密はその日一日中、召喚課の机の上で腕の傷を気にしていた。
朝の内はシャツの上から触るだけで激痛が走ったのに、時間が経つにつれ痛みが薄らいでいく。
痛みで愛されたことを確かめていたのに、それがなくなっていくと、不安になる一方で昨夜の記憶も薄れていった。
(自分が誰かに愛されたなんて、嘘だったのかもしれない)
何の痛みも感じなくなると、昨夜のことが信じられなくなって、ぼんやりと夕暮れの空を眺めながら密はそんなことを思った。
近衛の直通の電話に内線が入ったのは、終業時刻間際のことだった。
受話器を取ると、近衛の耳に閻魔の笑いを含んだ声が響いた。
『新しい玩具を持て参れ』
嘲笑う閻魔の声に近衛は戦慄を覚え、しかし畏怖の念に逆らって声を押し出した。
「・・・玩具とは」
『黒崎密じゃ』
予想通りの返答に、近衛は湧いた怒りを封じ込めた。
閻魔にとって、この冥府にあるものは全て、自身の所有物なのだ。人間も例外でなく。
所有物なのだから、人間も物として扱う。
そして黒崎密という人間に冠せられた名が、玩具。
それに今更怒ったところでどうしようもないが、これ以上密を傷つけるのは避けたかった。
「・・・できません。黒崎君はまだ子供です。あのようなことをなさるのは」
『子供だから良いのだ。幼ければ幼いほど、すばらしく鮮やかに私の色に染め変わってくれよう?』
愉悦に満ちた声を聞いて、近衛は同じ言葉が通用しないことを改めて思い知った。
使い勝手が良いか悪いかでしか、閻魔は判断を下さない。人間の意志や都合を構う神ではないのだ。
『申したであろう?あの死神の使い道を思いついたのだ。突出した能力がない代わりに、その忠誠を買ってやるのだ。忠実な奴隷に仕立ててな』
言葉を返さずにいる近衛を見透かすように閻魔が続ける。
『今宵連れて参らぬと申すなら、それで構わぬぞ?明日の夜に二夜分の躾をすれば足りることだ。それが密にどれほどの負担を強いるか、見るのも興あること』
その言葉に近衛は背筋をぞっとさせた。
命令に逆らえば密に跳ね返ると、そう閻魔は言うのだ。
『しばらくは密を夜の楽しみとしてやろう』
閻魔は近衛にそう言い置いて通話を切った。
近衛は閻魔の言葉を噛み締めて、深い苦悩の溜息をついた。
「黒崎君」
虚ろな瞳を窓の外に向けていた密は、近衛の声にハッと振り返った。
ついて来るようにと目顔で言い、近衛が背を向ける。
重苦しい近衛の感情を不思議に思い、密は席を立って近衛に続いた。
「黒崎君、本当に申し訳ない」
廊下に出ると、近衛が人目を憚って小さな声で言った。
「今まで大王様の目に留まらぬようにしてきたつもりじゃった。幸い、大王様の面接試験を免除して死神になったのじゃ。そして都筑のパートナーにつけば、都筑の存在に隠れて黒崎君には目は行かぬと思ったのじゃ。唯一の懸念は、あの雪貴の孫に呪殺されたことで、大王様の興味を惹かないかどうかだった。
・・・死しても残る呪詛とは思いも寄らなかったからの」
周囲を気にしながら、近衛が囁くように口早に言う。
「大王様の興味を惹けば、後についてくるのは屈辱だけじゃ。自分の意思も捩じ伏せられて、果てしない服従を強いられる。死神をそんな目に遭わせるのはもう沢山と、思い定めておったのじゃ。それなのに、守れなくてすまなかった、黒崎君」
辛そうに謝罪の言葉を口にした近衛に、密は慌てて口を挟んだ。
「ちょっと待って下さい。課長が謝るようなことは別に何も。俺が悪かっただけですし」
「いや、大王様の目に留まれば最後と分かっておったのじゃ。それを止められずに、本当に申し訳ない。
黒崎君、すまんが今日も大王様がお呼びじゃ」
苦痛を露にして近衛が言い、密を促して歩み始めた。
密は歩き出した近衛を追いかけて、混乱する頭を抱えながら疑問を口にした。
「あの、昨日のことは」
屈辱だったんですか、そう訊こうとして、密は喉の奥で言葉を引き留めた。
(直接確かめた方がいい)
愛されたなんて嘘かもしれないけど、本当かもしれない。
もしかしたら、愛されたのかもしれない。
そんな曖昧で真実味の薄い認識でも、しがみつくには充分だった。
そんな錯覚すら、覚えたことなんて今までに一度もない。
まだ、もう少しだけ、引きずっていたい。
密はそう強く思って、左腕を握り締めた。愛情を確かめていたはずの痛みは、もうどこにもない。
「黒崎君?」
近衛が密を心配しながら、その言葉の先を促した。
「いえ・・・」
それ以上喋ると不安が悲鳴になりそうで、密は慌てて口元を押さえた。
もしかしたら愛されたのかもしれないと思うと、急に不安が大きくなる。
何故って、自分が世界の誰かから愛されるなんて、あり得ない。
疑う余地のない確かな過去が、空想に似た期待など簡単に吹き飛ばしてしまう。
「すまない」
いつの間にか震えていた密の肩を、近衛が慰めるようにさすった。
酷い目に遭わせてすまないと、心配と後悔と謝罪の念が近衛から密に流れ込む。
これから自分は酷い目に遭って、愛情とは無縁の屈辱を受けるのだ、近衛の感情は密にそう教えていた。
これから愛されることなどあり得ないと。
「触らないで下さい!」
今一番見たくないものを見せつけられて、密は思わず声を上げた。
「悪かった」
エンパスを相手に不用意なことをしたと、近衛は密に謝った。
「っう」
密は喉の奥を引き攣らせて、目の端に涙を滲ませた。
罪悪感と憐憫の情を向ける近衛の視線が痛い。
愛されたなんて、嘘だ。
愛されるわけなんてない。
他に真実はどこにも見当たらない。
愛された真実など、どこにも見当たらない。
あるのは、自分に都合の良すぎる幻だけだ。
そんな現実しかないように思えて、密は両手で口を覆うと、嗚咽を必死にこらえた。
声を押し殺して泣き出した密を、近衛が心配そうに見つめる。
「黒崎君・・・」
涙の意味を誤解している近衛に、密は首を横に振った。
呼ばれたのが嫌なんじゃない、愛されないのが嫌なんだと、説明しようにも声にできなかった。
涙に息を詰まらせる密に何も言えなくなり、到着するまでの間、近衛は無言のまま密を見守るばかりだった。
朝の内はシャツの上から触るだけで激痛が走ったのに、時間が経つにつれ痛みが薄らいでいく。
痛みで愛されたことを確かめていたのに、それがなくなっていくと、不安になる一方で昨夜の記憶も薄れていった。
(自分が誰かに愛されたなんて、嘘だったのかもしれない)
何の痛みも感じなくなると、昨夜のことが信じられなくなって、ぼんやりと夕暮れの空を眺めながら密はそんなことを思った。
近衛の直通の電話に内線が入ったのは、終業時刻間際のことだった。
受話器を取ると、近衛の耳に閻魔の笑いを含んだ声が響いた。
『新しい玩具を持て参れ』
嘲笑う閻魔の声に近衛は戦慄を覚え、しかし畏怖の念に逆らって声を押し出した。
「・・・玩具とは」
『黒崎密じゃ』
予想通りの返答に、近衛は湧いた怒りを封じ込めた。
閻魔にとって、この冥府にあるものは全て、自身の所有物なのだ。人間も例外でなく。
所有物なのだから、人間も物として扱う。
そして黒崎密という人間に冠せられた名が、玩具。
それに今更怒ったところでどうしようもないが、これ以上密を傷つけるのは避けたかった。
「・・・できません。黒崎君はまだ子供です。あのようなことをなさるのは」
『子供だから良いのだ。幼ければ幼いほど、すばらしく鮮やかに私の色に染め変わってくれよう?』
愉悦に満ちた声を聞いて、近衛は同じ言葉が通用しないことを改めて思い知った。
使い勝手が良いか悪いかでしか、閻魔は判断を下さない。人間の意志や都合を構う神ではないのだ。
『申したであろう?あの死神の使い道を思いついたのだ。突出した能力がない代わりに、その忠誠を買ってやるのだ。忠実な奴隷に仕立ててな』
言葉を返さずにいる近衛を見透かすように閻魔が続ける。
『今宵連れて参らぬと申すなら、それで構わぬぞ?明日の夜に二夜分の躾をすれば足りることだ。それが密にどれほどの負担を強いるか、見るのも興あること』
その言葉に近衛は背筋をぞっとさせた。
命令に逆らえば密に跳ね返ると、そう閻魔は言うのだ。
『しばらくは密を夜の楽しみとしてやろう』
閻魔は近衛にそう言い置いて通話を切った。
近衛は閻魔の言葉を噛み締めて、深い苦悩の溜息をついた。
「黒崎君」
虚ろな瞳を窓の外に向けていた密は、近衛の声にハッと振り返った。
ついて来るようにと目顔で言い、近衛が背を向ける。
重苦しい近衛の感情を不思議に思い、密は席を立って近衛に続いた。
「黒崎君、本当に申し訳ない」
廊下に出ると、近衛が人目を憚って小さな声で言った。
「今まで大王様の目に留まらぬようにしてきたつもりじゃった。幸い、大王様の面接試験を免除して死神になったのじゃ。そして都筑のパートナーにつけば、都筑の存在に隠れて黒崎君には目は行かぬと思ったのじゃ。唯一の懸念は、あの雪貴の孫に呪殺されたことで、大王様の興味を惹かないかどうかだった。
・・・死しても残る呪詛とは思いも寄らなかったからの」
周囲を気にしながら、近衛が囁くように口早に言う。
「大王様の興味を惹けば、後についてくるのは屈辱だけじゃ。自分の意思も捩じ伏せられて、果てしない服従を強いられる。死神をそんな目に遭わせるのはもう沢山と、思い定めておったのじゃ。それなのに、守れなくてすまなかった、黒崎君」
辛そうに謝罪の言葉を口にした近衛に、密は慌てて口を挟んだ。
「ちょっと待って下さい。課長が謝るようなことは別に何も。俺が悪かっただけですし」
「いや、大王様の目に留まれば最後と分かっておったのじゃ。それを止められずに、本当に申し訳ない。
黒崎君、すまんが今日も大王様がお呼びじゃ」
苦痛を露にして近衛が言い、密を促して歩み始めた。
密は歩き出した近衛を追いかけて、混乱する頭を抱えながら疑問を口にした。
「あの、昨日のことは」
屈辱だったんですか、そう訊こうとして、密は喉の奥で言葉を引き留めた。
(直接確かめた方がいい)
愛されたなんて嘘かもしれないけど、本当かもしれない。
もしかしたら、愛されたのかもしれない。
そんな曖昧で真実味の薄い認識でも、しがみつくには充分だった。
そんな錯覚すら、覚えたことなんて今までに一度もない。
まだ、もう少しだけ、引きずっていたい。
密はそう強く思って、左腕を握り締めた。愛情を確かめていたはずの痛みは、もうどこにもない。
「黒崎君?」
近衛が密を心配しながら、その言葉の先を促した。
「いえ・・・」
それ以上喋ると不安が悲鳴になりそうで、密は慌てて口元を押さえた。
もしかしたら愛されたのかもしれないと思うと、急に不安が大きくなる。
何故って、自分が世界の誰かから愛されるなんて、あり得ない。
疑う余地のない確かな過去が、空想に似た期待など簡単に吹き飛ばしてしまう。
「すまない」
いつの間にか震えていた密の肩を、近衛が慰めるようにさすった。
酷い目に遭わせてすまないと、心配と後悔と謝罪の念が近衛から密に流れ込む。
これから自分は酷い目に遭って、愛情とは無縁の屈辱を受けるのだ、近衛の感情は密にそう教えていた。
これから愛されることなどあり得ないと。
「触らないで下さい!」
今一番見たくないものを見せつけられて、密は思わず声を上げた。
「悪かった」
エンパスを相手に不用意なことをしたと、近衛は密に謝った。
「っう」
密は喉の奥を引き攣らせて、目の端に涙を滲ませた。
罪悪感と憐憫の情を向ける近衛の視線が痛い。
愛されたなんて、嘘だ。
愛されるわけなんてない。
他に真実はどこにも見当たらない。
愛された真実など、どこにも見当たらない。
あるのは、自分に都合の良すぎる幻だけだ。
そんな現実しかないように思えて、密は両手で口を覆うと、嗚咽を必死にこらえた。
声を押し殺して泣き出した密を、近衛が心配そうに見つめる。
「黒崎君・・・」
涙の意味を誤解している近衛に、密は首を横に振った。
呼ばれたのが嫌なんじゃない、愛されないのが嫌なんだと、説明しようにも声にできなかった。
涙に息を詰まらせる密に何も言えなくなり、到着するまでの間、近衛は無言のまま密を見守るばかりだった。