Entre ciel et terre

意訳して「宙ぶらりん」。最近、暇があるときに過去log整理をはじめています。令和ver. に手直し中。

パリについて(2)

2007年05月21日 | 日々雑感
「私たちは私たちだけの空間のなかにいる、誰にも何も分からない。死ぬときは外側で死ぬわけじゃないんだよ。内側で死ぬんだ、まさに血のなかで死ぬのさ。怯えることはない、誰にもお前は殺せない、さあ行こう、永遠に、いつまでも。私はお前を応援する。お前に投票するよ。何が起ころうとも、この確信の瞬間、確信を決めた瞬間のことを忘れてはいけないよ。私はお前のなかで死ぬ、お前はお前のなかで死ぬんだよ。外部なんか何でもない、混沌と嘘でしかない。誕生、死、妊娠、腹、起源、終末、身体製造、そんなものは何でもない。いいかい、死ぬのは辛いよ、でも死なんか何でもないんだ。生は別の生なのさ。内部、垂直な内部。そういうこと。それでいいのさ」

 上記の引文は、後述する書籍にあったフィリップ・ソレルス『秘密』(野崎歓訳、集英社、1994.)のものです。ゼミの資料をまとめるのは、何も専門書だけからじゃありません。私たちよりもフランスに詳しい方々のエッセイや、フランス文学を読むことも大事だな、と改めて思いなおします。

 浅野素女さんの主観がメインの『パリ二十区の素顔』(集英社新書、2000.)を読んでいて、ふとある気持ちを著者と共感したくなった。それは、自分は今「課題だから」という理由でパリについて調べているが、本当は課題なんて世俗的なことではなくて「パリという魅力の虜」になっているからではないのか、と。

「私はパリを貫いて続く道。おまえの子ども時代から、いくつもの映像を選び、いくつもの雲を映してきた。私はうつろいやすい。人間と同じように。六月の明け方、幸福のひとときがあり、十二月のある夕暮れは、陰気な時間もある。それに、私は何よりとても好奇心が強く、人はそれを洪水と呼ぶ。永遠に通り過ぎていくだけのおまえたちと、流れ去る水である私の空間には、共通点がある。決して後戻りしないということ。おまえたちの時間、それは私の空間なのだ。」(前掲書、p.6)

 この部分を読んで、単純な夢想を働かせた管理人。

 何が言いたいのかというと、パリという空間は、それはそれは不思議な「空間軸」と「時間軸」を持っている場所だということだ。
 パリは、先にもあげた本のタイトルになっているように、20区からなっている。この区は前回パリについて(1)で述べた、城壁よりも少し大きく形作られた環状高速道路の内側にある。この中には12世紀に建てられた、聖母マリア信仰の寺院であるノートル・ダム寺院、18世紀も終わりに近づいた1789年、いわずと知れた革命の発祥地ともいえるバスチーユ広場(place de la Bastille)、19世紀も始まったばかり、ナポレオンが作らせた凱旋門、万国博覧会のために立てられたプチ・パレ(petit palais)やグラン・パレ(grand palais)、また芸術家達が毎夜芸術論に華を咲かせた有名なカフェであったり、文豪の家などなど、まさに「空間」と「時間」が交錯している町なのだ。
 管理人自身、一ヶ月のフランス滞在だったとはいえ、パリには僅か4日しかいなかった(というかいれなかった)。にも関わらず、現在に至る魅力は、果たして芸術が呼び起こすものなのか、はたまた歴史という浪漫か。

 19世紀後半になると、パリの街は、実は相当の汚さだったようだ。イメージというのは何にでもつきまとうもので、フランス=美しい国、というのがありがちだ。しかし文学や歴史書をひもとくと、当時のパリの雑然さや汚さも垣間見えてくる。街にあった排水溝は、道路の真ん中にあり、断面的に見ると道路がVの字型になったいたらしい。ゆえに大雨になると排水溝から汚物が溢れ、とてつもない異臭を放っていたとか。そもそもトイレというのもまだまだ十分とはいえない時代だったようで、窓から排泄物を捨てていた話は、今では有名になっている。捨てるときは道行く人にそれがかからないよう、「合言葉」を叫んでから捨てていたとか……。これが後に「文明化の使命」を掲げてアフリカ諸国を植民化していった文明人とは、考えづらいものだ。
そんななか、渦中のパリを改造しようと命令を下したのが、時の皇帝ナポレオン3世だった。そしてこの命令を実行に移したのが当時のセーヌ県知事、オスマン男爵だ。フォッシュ通り、マルゼブ大通り、オペラ座通りなど、通りの区画整理をする。街自体、当時のブルジョワたちが土地を買い、思い思いに建築していったお陰で、ゾラの言う『パリの胃袋』を呈していたが、彼の計画が実行され、ほぼ現在のような見事な町並みになった。
 このとき、パリ改造で多くの骨を見つける。これらはもしかしたら中世の頃に流行した黒死病の死者たちかもしれない、と勝手に想像してみたりする(だってパリは城壁に囲まれていて、町の外が森だったならば、そこに墓場があったと考えても可笑しくないんじゃないかと思ったから)。これらの骨はモンパルナスのダンフェール・ロシュロー(Denfert Rochereau)にあるカタコンブ(Catacombes)に収められた。ここは今、夏場には涼しい、「冥土への旅」ができる、有名な観光地となっている。なぜ「冥土への旅」かというと、一歩ここに踏み入れたならば、地下に続く道の先が全面骸骨で作られているからだ。
 ロシュローという名からも分かるように、モンパルナスはかつては採石場だった場所でもある(フランス語でRoche(f.)は岩、岩石)。

「パリが古くから石造建築物に数多くの作例を残すことができたのは、良質の石材、その接着剤となる石膏、粘土などをモンパルナス周辺の石切場から掘り出すことができたからであった」(『パリ物語』p.142. 後述参照)

 もし、このオスマン男爵も単に「皇帝からの命令」という理由だけではなく、「パリの魅力」に取りつかれていて都市改造計画に携わったとするならば、現在のパリには出会えなかったかもしれない。

 なぜ、パリには魅力があるのだろう。

 そこには、独特の空間と時間、文化だの歴史だの芸術だのよりもまず、色んな人々の面影が流れているからではなかろうか。




(図書案内、雑誌)
・浅野素女『パリ二十区の素顔』集英社新書、2000.
・宝木範義『パリ物語』講談社学術文庫、2005.
・JTBパブリッシング『ワールドガイド フランス '07』2006.


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