ですし、実際の行為でも結構です。兄弟たちが霊と真理による崇拝の模範を示して下さることを心からお待ちしています。

霊と真理による崇拝が確立されることを願いつつ


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聖書の中で「バアル」は次の8つのものに関して用いられている。

(1) 自分の妻を所有する者としての夫(創世20:3)
(2) 地主(ヨシュア24:11)
(3) 「諸国民の所有者」(イザヤ16:8)
(4) 同盟者(字義的には「契約の所有者」創世14:13)
(5) 有形物の所有者ないし持ち主(出エジプト21:28、34;22:8;列王下1:8)
(6) 特色となる性質、方法、職分などを有する人や事物。例えば、

弓を射る者(字義的には「矢を所有する者」創世記49:23)
「負債に対する債権者」(字義的には「負債を所有する者」申命15:2)、
「怒りにくれる人」(字義的には「怒りを所有する者」箴22:24)、
「わたしの係争相手」(字義的には「わたしの裁きを所有する者」イザヤ50:8)、…
(7) エホバ(ホセア2:16)
(8) 偽りの神々(士師2:11、13)
(「聖書理解の助け」p.171より)
古代イスラエルの後期において、バアルは主にエホバと対抗した偽りの神々を表すようになったが、基本的には所有者を意味している。

古代カナーンにおいて、多産、豊穣の神として多くの崇拝者を集めたバアル、ひたすら拡大と増加をめざして暴走する組織、ものみの塔協会にとって現代のバアルは組織そのものである。そして組織の成員にとっては「特権」が多産と豊穣の象徴になっている。このバアル崇拝を止めることは非常に難しいであろう。現在のものみの塔協会の体質では、組織バアルを捨てることは組織の崩壊につながるからである。

こうしたバアル化現象はものみの塔協会に限らず、すべての宗教に付きまとう本質的な問題であろう。おそらく概念と実質的意味との関係を限りなくあいまいにした階層構造を作り上げ、それを巧みに利用して人を操るという点では、宗教以外の組織にも共通する一側面ではないかと思われる。

<<神権ファシズム>>
ファシズムとは絶対主義的、独裁主義的な政治形態を指す言葉である。ファシズム体制下では、治安維持の名目の下に、言論、集会、結社権などが規制され、思想、信条の自由が奪われてゆく。

ものみの塔協会の場合は自らを神権組織と称しているので、その体制は神権ファシズムと呼ぶことができる。ファシズムの特徴はものみの塔協会にもすべて当てはまる。例えば、組織が取り決めた以外の集会を開くことは禁止されている。有志が集まって個人的な勉強会を開いたり、子供たちのための集会を取り決めたりすると、さっそく会報(王国宣教)にふさわしくない行為として載せられる。英語版の書籍(ものみの塔協会発行)を翻訳して役立てようとすると、組織に先走る僭越な行為として禁止されるといった具合である。また、出版権は「忠実で思慮深い奴隷級」の代表者である統治体の独占下に置かれており、彼らの持つそうした権威を侵すことは背教行為とされる。

現在のこうしたファシズム的な体制の中で最も顕著なものは、情報統制である。以前からものみの塔協会は真理擁護、成員を保護するという名目で情報の統制を計ってきたが、私たちの事件後この傾向は一層強まり、ものみの塔誌上にそうした記事の載ることが多くなった。

以下にその例を幾つか上げることにする。

「パウロはクリスチャンの好奇心に付け込んで信仰を覆そうとするものに気をつけるよう警告しました。『テモテよ、あなたに託されているものを守り、聖なる事柄を汚す無駄話や、誤って『知識』ととなえられているものによる反対論から離れなさい。ある人たちは、そうした知識を見せびらかそうとしたために信仰からそれて行きました。』‐テモテ第一6:20、21
…好奇心から世の哲学を調べてみようという気になるなら、それも害を招きかねません。…人間の哲学は神の言葉を無視していますから、哲学が及ぼす危険を決して過小評価してはなりません。…しかし、奔放で病的な好奇心を持つなら、いつのまにか空論や人間の学説の泥沼に引き込まれてしまう恐れがあります。」(1987年2月1日号p.28、29)
このようにもっともらしいことを言っているが、本音はものみの塔協会が出版している以外の本を読んでもらっては困るということである。組織の代表者たちは、そのことをしばしば次のように言い表わす。

「兄弟はずいぶん余裕があるんですねぇ」
「奉仕の準備にはどのくらい時間を取っておられますか」
「もう聖書全巻をお読みになりましたか」
「他の本を読んで霊性が下がるようなことはないですか」
「読書が好きなんですねぇ」

といった具合である。

組織の理想としては他からの情報をいっさい取り入れて欲しくはないということであろう。さらに最近号のものみの塔誌を見ると、ファシズム化の傾向が一層強化されていることが分かる。ついに、臆面もなく「組織の言うことには黙って従え」というような主旨のことまで述べるようになった。

「疑い(英文ではunquestioning)を抱かず、神への従順を示すのも、信仰の重要な一画です。」(87年1月15日号、p.13)
「高い塔の上の部署に就き、前屈みの姿勢を取りながら、昼間は地平線のあたりをじっと眺め、夜は目を凝らして闇を見据える、常に警戒を怠らない見張りの者の姿を思いに描いてください。それが、イザヤ21章8節で用いられている「物見の塔」に相当するヘブライ語(ミツベ)にこめられている主要な考えなのです。見張りの者はしっかり目覚めているので、正常な人ならこの者が報告を声高く告げることに疑いを差しはさまないでしょう。…「ものみの塔」と「目ざめよ」の両誌に掲載されるすべての記事、それにさし絵などのアートワークを含むすべてのページは、印刷に先立ち、選ばれた統治体の成員による綿密な検査を受けます。加えて、「ものみの塔」誌の記事の執筆を助けている人々はクリスチャンの長老であり、その割り当ての重大性を認識しています。(歴代第二19:7と比較してください。)それらの長老たちは多大の時間を費やし、書き記される事柄が真理であり、聖書に忠実に従っているかどうかを確認するため聖書や他の参考資料を徹底的に調べます。…ですから、「ものみの塔」と「目ざめよ」の両誌は信頼して読むことができます。」(下線は広島会衆)(1987年3月1日号、p.12、15)
神の声は常に統治体を通して響くことになっているのだから、神への従順は統治体への従順になる。統治体に代表される「思慮深い奴隷」級の権威を絶対的なものとし、組織にとって都合の悪い情報は一切遮断して、一般の信者たちに組織は高いレベルの情報を与えていると思い込ませる。これらの記事の意味することは、結局のところ、「奴隷」級の提供する以外の情報を取り入れてはならないということである。

「統治体」が、このようにものみの塔協会内で絶対的な権力を振るうことができるのは、徐々に変更された「背教」の定義によってである。

1981年に出された「王国宣教学校」の教科書166ページには、次のように述べられている。

「エホバの真の崇拝(霊と真理による)や、エホバがその献身した民の間にお立てになった秩序に逆らって取られる行動」
秩序の本来の意味から言えば、エホバが立てた秩序とは、神の定めた原則、取り決め、規範などを指す。しかしこれだと、地上の組織が神の定めた「秩序」と一致している場合には問題ないが、組織が神の取り決めに違反している場合には従わなくても良いということになり、ものみの塔協会にとっては非常に都合の悪い教義になる。またどこから突かれても大丈夫だという確信がなければ、この定義ではやがて不十分になる。

そこで数年のうちに、徐々に変更を加え、この「秩序」の適用を狭めて、ついに85年には、それが組織、すなわちものみの塔協会に当てはまるということにしてしまった。ものみの塔誌1986年4月1日号(p.31)には、背教に関する何とも歯切れの悪い記事が載せられているが、結局言いたいことは次のことである。

「神、キリスト、聖書を信じていたとしても、「今日、地上には『イエスの地上の関心事すべてを託されて』いる『忠実で思慮深い奴隷』がおり、その奴隷級はエホバの証人の統治体と結び付いているという信条を受け入れないなら、反キリストであり、背教者とみなされる」

つまり、統治体に逆らうのは神への反逆、ものみの塔協会の代表者に従わない者はみな背教者とみなすということである。

こうなると、自分たちに不都合なことを言う分子はすべて背教者として片付けることができ、しかも背教者との交渉を禁じるという名目で、一切の情報が伝わらないようにすることもできるのである。

1986年3月15日号ものみの塔誌は、背教者からの文書に関する措置について次のように述べている。

しかし、この問題に関しては、なすべきことをエホバがそのみ言葉の中で告げておられるということを忘れないようにしましょう。エホバは背教者について何と言っておられますか。「その人たちを避けなさい」(ローマ16:17、18)、彼らとの『交友を止めなさい』(コリント第一5:11)、「〔彼らを〕決して家に迎え入れてもなりませんし、〔彼らに〕あいさつの言葉をかけてもなりません」(ヨハネ第二9、10)と言っておられます。これらの言葉は強い調子で語られた明確な指示です。好奇心をそそられ、背教者として知られる人の文書を読むことは、真の崇拝のその敵をまさしく家の中に招じ入れ、共に座ってその背教者の考えを語らせるのと同じことではないでしょうか。(p.12)
エホバの指示という大義名文を掲げ、背教者との交渉を一切禁止している。本当の背教者に対するものであればこういう指示もそれなりに意義があるとは思うが、恐ろしいのは情報統制の名目に使われることである。成員は幹部の都合のいいように操られることになる。今回の事件では、内部との交渉を一切断つことにより、真実が伝わらないようにしている。背教者として片付けてしまえばまさに「死人に口なし」である。話し合いのための面会申し込み、集会、大会への出席など、その一切が拒否され、普通の背教者に対する扱いよりもさらに厳しい指令が出されている。そのすべては特例という口実によって行なわれたのであるが、真実を語る背教者というのはものみの塔協会も困るのであろう。

一度特例を施行してしまえば、後はもう簡単である。自分たちの取り決め違反はすべて特例で片付ければよいのである。今後、組織の都合によって大いに特例が増えてゆくことであろう。

こうして明らかになったのは「統治体」の独裁支配であり、ものみの塔協会による神権ファシズムの体質であった。憂慮すべきはこれがますます強化されようとしていることである。


エホバの証人という宗教

2007-03-28 20:39:21 | Weblog
9章 この事件によって明らかになった事柄
約二年間に及ぶ今回の事件を通し、統治体とものみの塔協会に関して明らかになった点を要約すると、だいたい次のようになる。

極めて根深い偽善的な体質
組織バアル、神権ファシズム
教義上の諸問題
新世界訳聖書に関する諸問題
(1) 偽善
「言うことと行うことに違いはない」。キリスト教世界を偽善者の大集団と非難してきたものみの塔協会にとって、これは最大のセールスポイントであった。その点について「二十世紀におけるエホバの証人」は、<手本によって述べ伝える>の見出しのなかで次のように述べている。

「言うことと行うことが違うのは偽善であって、宗教上の偽善は多くの人を聖書から引き離してきました。聖書が誤っているわけではありません。………それでエホバの証人は、自分が他の人々に勧めるクリスチャン的な生き方の手本となることによっても『良いたより』を人々に伝えようとしています」(p.21)
また、「目ざめよ」はエホバの証人に対する外部の評価として、カトリックの刊行物「モンド・エッレ」から次の一文を引用している。

「自らの宣べ伝える信仰を実践する点での第一人者はエホバの証人である」('87 3/22号p.6)
この評価は誠実に努力しているエホバの証人にはその通りであっても、統治体やものみの塔協会の幹部には全く当てはまらないようである。本を執筆して教えている本人が一番駄目だというのは、宗教上はよくあることで少しも珍しいことではないが。

ものみの塔協会の現執行部はことごとくその公約を破った。偽善の決定的な証拠はこの事件そのものである。もし組織の中に偽善的な体質がなければ、このような事件は起こらなかったからである。この点についてはもう十分であると思うが、二つの例を付け加えることにする。

(I). 加藤さんは、「裁きの根拠を知らせてほしい」と支部に申し入れていたが、それに対して日本支部は小熊兄弟を通し、「知る権利がない」と回答して来た。このクリスチャンらしからぬ回答に唖然とした加藤さんは、11月1日付けで支部に質問状を送った。すると次のような返答が送られてきた。


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ペンシルバニア州の ものみの塔 聖書冊子協会

1985年11月4日

北海道札幌郡XXXXXXX 加藤政治様 前略
あなたは最近、当協会の奉仕者本間年雄氏にご質問の手紙をお送りになられたようです。わたしたちは以前にもあなたから同様の手紙をいただいておりましたので、ここに当協会の見解をお知らせすることにいたします。

ものみの塔聖書冊子協会の職員もまたクリスチャン会衆内にあって聖職者の立場で働いている長老たちも自分たちの職務を果たす上で、聖書に定められている神の律法および法律が定めた種々の要求につき従うことを堅く決意しております。ご存知のように聖職者に対する刑法上の一つの規定は、刑法第二編第13章第134条にある秘密漏洩罪に関するものです。その一部をここに引用いたします。「宗教…ノ職ニ在ル者又ハ此等ノ職ニ在リシ者故ナク其業務上取扱ヒタルコトニ付キ知得タル人ノ秘密ヲ漏洩シタルトキ亦同シ」

したがって、長老の職にある者(たち)がクリスチャン会衆内での特定の業務を取り扱った結果、当人から知らされた情報のみならず、推理や調査などによって知り得た秘密の事実をまだ知らない人に告知することは、漏洩罪に相当するものです。この理由によりあなたがお尋ねになっている件に関しては、当協会のみならずクリスチャン会衆内に聖職者の立場で仕えるいかなる長老もあなたの求めに応じて情報を提供することができないことをここにお知らせいたします。どうぞご了承ください。

聖書教育に励む

Watch Tower B&T Society
OF PENNSYLVANIA


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この回答の中で注目すべきなのは、長老たちを「聖職者」と述べている点である。エホバの証人なら誰でも知っていることであるが、「聖職者」とは偽りの宗教の帝国、大いなるバビロン(ものみの塔協会は自分たち以外の宗教組織をすべて大いなるバビロンと呼んでいる)の僧職者の代名詞として使われている言葉である。「聖職者」「僧職者」クラスは大患難のとき、真っ先に滅びるとものみの塔協会は教えている。

それなのに自らを「聖職者」と述べるとは!まさか自分たちの教えを忘れたわけではあるまいに。

(II). 「愛はクリスチャン会衆を見分ける鍵です。この組織は愛に満ちています。皆さんも来て、是非それを確かめてください」と、ものみの塔誌は事ある毎に宣伝している。しかし藤原兄弟は1985年7月11日、公の集会で次のように述べてしまった。

「では、その支部組織を通して私はあの突然、びっくりするほど突然任命されたのですけれども、ここに来なければならぬ羽目になったのは…別に皆さんを非難するという目的で来たわけではないので、どうぞビクビクなさらないで下さい」

藤原兄弟もつい普段思っていることが出てしまったのであろうが、この発言について、加藤さんは次のような感想を支部と本部に送った。

「同労者である講演者と会衆の間で、監督者が『ビクビク』するという恐怖心を抱かせる現実。これはエホバの権威、それとも人間の権威そのどちらですか。少なくともエホバの証人の中で人間が人間を恐れるというのは不自然なことでしょう。クリスチャン同志の交わりの中で不用意に発せられた言葉ではあっても、無神経に平然とこのようなことが講演者の口から飛び出すというのは、おおよそ理解しがたいことです。」

あらゆる面でそうだというわけではないが、全体的に組織の原理は愛の原理ではなく従順を要求する「統制の原理」である。上に行けば行くほど、この傾向は強くなる。これが決して日本だけの問題でない事は、震え上がった本部のフルヤ兄弟のことを考えれば一目瞭然であろう。

(2) 組織バアル・神権ファシズム
<<組織バアル>>
1986年12月、ものみの塔協会の副会長、ロイド・バリー兄弟は日本を訪問して講演を行なった。その時の様子をテープで聞いた金沢兄弟は、今回の事件の本質的な原因が組織崇拝、組織バアルにあるのではないかと考えるに至った。そして約一年後、次のような手紙を本部に送った。


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1986年11月15日

親愛なる本部の兄弟たち
この手紙によって私はまず、今回の事件を通して表面化した崇拝の問題とそれを育んできた背後にある状況についてお知らせしたいと考えています。そして本部の皆さんが神の組織、真理の組織として、そうした問題にどのように対応なさるかを是非ともお聞きしたいと思っています。

イエス・キリストが教えられた通り真の崇拝は霊と真理にしたがって行なわれます。もし表面上真理に従っているとしても陰で行なうことが全く異なっていたり、さらに、語ることと行なうことが違うのであれば、それはもはや真の崇拝と呼ぶことはできないでしょう。崇拝の形をエホバ対バアルと考えるなら、古代イスラエルのように何らかの形のバアル崇拝が入り込んでいるということになります。私たちの事件の最後に行き当たったものは、実にこうした崇拝の本質に関る問題であり、それは監督たちの示した次のような反応によく表れています。

彼らは「エホバと聖書には従います」というので「それではエホバにふさわしく事を正しましょう。真の崇拝者であると主張しているのだから真理、真実に従って物事を扱いましょう。やましいことがなければ光を当てることをためらったり、拒んだりする必要はないでしょう」と申し出ると最後に返ってくるのは「組織の指示です。たとえ真実がどうあろうと私たちは組織に従います。」という返事であった。その後はどう働きかけてもただひたすらだんまりである。これは期間をおいて何度か繰り返されたことでもあります。

このように口ではエホバと聖書の権威を認めると言いながら、実際そのようにはせず、願い求めても応じないということであればヨハネ4:23、24からして、これはもはや真の崇拝を後ろに退け、そのidentityを失ったとみなすより他にありません。そして、組織の名においてそういうことを行なっているのですから、真の崇拝の中に入り込んできたBaalの名は「組織」であるということになります。

こうして「組織Baal」の実在が露呈されたわけですが、彼らの言うこの「組織」という言葉がいったい何を指すのかは非常に分かりにくい問題です。組織の定義は「同一の取り決めに従う知的集団」であるとされています。これからすると、取り決めか、知的集団と言うことになりますが、監督たちの反応はこのいずれでもないことを示しています。取り決めだとすると少なくとも「ものみの塔誌」や「王国宣教学校の教科書」の指示には従うはずですが、私たちがその箇所を指摘しても彼らはそうしようとはしませんでした。では知的集団として目に見える人間…これはその徴候すらありません。どうもこの「組織」という語が指すものは建物、人、取り決め、スタンプなどの組織の諸要素のいずれでも、またその集合体でもないようです。私は監督たちが「組織、組織」と語る場面を何度も見てきましたが、まず、その意味の意味あるいはその実態が意識されていることはほとんどなかったといってよいと思います。もちろんごく一部の例外はありますが…

こうしたことからすると、この「組織」なる言葉は明確に意味が規定され、その実態が識別されたものというよりは、むしろ、漠然とした概念化された性質のものということになります。おそらく、それはaion, mode, system, administration,などのレベルに相当する「組織」というConceptではなかろうかと思います。それで一応このBaalはConcept Baalと呼ぶことにしておきます。

さてConceptは通常、意味野(Meaning Field)を形成し、中心をなす核とその周辺領域からできています。監督たちがしばしば口にする「それは協会の指示です。協会からの連絡によれば…、協会の考えでは…」などという表現から判断すると、意味野の核はものみの塔協会であり、その周辺領域にはものみの塔協会との接触のすべてが含まれると考えることができます。従って法的にはこの「組織」という名のConcept Baalは、ものみの塔協会に象徴され、そしてものみの塔協会に集約されてゆくことになるといえるでしょう。

ところが、先に述べた通りこの意味野はその核も周辺領域も、バアルのイメージではあってもバアルそのものとしては意識されておらず、実際バアルになっているわけでもありません。とすれば、本当に崇拝されているもの、実際のバアルは別のところに、すなわちConcept Baalの背後に隠れているということになります。この背後に隠れているものこそバアルの実体でありConcept Baalを操り、巧みにバアル崇拝を行なわせる正体であるといえるでしょう。

このConcept Baalの正体を考えると、まず思い出されるのは、リチャード・名幸(ナコウ)兄弟が秋田県能代会衆を1977年に訪問した時兄弟たちの前で語った次のような言葉です。

「イヌは餌で訓練するのが一番です。そうすると進歩するでしょう。同じように兄弟たちも特権で訓練するのが最善の方法です。だから兄弟たちも特権を目指しなさい。」彼はハワイ出身の宣教者で長く巡回、地域監督として奉仕していました。キリストがこのような仕方で弟子たちを励ます姿はちょっと想像しにくく思いますが、この意識でゆくと、兄弟たちはイヌ、特権はエサ、そして組織はそのエサを与える主人ということになり、組織の犬になればなるほど特権への道は近いということになるでしょうか。もちろんこれは冗談としてではなく公的な場で、しかも真剣に語られた言葉です。

兄弟たちがいかに特権を望んでいるかはなんともあさましいほどで、この組織に入ってすぐに目撃した例を一つ記します。1973年の大阪国際大会でのこと、京都の旅館に帰って風呂に入っているとき、すぐ隣で「あいつは出世せん。あんなやり方では無理だ」と大きな声で話している人を見かけました。出世するのしないのと話しているのでこれはエホバの証人ではないだろうと思いましたが、次の日大会会場で会ってビックリしました。その人はある自発奉仕部門で働いている補佐の兄弟の一人でした。

こうしてエホバの証人の中にも特権コースという出世の道があることを知るようになったわけですが、長老に任命されてからはさらに特権をめぐる醜い競争を目にする機会が多くなりました。もちろんそうではない監督たちもたくさんいるとは思いますが、大会のプログラム欲しさに無理しても開拓奉仕をしようとする長老は少なくありません。このような特権に対する典型的な姿を浮き彫りにしたのが、今回の事件で監督たちの示した態度でしょう。彼らが最後に気にしていたのはエホバの栄光でも会衆の益でもなく、自分の特権だったのですから。特権を失うことをいかに恐れたかは尋常ではなかったのです。また日本支部がこの事件に関与したほとんどの監督たちの特権を増し加えたことも、支部の考え方をよく表していると思います。

これらのことがいったい何を意味するのか、答えは明らかではないでしょうか。Concept Baalの正体は特権欲以外には考えられません。事実、「特権、特権」という人は必ず「組織、組織」という人でもあります。心の宝なる特権を与えてくれるのは「組織」ですし、特権を奪う恐ろしいものもまた「組織」なわけですから。したがって特権欲という自己顕示欲、特権を失うことへの恐れ、これらがConcept Baalの根またトゲであると言えるでしょう。この強大な力の前には、真理も真実も誠意も実にもろいものです。「あなたの組織に対する忠誠が試されます」と言われれば、ただただ恐れ震えるのです。何のことはない自分の命令に従えと言うんでしょうけれども、「組織」という言葉を持ち出されると、もう手も足も出ません。Concept Baalの威力のすごさです。これは実に強力です。人々を支配する恐ろしい力を持っています。最初は良いもの健全なものも、たちまち変質、変容させられてしまいます。さすがは空中の権威の支配者であるとつくづく感心させられます。組織が巨大になればなるほど一個人には見えなくなるという面もありますし…

しかしConcept Baalの恐ろしさはその力だけではありません。その性質、特徴にも非常に恐ろしい面があります。

一つの点はConceptと実体が心の階層の中で別々に住んでいるということです。Conceptの方は心の表層に置かれています。しかもそのConceptは、ほとんど無条件で受け入れられているものです。エホバの組織は組織のエホバです。エホバに仕えることは組織に仕えること、エホバの組織はただ一つそれ以外は皆サタンの組織、組織を悪く言うものは誰でもサタンの手先ということになります。それゆえ嘘、偽り、偽証を犯しても、それは組織のための神権的戦術、霊的殺人を犯しても組織のガンの手術になってしまいます。一方、実体の方は心の階層の最も下の方にしかも一番奥深いところに潜んでいます。心の中に広大なネットワークを作っていることは本人もほとんど意識しません。都合が悪くなるとこの実体のバアルは意識とのFeed Backをswitch offにし心の奥深くに隠れ、Conceptを砦として立てこもってしまいます。

そういうわけでBaal崇拝をしていても本人は常にエホバを崇拝していると考えることになります。だからこそ真理、真実を退けても、あの藤原兄弟のように、「心からのエホバの証人でいましょう」ということに何のためらいも感ぜず、偽善的であるとも思わないのでしょう。もっとも中にはかなり良心的に苦しんでいる人もいたようですが。嘆願の手紙を迫害と言う、笹山兄弟のような人もいましたので。私たちからすればずいぶん身勝手なことだと思いますが。それでも組織恐ろしさに何もできません。会うことも話すことも。「エホバより、いったい何を恐れるんですか。組織の神はエホバでしょう」と詰め寄れば、最後には調整者の織田兄弟が去年の12月の地帯訪問の時祈りの中で称えた「母なる組織」に、司会者の兄弟が声を高めて強調した「忠誠を保つべき組織」の中に逃げ込んでしまいます。その砦から出てきた監督は今まで一人もいません。

このようにConcept Baalには心の階層構造を最も効果的に用いるという恐るべき性質がありますが、さらに警戒を要するのは一定の期間が過ぎ、あるレベルに達するとConcept自体が一人歩きを始めてしまうという点です。ある大脳生理学者はこうした現象を「言語系の暴走」と呼び、次のように指摘しています。「これは画一化された一元的環境、組織体の中で生じやすい現象であり、条件反射的になっている言語系とエングラム(engram)の蓄積によって発生の条件が形成されてゆく。この現象を起こすには、まず動物系の欲求を押さえると同時に、それを正当に満たすことのできるConceptを設定する。続いてそのConceptを神聖で冒すべからざるものにし、条件反射のレベルまで高める。そうすると、やがて言語系の暴走が始まる。」

暴走が始まるとはもはや、その言語系Conceptを利用していた者にとっても制御不能になってゆきます。

今の組織の実情を見ていると、Concept Baalが暴走を開始するための下地は十分整いつつあるように思います。もしかしたら、もうすでに一部では始まっているのかもしれません。そうではないとしても、少なくともそれを育む背景は十分にあります。以下にその幾つかの状況を記します。

以前はそうでもなかったように思うのですが、最近会衆を訪問した巡回監督のほとんどはまずもてなしに、そして成績と数字に強い関心を持っていました。立場上仕方がないのでしょうけれども、巡回区の平均と会衆の平均を比較し、平均が下がっている分野を重点的に励ますことになります。かくして巡回監督は全国平均と、長老たちは巡回区の平均と比較し、数字の上下にひたすら一喜一憂することになります。「兄弟たちも嫌でしょうが、僕らも上から同じようにやられるんです」と正直に述べたある巡回監督は、四年後に降ろされていました。またもてなせば霊性の良い会衆、もてなさなければ(気に入る程度に)霊性の悪い不健全な会衆とみなされるのは、ごく普通のことです。今回の事件に加わった巡回監督は誉め言葉を要求し、あからさまにもてなしを求めました。彼は右ならえのタイプですから例外ということではないでしょう。本人も「どこでもやっていることですよ」と述べていましたので、これは全体的な傾向であろうと思います。

ある時協会から特開者宛にきた手紙に「協会は今の手当てで十分にやってゆけると思っています」と記されていました。この時、日本の特開者の手当ては政府が生活保護を受けている者に支給している金額の約半分でした。ですから手当てだけでまともに暮らしてゆくことはとうてい無理な話で、実際は親、親族、会衆の世話かやっかいになっています。それらはみなエホバの世話ということになってはいますが。だから親は心配します。若いうちは良くても年をとったらどうするのかと。「心配して反対すればサタンの手先にされ、困ったときには親にされる」という嘆きも出てくることになるわけです。親には反対され、会衆の世話もなく、巡回監督にはいじめられるという開拓者はそれこそ大変です。奇跡的な生活を続け、やがて健康をこわし、さらに「組織は冷たい、エホバは何もしてくれなかった」と言って霊性までこわしてしまうか、ひたすら配布に励み、区域の人々がどう思おうとかまわず頑張るかのどちらかになってしまいます。時には不名誉な失踪事件も起きるわけです。

日本は国民の九割以上が中流意識を持っているというほど物質的には豊かになってきていますので、卑しくなるなという方が無理であって、裏の世界ではさもしい光景が繰り広げられるのもやむを得ないかもしれません。こういうことは表向きは絶対に言いません。すべては裏の本音の世界で語られることになります。従って真実を知らない監督たちも増えてゆきます。本当のことを知らせても喜びませんし、また何もあえて夢をこわす必要もないわけですから。時には、「組織に対する反抗と思われるでしょう。背教とみなされたら大変だから止めなさい」という親切な助言を受けたり、「誰があなたにそうするよう指示しましたか」という円熟した答えにあって終わりになるということもあります。

こうした背後の状況とそこに出没する実体Baalの本音の世界を見ると、これは間違いなく特権欲の世界でもあるという感を強くします。特権に通じる数字論理、もてなし、感謝、励ましという接待論理がそれを支え、育んでいます。「組織」という名のConcept Baalはそこから力を得、同時にそうした状況を強化してゆき、すべてはエホバの業、エホバの祝福であると思い込ませてしまいます。何とも巧妙なからくりです。そして内部が醜くなればなるほど“あの白き壁”“象牙の塔”のごとく、べテルを豪華に飾り立て、誉め言葉、賛辞で組織を飾ることになるでしょう。また「救い」「滅び」という呪文で人々を脅してゆくことにもなります。

このような組織はいったい誰にとって好ましく麗しいのでしょうか。言うまでもなく、それはノーメンクラツーラのごとく特権の恩恵に浴すバアル崇拝者にとってです。彼らにとっては、それこそパラダイスでしょう。しかし真の崇拝者から見ると、それはまるで悪臭を放っているかのようなものです。すでに、ものみの塔誌、目ざめよ誌の組織礼賛の記事とは裏腹に「聖書は良い、真理は素晴らしい、しかし組織は嫌だ」という人は決して少なくないのです。

私はバアル崇拝がエホバの民の中に確かに存在すること、そのバアルの名と実体、育んでいる状況について述べてきました。それで、結論としてお尋ねしたいことは「ものみの塔協会は、このバアル崇拝をいったいどうするつもりか」ということです。

エホバがバアル崇拝をいみ嫌われることは言うまでもありません。それゆえバアル崇拝にどう対応するかによってものみの塔協会の実体も明らかになるものと思います。

Concept Baalは麻薬のようなものですから一掃することは大変なことでしょう。名称を変えたり、取り決めを調整したりする程度では決して消えることはないでしょう。バアル崇拝を根絶するには多大の犠牲が求められるものと思います。(I Pet. 4:17; Isa. 30:25)しかし、それでも、どんな犠牲を払っても真理の組織としてのidentityを天と地の前で示して下さるでしょうか。ものみの塔協会こそイザヤ32:15~18を成就させる組織であることを切に期待しています。

主権者エホバの霊が豊かに注がれ
真の崇拝がこの地に確立されることを願いつつ



エホバは義によって神聖にされる

2007-03-28 20:36:56 | Weblog
1987年1月25日付けで日本支部、および本部の監督たちに関する訴状を統治体に送る。これをもってものみの塔協会、統治体に対する折衝のすべては終了することになった。


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1987年1月25日

親愛なる統治体の兄弟たち

皆さんの決定をお尋ねする1986年12月9日付けの手紙を送って以来1ヶ月余りが過ぎましたが、結論はどうなりましたでしょうか。すでに方針は定まっていることと思いますので、ここに日本支部の監督たち、並びに本部の監督たち(奉仕委員会の監督たち、及び関係するすべての監督たち)に関する訴状を送ることに致します。

私たちは統治体がこの訴状を扱うのか、それとも無視するのか、それによって統治体が神の組織の代表なのか、それともそうではないのか、神の組織のidentityを示すのか、それとも示さないのかを問うことにしたいと思います。

言うまでもなくエホバは偽ることのできない神です。そして神の子キリストも欺きを語ることはありませんでした。エホバやキリストはそのような方々ですから、たとえご自分の組織に都合の悪いことであっても、偽りや偽証を容認されることは決してあり得ないでしょう。

では統治体の皆さんはいかがでしょうか。地上においてエホバを代表する方々としてエホバの神性を証明して下さるでしょうか。真のクリスチャンとしてキリスト教の実質とその力を示してくださるでしょうか。ぜひともそうあって欲しいと私たちは願っています。

皆さんにもいろいろとご都合があると思いますが、様々な状況を考慮しますと今回の事件もそろそろ決着をつけるべき、ふさわしい時期にさしかかっているように思います。それで訴状を提出すると同時に、連絡のための最終期限を明示しておきたいと思います。

最終期限は『1987年3月15日』です。

この日を過ぎてなお、何の連絡もなければ、皆さんもこの事件を正すことを放棄したものと受け取らせていただくことにします。

私たちは一年半に渡り証拠を提出して訴えてきました。嘆願のために出した手紙は一千通をはるかに越えています。しかし日本支部、及び本部の監督たちはこのすべての手紙を退けました。それは偽りや偽証が単なる誤解や錯覚によるものではなく明らかに意図的なものであることを証しています。エホバの証人であると唱えながら、意識的に偽りや偽証を黙認し続けることのできる信仰とその良心を考えると、この事態はもはや真のキリスト教からの背教と見なさざるを得ません。それゆえ統治体も、30人の排斥を含む日本支部の偽り、偽証を容認するとすれば、天の法廷において以下の7つの点が統治体に関して立証されたものとみなさせていただくことにします。

(1) 組織バアルを選ぶことにより、唯一真の神エホバの真の崇拝を退けた。
(2) エホバの神性に従うことを拒むことにより、神の子の霊を否定した。
(3) イエス・キリストに倣うことを拒むことにより、キリスト・イエスに付くバプテスマを否定した。
(4) 思慮深い奴隷級の証しを放棄した。
(5) 王の律法を守る君としての証しを放棄した。
(6) 真実を愛さないことにより、光の子の証しを放棄した。
(7) 聖書論理と組織論理を組織の都合によって使い分ける偽善者であることを暴露した。
もし皆さんが神の義と公正と憐れみに基づいてこの問題を正そうとしなければ、以上の点が「天の法廷」の前で立証されたものと判断させていただくことにします。いかに残りの者といえども聖霊を取り去られてしまえばただの人、いかに統治体といえども聖霊を取り去られてしまえばただの人間の組織にすぎないでしょう。

聖書預言に関する私たちの理解によれば、「エホバの前で事を正す責務を負っているのは、どうしても残りの者を代表する統治体の皆さんであるべきだ」ということになります。(イザヤ41:15)

しかしあえて皆さんが脱穀ソリになることを拒むというのであれば、私たちは真の残りの者、本当の神の子を捜さねばならなくなるでしょう。そしてアブラハムの石ころを試してみざるを得ないということになるでしょうか。どうしてもその道を進まねばならないとするなら、その時にはエホバが必要な力と理解と知恵を与えて下さるものと、私たちは確信しています。

真の崇拝の繁栄とその勝利を祈りつつ
北海道広島会衆


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本部の監督たちに関する訴え

(奉仕委員会の監督たち、並びに関係する責任のあるすべての監督たちに関して)

〔I〕偽り、偽証


日本支部の偽り、偽証を容認した。

〔II〕 流血の罪


日本支部による30名の殺人を容認した。

〔III〕 背教


(1) 日本支部の背教を容認するだけではなく、それを支持した。1987年の年鑑p.8には、それが反映されている。

(2) 組織バアルを唱道した。参照:1986年3月~12月までの広島会衆からのすべての手紙

(3) 特権の有無にかかわらず神の義に基づく公正で公平な裁きを受けることができるとする、エホバの証人の教えを自ら行なおうとはしなかった。広島会衆からの訴えを退け、嘆願を無視し続けた。

(4) 真理の書であるみ言葉聖書に対して極めて無責任な態度を取った。新世界訳聖書日本語版の誤訳や問題点について報告し質問したにもかかわらず、何ら返答をよこさなかった。
(1986年7月21日及び同年11月6日付の手紙1987年Y.B.p.8参照)


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日本支部の監督たちに関する訴え

〔I〕偽り、偽証

その基準:使徒5:1~6;「崇拝の一致」p.53


(1) SC:SD1985年6月14日付けの手紙の終りには「この手紙の写し:第79巡回区藤原武久兄弟」と記されている。しかし写しでなかったことは藤原兄弟が1985年7月11日の集会において会衆の前でその手紙を朗読した時に明らかになった。

(2) 1985年7月9日、藤原兄弟は突然広島会衆を訪問した。その時、兄弟の提案により訪問の目的を日本支部に電話で尋ねることになった。それで電話したところ、「地域監督としての調査と援助です」との答えを得た。だが広い意味では審理も排斥も援助になりうる。巡回訪問の前、三人の援助者、並びに特別委員会が審理委員会を開くための根拠を捜しているのは明白であったので、援助の意味を限定するため、「それだけでしょうか」と尋ねてみた。なかなか答えようとしなかったが、ついに「調査と援助だけです」と答えた。しかしこの言葉はわずか三日後に覆されてしまった。

(3) 笹山、藤原兄弟は再三に渡り、「私たちは日本支部の指示通りにやっているだけです」と強調した。もしそうだとすれば、支部は偽りや偽証を積極的に支持したことになる。笹山兄弟は、「支部と電話で連絡を取り合っています」と述べていたので、その可能性は極めて高いといえる。加えて日本支部は最終的に、そして法的にA、K姉妹、笹山、藤原兄弟の偽り、偽証を承認した。

(4) 1985年札幌、八戸(はちのへ)地域大会、及びその後の巡回大会において今回の問題に関し真実を曲げて伝えたすべての発言。

(5) 各会衆の長老団へ送られた偽りの手紙。

〔II〕 殺人

その聖書的根拠:ヨハネ第一3:15;

〔証拠〕


(1) 1985年7月12日に日本支部の代表者藤原兄弟は、広島会衆に敵意と憎しみの精神を播き始めた。その後監督たちは現在に至るまでその精神を大いに助長してきた。

(2) 1985年7月15日特別委員会の瀬野兄弟は「金沢兄弟たちと行動を共にすると組織にはもう永久に戻れませんよ」と姉妹たちに述べた。これは日本支部が初めから殺意を抱いていたことを示している。

(3) 公正で義にかなった裁きを求めるすべての声を退け、30名の排斥を決定した。

(4) 根絶宣言、絶滅宣言を出した。

(5) 文書、雑誌を切り、霊的食物を断とうとした。

(6) 転勤の可能性のある姉妹たちが復帰の方法を尋ねたにもかかわらず、何の返答もよこさなかった。

(7) 一千通を越える嘆願を無視した。

〔III〕 背教

定義:エホバの真の崇拝(霊と真理による)やエホバがその献身した民の間にお立てになった秩序に逆らって取られる行動
(KS81Jp.166)

〔その証拠〕


(1) ものみの塔誌の義の裁定について1985年7月9日~14日の巡回訪問で、藤原兄弟は「ものみの塔誌の義の規準」に関する日本支部の裁定を広島会衆に伝えた。要約すると内容は以下の通りである。「終わりを生き残るために必要な救いの規準はバプテスマの規準である。したがって高められたものみの塔の義の規準は新秩序に入ってから行なえば良いものであって、現在はかならずしもそれを行なうよう求められてはいない。それは個人の任意に任されるものであって会衆全体に徹底すべき性質のものではない。もしそうしようとするなら、それは協会の方針に反することであり、背教行為となる」この裁定は以下の理由で統治体の指示に違反している。


(a) 1984年に開かれた王国宣教学校におけるものみの塔研究の監督に対する指示:「ものみの塔研究の監督は可能な限りものみの塔誌の精神を会衆に反映させるべきである」という指示に反している。

(b) A.D.シュローダー兄弟が1985年5月に地帯監督として日本を訪問した時に述べた、王の義、預言の義の話に反している。

(c) 1985年春の巡回大会において長老団に与えられた指示「ものみの塔誌の増し加わる光を会衆に理解させるように」という指示に反している。

(d) ものみの塔誌はその名の通り終わりの日を見張る雑誌であるとされている。ならば、その記事には終わりの日を生き残るために必要な教えが載せられているはずである。今は任意で行なえば良いとするのは、ものみの塔誌の目的と方針に反している。

(2) 審理の扱い方に関する聖書の指示、及び組織の取り決めに従わなかった。


(a) 特別審理委員会は一方的な調査だけで真実を曲げた裁きを行なった。

(b) 1985年7月14日午前の集会で藤原兄弟は「兄弟たちの動機は良かった」と公に認めた。それにもかかわらず、特別審理委員会はその日のうちに排斥を決定した。

(c) 特別審理委員会は一度の呼び出しだけで排斥を決定した。

(d) 復帰の方法を教えてそれを勧めるどころか、多くの姉妹たちに「永久に戻れない、二度と戻れない」と語った。

(e) 審理の聖書的根拠自体を否定して上訴したにもかかわらず、上訴委員会は全く調査しようとしなかった。

(f) 特別審理委員会、上訴委員会の監督たちの中には排斥の理由をよく知らない人もいた。

(g) 排斥決定の聖書的根拠を求めたにもかかわらず、一言の説明もなかった。

(h) 幾人かの親族や研究生を背教者同様に扱うよう指示した。

(i) 社交的交わり以上の親子、親族の交わりさえ禁じる指示を出した。

日本支部は以上のような非聖書的、及びエホバの組織の取り決めに反する審理を行なうよう指示し、かつそれを承認した。

(3) 組織崇拝を唱道し、真の崇拝を退けた。


(a) 組織をバアル化した。

(b) 組織の名において不当な審理を正当化しようとした。

(c) 組織の名において一千通に及ぶ嘆願に耳を貸そうとしなかった。

(d) 「たとえ偽りであろうとなかろうと組織の指示に従っていれば良い」と教え、聖書の権威を組織の権威の下においた。

(e) 「真実を語れば私も背教者とみなされる」と広島会衆の長老に言わせるほど、組織の名の下に真実を覆い隠そうとした。

(4) 偽り、偽証を行ないながらも悔い改めず、不健全な霊で会衆に有害な影響を与えていた姉妹たちの問題を、愛で覆うべきであると教えた。

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藤原兄弟の偽り、偽証

その基準:使徒5:1~6;「崇拝の一致」p.53

〔I〕支部への中間報告に関しての偽り、偽証


(1) 出席を拒否した。

私たちは出席を拒否してはいない。会合に出席するようにとの連絡を受けたのは二日前であり、しかもその日は平日であったので仕事の調整を計っていたのである。藤原兄弟は、笹山兄弟から出席を拒否しているという情報を得たと述べたが、それが事実であるなら笹山兄弟の偽証となり、藤原兄弟はそれが分かった段階で調整の報告をしなかったので同罪となる。またそれが事実でなければ藤原兄弟は二重の偽証を行なったことになる。

(2) 時間がないという理由で引き上げた。

会合の時間については、その前日藤原兄弟自身が一時間でもよいので来るようにと勧め、その時間内で集まることが約束されていた。また午後の集まりについては全員知らされていなかった。そのような事実に反して上記の証言をすることによって真実をねじ曲げた。

(3) その後、どなたも会合においでにならなかった。

会合の前日に笹山、桑原兄弟が突然広島会衆を訪問したことや一回目の会合に極めて不審な点があったこと等のため、私たちは「援助であるなら、その目的と性質を明らかにして下さい。そうすれば出席します」と書面で通知してあった。ところがこれに対し、何の連絡もなかったので出席するには至らなかった。この間のいきさつが明らかにされず、会合を拒否しているかのような不真実な報告がなされている。

(4) 極めて不敬な態度を取った。

全員覚えがない。藤原兄弟は私たちがこの会合の目的と性質を確かめようとしたことを不敬な行為とみなしたのかも知れない。しかし真実を知ろうとするのは当然のことであり、冷静に判断するなら、それを不敬とはみなさないはずである。

(5) 笹山兄弟を審理事件として告発したいと連絡を取った。

そのような事実は全くない。私たちは、笹山兄弟には中傷の疑いがあるので、できれば扱って欲しいと告げた。中傷は二段階を踏まなければ審理として扱えないので、笹山兄弟を告発してはいない。藤原兄弟に真剣に扱う意志があれば、マタイ18:15~17の手順を踏むよう指示したはずである。

(6) 1985年7月9日の午後、上記の件について話し合ったが、その際彼は自分の報告が真実ではないことを認めた。その点は7月17日、木曜日の集会での「真実の一かけらぐらいはあったでしょう。3ページも書いたのですから」との発言に示されている。ところが大部分不真実であることを公に、しかも自ら認めながら全く訂正しようとはしなかった。

〔II〕 その他の偽り、偽証


(1) 第一回目の会合の前日において(1985年6月18日)藤原兄弟は1985年6月18日、金沢、柳村兄弟との電話でこの問題に関しては「何も聞いておらず、何も知りません」と述べた。しかし藤原兄弟は会合の二日前にA、K姉妹を呼び出し、すでに問題の調査を行なっていた。K姉妹によるとそれは三時間にも及んだとのことなので、彼はかなりの情報を得ていたはずである。

(2) 第一回目の会合の前日において広島会衆では、集まりの性質を知るために、笹山兄弟を中傷の疑いで扱って欲しいという要望を藤原兄弟に提出した。それに対し藤原兄弟は快く応じたが、それはまったくの偽りであった。I.(5)の項目のとおり、中傷は二段階を踏まなければ、扱えないはずである。事実、私たちが会合で笹山兄弟に質問して、彼が返事に詰まると藤原兄弟は直ちに笹山兄弟を弁護した。そのようにして、実際は少しも扱う意志のないことを示した。

(3) 藤原兄弟は一回目の会合において、出席した兄弟たちに悪霊の噂があるかどうか質問した。全員が「ある」と答えたにもかかわらず、「無い」と答えたとし、その後姉妹たちを何度も呼び出したり、電話をかけたりして、広島で悪霊の噂があるということの裏付けを取ろうとした。しかし巡回訪問の記録調べの時、私たちが藤原兄弟に直接質問すると、「兄弟たちは肯定した」と自ら認めた。それにもかかわらず捏造した事柄の訂正を公に行なおうとはしなかった。

(4) 巡回訪問中の金曜日に姉妹たちとの特別な集まりが開かれたおり、訪問の初日に広島会衆の兄弟たちが「やくざのように迎え、藤原、瀬野兄弟を車の中に押し込めた」と発言した。実際は、敬意を持って迎え藤原兄弟たちの訪問の目的と統治体の裁定について尋ねただけのことである。藤原兄弟は「その点については、よく知らないので支部の阿部兄弟に尋ねるように」と指示した。その間、「私たちは車の中で待っています」と自ら述べたのであって、兄弟たちが押し込めたというのは、はなはだしい偽りである。

(5) 金曜日に姉妹たちのための特別な集まりを設けるに際して、「心を開いて姉妹たちの言い分をすべて聞きます」と言っておきながら、出席した人の名前をすべてチェックしたり、また「話せば話すほど姉妹たちは不利になります」と述べ圧力をかけた。そのようにして真実を聞く心はまったくないことを示した。

(6) 藤原兄弟は訪問中の木曜日に、審理、及び削除の推薦はいらないと述べた。しかし、半日もたたないうちにその発言を覆した。理由についての説明は一言もなかった。


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笹山兄弟の偽り、偽証

その基準:使徒5:1~6;「崇拝の一致」p.53

(1) 広島会衆の状況に関して、真実を確かめずに多くの偽りを含む報告を日本支部に送った。

(2) A、K姉妹が笹山兄弟のところに相談に行くであろうことは、会衆としても十分予期していたことである。私たちは笹山兄弟が主宰監督として神権的手順に従って行動して下さるものと思っていた。ところが兄弟からは何の連絡もなかった。A姉妹が研究生に広島会衆を訴えると吹聴し始めたので、宮坂兄弟が笹山兄弟に電話でその確認をした。それに対して兄弟は「訴えるとか訴えないとかいう問題ではない」と語り、すでに日本支部に告発していたことを隠そうとした。

(3) 協会に報告したような事実があるか否か広島会衆を調査して欲しいという、再三の要請に対し「自分にはその権限はありません」と答えていながら、A、K姉妹にテープやメモを取ること、会衆を移動することなど具体的な指示を出し、すでに一方的な調査をしていた。

(4) 笹山兄弟は1985年6月18日火曜日の集会に桑原兄弟を伴って突然現れた。訪問の目的を尋ねられた時、「宮坂兄弟に招待された」と言って、講演の扱い方やA、K姉妹に対する会衆の接し方について観察に来たことをごまかした。宮坂兄弟がその日の集会に招待したという事実はない。

(5) 同集会後、宮坂兄弟が「今日の集会の様子から緊張した雰囲気が感じられますか」と笹山兄弟に尋ねると、「皆さん活発に注解していて良いですね。一部の人以外は緊張していないようですね」と答えて会衆全体が異常な状態ではないことを認めた。ところが支部に送った報告に関する訂正、あるいは撤回を行なおうとはしなかった。

(6) 「G兄弟が押切兄弟だけは信頼のおける兄弟だといっていましたよ」などと目的不明のことを電話で押切姉妹に述べた。事実かどうかをG兄弟に確認したところ、そのようなことは語っていないことが明らかになった。

(7) 1985年6月30日の笹山兄弟の行なった中傷に関する集まりの際、同兄弟は、「もう、これ以上変なことはしません」とエホバの名にかけて明言した。ところが、その約束は一週間もしないうちに破られた。

(8) 広島会衆では、A姉妹の問題を審理問題として扱うかどうか検討中であった。しかし、その間にA姉妹は羊ヶ丘会衆に交わるようになり、笹山兄弟は緊急避難と称して、二人(A姉妹、Hさん)の伝道者カードを羊ヶ丘会衆に移してしまった。そのため、広島会衆ではA姉妹の問題を扱うことができなくなったので、笹山兄弟とその扱いについて協議した。その際、笹山兄弟は「証拠を提出して下されば羊ヶ丘会衆で扱います」と述べたが、A姉妹に関しては一度も証拠を求めようとはせず、またHさんについては万引きの報告があると告げたにもかかわらず、調査しようともしなかった。

(9) K姉妹はA姉妹と共に告発に加わっていた。ところが笹山兄弟はK姉妹に加わってはいないと語るよう指示した。K姉妹はそのことについて監督たちの前で証言してもよいと断言した。


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統治体からの連絡はやはりなかった。これで地上における法的係争のすべては終了した。残るは天的レベルにおけるリーガルケースのみとなった。



愛に溢れた牧者たち

2007-03-28 20:35:55 | Weblog
広島会衆は3月10日まで600通以上に及ぶ嘆願の手紙を送った。兄弟姉妹たちが書いた手紙の一部を以下に紹介しよう。


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北海道広島会衆で生じました問題において、公正な裁きをお願いしたくお手紙を書いております。

兄弟たちの熱心な働きに心から感謝しております。そのような熱心さを私も集会、奉仕、また日々の生活で、エホバの証人であることを決して忘れないことにより示して行きたいと願っております。

私は組織に反抗したのではなく、エホバの証人として、不真実、不公正を受け入れることができなかったため、排斥されてしまいました。(詩篇26:4)

それでどのような裁きが広島で行なわれたのか調査していただけないでしょうか。


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真理の組織は、真実に基づいて物事を扱うものとばかり信じていましたので、不公正な裁きがエホバの名のもとに、また組織の名のもとに行なわれてしまったことを私はとても残念に思います。私たちはみ言葉に基づいて、どこが間違っているのか教えて下されば喜んで調整したいと願うものです。排斥になるほど頑なではないと思います…今回の事件では何が正しく何が間違いなのか、また正しいことを望んだ者たちが排斥されて、エホバのみ名に非難をもたらしていた人々が何の処置も取られずにいるので、混乱してしまいました。出版物で学んだ取り決めに従うことが組織に対する従順になるのか、立場のある人間に従うことが組織に対する従順になるのか、その際自分の良心や信仰はどのような位置付けになるのか規準をどこに置いたら良いのか、今後の生き方にも関係してきますので、どうぞ教えて下さい。


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上訴委員会は17名の姉妹たちを1985年8月4日14:00から呼び出しました。上訴委員の出口兄弟は『同じ場所に呼び出したとしてもみんな一緒に審理するのではなく、他の人は待っていてもらうつもりであった』と述べておられました。しかし一人5分か10分で命にかかわる審理ができるのでしょうか。一人30分としても最後の人は22:30分に終わることになります。未信者の夫を持つ姉妹たちを審理する時間帯と言えるのでしょうか。上訴委員の兄弟たちにマタイ18:12~14の精神があったらと、とても残念に思いました。


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その後11月まで嘆願の手紙を出し続けた。以下は会衆で出した手紙のほんの一部である。


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出版物を通して本部の兄弟たちは大群衆を教えておられますね。例えば1986年7月1日号では権威の正しい用い方についてこのように書いてありました。「もし官吏が不公正で権威を悪用するなら、あるいは個人または人気のない少数者を差別するならどうでしょうか。聖書はこう助言しています。『資力の乏しい者が虐げられたり、管轄地域で裁きや義が奪い取られたりするのを見ても、そのことで驚き惑ってはならない。その高い者よりもさらに高い者が見張って…いるからである』(伝道の書5:8)…」

教えておきながら書いてあることを行なわず何もしないなら、天の法廷で兄弟たちが偽善者として見られるのではないでしょうか。そのようなことはあってはならないと思います。どうぞこのことを熟考され、必ずご返事下さるようお願いします。


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ものみの塔誌からの教育はいったい何なのでしょう。私たちは今でもエホバが出版物を通して私たちを導いてくださっていると確信しています。もちろん兄弟たちも同じように思っておられるはずです。そしてその中で学んだことを私たちの生活にあてはめてゆくことで、神を喜ばせてゆこうと誰もが願っていると思うのです。言葉の上だけの教育ではないはずです。

ものみの塔誌には裁きを行なう監督たちに対し次のような訓戒が載せられています。

「モーセはそのような年長者たちに訓戒を与え、次の事柄を忘れてはならない、と言いました。『裁きにおいて不公平であってはならない。小なる者の述べることを、大なる者の述べることと同じように聞くべきである。あなたがたは人のために恐れ驚いてはならない。裁きは神のものだからである』(申命記1:17)(86、6/1p.21)
私たちの問題を扱う兄弟たちもこの言葉にあるように行動していただきたいのです。監督たちはその責任をエホバ神の前に果たしていただきたいと思います。もし、それをしないなら、エホバはどのように見られるでしょうか。神はその責任を問うでしょう。(ナホム1:3)私たちはそのことを望んでいるのではありません。むしろそうならないでほしいと願っています。兄弟たちがエホバのみ名を負う民の一人であるならエゼキエル3:2~16に述べられている、『失われたものを尋ね求め追い散らされたものを連れ戻し、打ち砕かれたものに包帯をし、病んでいるものを強める』ように実際に行動し、事態を一刻も早く正して下さい。お願いします。


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皆様はイザヤ61:3にありますように、遠からず天においてキリストと共に全地を支配する言わば“義の大木、霊的巨人”と呼ばれる方々だと思います。今この地上におられる間にも、その精神を示して地の片隅の小さな存在の私たちにも注意を払って下さり、義と公正と真実に基づいて不公正な裁きに関する訴えを取り上げていただけないでしょうか。…それとも象の耳は大きすぎて、アリの声は届かないのでしょうか。象はアリを踏みつぶしても痛くもかゆくもないのでしょうか。真理の組織ならそんなことはないと思いますが。


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私は、エホバの証人は唯一の真理の組織だと思っています。それは、真理を持っているというだけでなくそれを実践する組織だと思っているからです。もちろん人は誰も不完全で多くのあやまちを犯しますが、真理の組織であるというのなら少なくとも立場や状況に関係なく提出された真理(真実)の前にへりくだるのではないでしょうか。ましてや、何の根拠もなく裁かれてしまうなんて考えられないことです。何のため、また誰のための裁きなのか私には今もってよく分かりません。(II歴代19:6、7)さらに、私たちは、今まで監督の兄弟たちに「私たちの側に悪い点があれば改めたい」と述べているのに何の援助もなされないのはどうしてでしょうか。兄弟たちが真実をもっていらっしゃるのなら、その真実を私たちの前に提出することができると思いますが。


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僕はじっと待ちました。8ヶ月待ちました。でも何の連らくも来ませんでした。僕は「平和」の大会に出ました。私たちが常に平和を保っていないといけないこと、神も人類の平和を望んでいること、いろいろ学びました。しかし僕の思ったことは単にそういうことだけではなく、この問題も関係あるのではないでしょうか。

神は私たちが常に平和であることを願っています。(マタイ5:9)しかしこのような分れつがあってよいのでしょうか。しかも、罪がない僕達が何故、排斥されなければならないのでしょうか。申命記1:17には、「裁きは神のもの」と書かれています。では何故日本支部が勝手にまたは一方的にあつかってしまうのでしょうか。僕はそういうことが不思議でなりません。また、こういうことがあるというのに何故かんとくさんたちはしらんぷりをしているのでしょうか。さっきの申命記1:17の前半には「小なる者の述べることを、大なる者の述べることと同じように聞くべきである」と書かれています。かんとくというのは名だけなのでしょうか。僕はそうあってほしくないと思います。

決して僕達は助言をこばんではいません。むしろ喜んで助言を受け入れます。ですからお願いします。エホバ、イエスを倣い、公正な裁きを実行してください。(詩編37:28、30)本当に僕達が悪いのなら、すぐにくいあらためます。僕達は一日も早くこの問題も解決して、イザヤ60:22の「小なる者が千となり、小なる者が強大な国民となる」ことを成しとげたいと思います。そして、ついには詩編37:29の「義なる者は地を所有し、そこに永久に住むであろう」という言葉の成じゅを見たいと思いませんか!僕は見たいと思います。エホバが平和な神であることを信じて、公正な裁きを実行して下さることを信じてご連らくをお待ちしています。


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11月6日ついに確認の手紙をものみの塔協会に送った。これは広島会衆にとっても一つの転機となった。というのは、この手紙を送るということは事実上組織への復帰が不可能になることを意味していたからである。


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1986年11月6日

親愛なる兄弟たち

本部の皆さんの最終的な判断と決定をお尋ねするために、この手紙を書いています。1986年3月12日付けの訴状を送ってから、すでに8月近くがたとうとしています。十分に時間はあったはずですので、そろそろ取り上げて下さるのか、それとも扱う意志は全くないのか、はっきりしたことを知らせていただきたいと思います。それによって私たちも、右へ行くか左へ行くかを決めたいと考えています。(マタイ5:37;7:16~20)

1986年12月7日まで返答をお待ちします。連絡がない場合は訴えを退けたものと受け取らせていただきます。ただし…今回の問題の内容、及びその性質からして、本部が訴状を扱わず、さらに何の連絡もしない場合には「エホバの天の法廷」の前で、以下に記す点が立証されたものと判断させていただくことにします。

(II歴代19:6、7;詩編82:1)

ものみの塔協会に関し天の法廷の前で立証されること

エホバのみ名と、その神性を証しすることよりも、「組織の都合」を優先させた。
「組織」を「Concept Baal」にし、自ら「組織バアル」の崇拝者であることを暴露した。
神の唯一の組織であると主張しているにもかかわらず、そのidentityを示そうとはしなかった。
真理、真実よりも「組織論理」を重んじ、真の崇拝のidentityを示そうとはしなかった。
偽証、偽りを容認することにより、真理の道であるキリストに倣おうとはしなかった。
霊的パラダイスの監督として、「公正」に特別の注意を払おうとはせず神の義を後ろに退けた。
出版物では何度も教え、他の人には要求しておきながら、自らそれを行なおうとはしなかった。
特権の有無、およびその格差により差別をし、公平な扱いをしようとはしなかった。
真の実態は羊に仕える組織ではなく、羊に仕えさせようとする組織であった。
都合が悪ければ、誠意を示す点では、この世の良心的な組織よりはるかに劣っていた。
もちろん言うまでもないことですが、本部の皆さんが神の組織、真理の組織としてのidentityを示して下さるなら、この手紙は無意味なものとなります。私たちは、そうなることを心から期待しています。ものみの塔協会に関し、先に上げた点が立証されるとすれば本当に困ったことですし、非常に残念なことです。間違っても、「聖書の権威」より「組織の権威」の方が優れているなどという聖霊を侮るような考え方をなさるはずはないと確信していますが、ものみの塔協会を神の組織として純粋に信じている多くの人々を裏切ることのないよう、是非ともお願いしたいと思います。

真理の神、エホバのみ名が
高く上げられることを願いつつ


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<1986.12.8.~1987.3.15.統治体への嘆願と確認>
統治体の成員13名、F・W・フランズ(会長)、W・L・バリー(副会長)、A・D・シュローダー、C・W・バーバー、J・E・バー、D・シドリック、G・ギャンギャス、J・C・ブース、C・ジャラズ、M・G・ヘンシェル、M・ポエツィンガー、C・F・クライン、L・A・スィングル、の各人に嘆願の手紙を送り続けた。

まず統治体に次のような手紙を送った。


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1986年12月9日

親愛なる統治体の兄弟たち

今回の事件、およびそれに伴って生じた組織崇拝の問題について、兄弟たちの見解と最終的な決定を知らせていただきたくこの手紙を書いています。

私たちも他のエホバの証人と同様、ものみの塔協会の働きを通して真理を知るようになりました。今得ている理解や知識のほとんどは兄弟達から学んだものです。唯一真の神エホバを知り得たことは私たちにも大きな喜びをもたらしました。そのことを兄弟たちに心から感謝したいと思っています。

皆さんと同じように私たちもエホバ神と真の崇拝を愛しています。神の民の中で真の崇拝が栄え、エホバのみ名が何にも勝って高められるようになるのをみたいと願っています。心を悩ます様々な状況を目にしながらも、私たちはものみの塔協会こそ、そのような神の組織であると信じてきました。しかし、現在のものみの塔協会の状態では…兄弟たちから学んだ真の崇拝のidentityと一体どのように調和させたら良いのでしょうか。

去年の6月に事件が始まって以来私たちが嘆願してきたことは、神の義と真実に基づいて公正に扱っていただきたいということでした。聖書から、そしてものみの塔協会の出版物から誤りが証明されるなら、喜んで悔い改めるので是非教えていただきたいと繰り返し伝えてきました。しかしとうとう何の連絡もなく、会って話し合おうとする人も一人としていませんでした。組織の力で真実を覆い隠そうとする日本支部の態度は、この一年と数ヶ月ついに変わることがありませんでした。どうも私たちは悪臭のごとく忌み嫌われているようで、現在では汚れた人々と呼ばれています。

「組織は拡大しています。拡大はエホバの祝福の証拠です。ですから支部は正しいのです」という主旨の日本支部の主張が再三にわたって伝えられました。集められている人々の質を問題にしなければ私たちもその通りだと思います。しかし、組織の拡大と私たちの裁きはまったく別の問題ではないでしょうか。拡大しているからといって裁きを曲げてよいということにはなりませんし、拡大がバアル崇拝を正当化することもあり得ません。

本部の兄弟たちがどのように考えているのか私たちにはもちろん分かりませんが、結果として何もせず、真実を黙殺し、天の法廷の権威をさえ受け入れようとしないのはいったいなぜでしょうか。胸のすくような仕方でキリスト教世界の偽善を糾弾してきたものみの塔協会が、どうして偽りや偽証、バアル崇拝を正そうとしないのでしょうか。日本支部ならば別に不思議とも思いませんが、本部はまさかそのようなことはないだろうと信じていましたので会衆の全員が少なからず驚いています。

これは明らかにものみの塔協会が出版物で述べていることとは異なっています。人は神の前に平等で真実に基づく公正な裁きを受けることができるとするエホバの証人の教義に反しています。ものみの塔協会の行為はYes means Yes ではありません。組織を高めることはエホバを誉め称えることであると本気で信じているかどうかは分かりませんが、組織崇拝というバアル崇拝を止めようとはしていません。少なくとも現時点ではそのように判断せざるを得ませんし、法的にはそういう結論に達します。

ものみの塔協会はカエサルの認可による法人組織ですから、ものみの塔協会の聖書的必然性は思慮深い奴隷級の代表である統治体に依存していることになります。エホバの民に対するものみの塔協会の権威と権力が統治体からくる以上、この事件とバアル崇拝の問題の最終決定は統治体の兄弟たちにお尋ねする以外にはありません。エホバの組織であるというidentityを天の法廷の前で示すのか、それともそうしないのか、私たちは是非とも知りたいと思っています。

それで、統治体としてのものみの塔協会の今回の事件に関る行為や態度を承認されるのか、それともそうではないのか、その点を明らかにしていただけないでしょうか。YesかNoかそれだけでもかまいませんので、何らかの返答をお願いできればと思います。兄弟たちの決定をお知らせ下されば幸いです。

真の崇拝を促進して行くため魂を尽くしておられる兄弟たちの上に、引き続きエホバの霊の恵みと導きが豊かにありますように。

クリスチャン愛と共に
北海道広島会衆


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続いて兄弟、姉妹たちの出した手紙の幾つかを以下に紹介することにしたい。


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この事件が始まってぼくたちは、なんども手紙を書きましたが、返事はもらえませんでした。でも、統治体の兄弟たちならあつかってくれると信じて、この手紙を書きます。

エホバの組織は一致して学び、励まし合いますが、今のじょうたいではそうなっていません。エホバの組織としてはおかしくはないでしょうか。ぼくたちは早くもとにもどりたいので、いつもエホバに祈っています。エホバなら解決してくれると信じているからです。エホバに仕えている兄弟におねがいしたいと思います。どうかもとにもどしてください。


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私は唯一真の神であるエホバがいることを知ってから、将来の希望、そして自分の日常生活に少しずつ光が見えてきたように感じて喜びが持てるようになりました。そして真実が必ずあることもエホバの証人との聖書研究を通して教えてもらい、自分もこの組織は信じられると思い献身しました。

でも、今回の事件で不公正、偽りなどを見たり聞いたりして失望してしまいました。唯一真の神の名が汚されている状態です。組織の中の指導の任にあたる人がそのようなことをし続けているならば、エホバの組織は汚れてしまうのではないでしょうか。また、聖なる方エホバの所に集まってくる大勢のハトのような者たちを正しく指導していけないならどうなるのでしょうか。(イザヤ60:8、9)私は本当にエホバの組織が真の崇拝で一致したものとなることを望んでいますし、その一員となりたいと思っています。


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今、日本でもレーガン大統領が、イランへの武器輸出に関して議会で嘘をついたことが明らかになった事件が大きく報じられています。サタンの体制でさえも一国の指導者の道義的な罪が大問題となりますのに、真理の組織と自認しているエホバの証人の組織内で今回のような不公正な裁きが行なわれたことは、天の法廷の前には、はるかに重大な問題となるのではないでしょうか。きっと皆様も心を痛めておられることと思いますが…

神権組織が行なうことはすべて正しいという見方がなされているようですが、それは統治体ですら不謬ではないと学んだこととどう調和するのでしょうか。(崇拝の本p.120、8節)間違いを犯した場合には、真実に従って事を正す方がはるかに真理の組織にふさわしく、また協会が教えてきたことにかなっているのではないでしょうか。

どうぞ教えていることを行なうことによってエホバの証人の組織が真理の組織、愛の組織であることを証明して下さいますように心からお願い致します。


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誠実なエホバの証人は、この組織が救いのための啓示を与えるべく「神に用いられている」唯一の経路であると信じています。魂の見張りとしての牧者が正しい指導をしなければ、民の命は失われます。そして何よりも真の崇拝は腐敗し、エホバのみ名が辱められてゆきます。現に私たちが知る限りにおいて、日本では、エホバの証人が新聞やTVをにぎわすことが多くなってきました。野外で会う人々の反応も、決して好意的なものではありません。しかもその理由は、多くの場合「行状の悪さ」からきています。私たちは、エホバの証人の現状に大変強い危機感を覚えます。

このことを私たちは繰り返し本部の兄弟たちに訴えてきました。

統治体の成員である兄弟、「神の子」としてキリストにあずかるバプテスマを受けておられる兄弟、どうぞその証しとして今回の事件で明らかになったことに目を向け、霊的パラダイスの確立のために事態を正して下さい。