とほほブログ

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靖国と追悼施設のあり方

2006年01月11日 | 憲法9条
>「(遊就館は)戦争を美化する感じではなく、当時をありのままに伝えているだけ。当時はそうだったと事実を述べているにすぎない」
>http://nishiha.blog43.fc2.com/blog-entry-20.html
>
>太平洋戦争開戦の前年に生まれた麻生氏がはたして当時のことをどれだけ覚えているかは疑問ですが、まさにそのとおり遊就館は当時の雰囲気をそのままに伝えています。


http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060109/p1
上記URLはある方のブログの記事で、遊就館を訪れた感想が書かれています。
もし時代が今のような風潮ではなく、この方のような感性で遊就館を観察することが出来るのであれば遊就館のような施設もありかな?と思ったりしてしまいました。

こちらのMLでは戦争体験者の方が多いのでお分かりになりにくいかもしれませんが、我々若い世代にとって「戦争」と言うものに対して現実味がないのですよね、わたしなんかでも一生懸命自分がこの立場だったら自分が殺される立場だったら自分が殺す立場だったら、と考えながら非戦の誓いを新たにするわけですが、それでもどこかに「遠い世界の話」と言う感覚があり、だから余計に戦争に対する警戒心が強いわけですが、この方の体験によれば「戦争を肯定する精神と言うものが全く理解できなかったが、ここを訪れたことでどういうものであるのかがわかった気がする」と言うようなことをいっていると思うのです。もちろんその精神を理解したわけでも共感したわけでもなく、「形が見えた」と言うことかな?
うまく言葉に出来ませんが、、、。

この方は「勝ってくるぞと勇ましく」の有名な軍歌に遊就館で涙した、と言います。
以下一部抜粋します。
日本の疲弊した農村や都市部から集められ、戦線に送られた多くの兵士たちは、中国の戦野で人を殺したり、殺されたりすることを余儀なくされ、「露営」という言葉どおり、厳寒の野原や、ぬかるんだ沼地に軍服のまま時にはテントも寝袋もなく寝て、まるで虫のように死んでいったのだろう。

戦線の兵たちの姿を映し出したモノクロのフィルムと、「露営の歌」の歌詞とメロディに触れたとき、ぼくは自分のなかに沸きあがってくる熱い感情があるのを、認めざるをえなかった。

あの戦争が正しかろうと間違っていようと、この人たち(男たち)はここで戦って死んでいったのであり、そこにある「真実」はいかなる倫理によっても否定されることはない。たとえそれが、「虫」のような生と死であっても。

いや、この兵士たちは「虫」なのだ。虫であるからこそ、この死者たちが担わされている「国のために」という思想は強い。

それは、彼らの生と死を利用しようとする、国家やテーマパーク(資本、外資)の思想より、はるかに強いだろう。
いくら平和だ、非戦だ、反戦だ、と言ってもこうした感性への理解が無いと帰って危険なのかもしれません。なぜならこうした感性は美しいものだからです。その美しいものが戦争を引き起こしてしまう、と言う理解ももたなければ戦争はいずれ又起こるようにも思います。

『土も草木も 火と燃える

果てなき広野 踏みわけて

進む日の丸 鉄兜

馬のたてがみ なでながら

明日の命を 誰が知る』


であるから、私は、もちろん首相靖国参拝反対ですが、新追悼施設を無宗教とすることに違和感を思えるのです。宗教であるか否かと言う問題は靖国参拝問題とは全く別物だと思うのです。
首相の靖国参拝を阻止するために「政教分離」を利用しているに過ぎない。

特定の宗教に囚われない、という言い方が一番わかりやすいのですが、私の言いたい本当の事は違う、宗教とはなにか?靖国とは本当に宗教と言えるのか?と言うもっと本質的なものに踏み込んでいかないことには、以前にも書きましたが新追悼施設を作ったところで「ネオ靖国」の新築に他ならないと思うのです。
○日本の平和と独立を守り国の安全を保つための活動や日本の係わる国際平和のための活動における死没者を追悼
とほほ案
【大日本帝国の帝国主義・軍国主義の侵略戦争の犠牲となった将兵・人民及び国際平和のための非暴力活動における死没者を追悼。】


○国のために戦死した将兵
とほほ案
【大日本帝国の帝国主義・軍国主義の犯した侵略戦争の犠牲となった将兵・人民】


○前述のような死没者一般がその対象になり得るというにとどまり、それ以上に具体的な個々の人間が追悼の対象に含まれているか否かを問う性格のものではない
とほほ案
【前述のような国籍・軍民を問わず犠牲者一般がその対象になりえるが、大日本帝国の帝国主義・軍国主義の侵略戦争を推進しあまたの犠牲者を出した殺戮責任者は追悼の対象に含まれない。】


○ 靖国神社の社憲前文によれば、靖国神社は、「國事に殉ぜられたる人人を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため」「創立せられた神社」とされている。これに対し、新たな国立の施設は、前述のような死没者全体を範疇とし、この追悼と戦争の惨禍への思いを基礎として日本や世界の平和を祈るものであり、個々の死没者を奉慰(慰霊)・顕彰するための施設ではなく、両者の趣旨、目的は全く異なる。
 また、靖国神社は宗教法人の宗教施設であるのに対し、新たな施設は国立の無宗教の施設である。この性格の違いは、異なった社会的意義を保障するものである。
とほほ案
【靖国神社は侵略戦争の正当化を行い続ける限り、宗教思想として不適正であり、宗教法人としてこれを認めない。また平和憲法を標榜する日本国家の政治団体としても不適切でありこれを認めない】


と言う風にとほほ案のようにしないと、ただ単に文句を言われないためのネオ靖国をつくろうとしているだけだと思います。あとこれはあまりどうでもいいことだと思うのですが【無宗教施設】と言う表現は不適切です、死者への追悼と言う行為そのものが宗教行為ですから【特定の宗教にとらわれない施設】とすべきではないでしょうか。
無宗教と言う表現で違憲判決を回避しようと言う心根が見えているようでなりません。
*コメントは思考錯誤まで