第1章 お菓子なお城と消えた母
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北海道の政治経済の中心地であり、200万の人が暮らす大都市、我が街札幌。
一般の人は札幌といえば時計台やすすきの、雪まつりやテレビ塔で有名な大通り、クラーク像のある羊ヶ丘展望台などを思い描くことだろう。
しかし、思いの外札幌は広い。
定山渓温泉は札幌市にあり、支笏洞爺国立公園の一部も札幌市である。
手稲山や札幌岳といった標高1000mを越える山も抱えている。
ヒグマやエゾシカ、キタキツネといった北海道らしい畜生どもも山地に行けばすぐに見られる。
これから向かうガトーキングダム、通称ガトキンは札幌市北区の端に位置し、すぐ側にある茨戸川を渡ればそこは石狩市である。
札幌市自体は海に面していないが、札幌駅周辺の中心地から1時間ほどで石狩湾に面した石狩市や小樽市に行くことができるので、市民にとって海は決して遠い存在ではない。
極寒の大地北海道も夏は暑い。特に札幌はヒートアイランド現象の影響で30度を越える真夏日もざらにある。
そんな日には札幌市民は石狩浜海水浴場や銭函海水浴場に繰り出すのである。
海も山もあり、都市と自然が調和している我が街、札幌。なんてすばらしいのだろう。
「彩音!また寝てたでしょ!」
瞬間、彩矢の言葉が私の耳の奥を切り裂いた。ハリー・ポッターで言えばセクタムセンプラである。半純血のプリンスおそろしやである。
「うるさいなぁ、考えごとしてただけだよぉ…」
そう言いながら私は目をこすった。
「絶対寝てたよぉ」
モブ少女A改め中条志保が言った。
「また昨日夜遅くまでサッカー観てたんでしょ」
モブ少女B改め成瀬真緒も続いた。
「そんなこと…なくもないけども」
昨日は珍しく金曜の夜にイングランドプレミアリーグの試合があった。シティ対アーセナル、ユナイテッド対チェルシーの試合があり、プレミア厨の私としては見逃せなかった。
結果はシティとチェルシーの勝利。首位マンチェスターシティは2位ユナイテッドとトッテナムに勝ち点差8をつけ、早くも独走態勢に入ろうとしている。シティズンである私は歓喜である。
世間ではシティは誤審で勝ったとか、審判を買収しているとか言われているらしいがそんなことはどうでもいい。
確かに3点目はオフサイドであった。だが、キックオフ直後にコラシナツも明らかなファウルをしていた。にも関わらず審判に見逃されていた。故にお互い様である。(詳細はYouTubeでシティ対アーセナルのハイライトを見てもらいたい)
赤いチームというのは自分に有利に働く誤審には目をつむり、不利に働く誤審には口うるさいものだ。そして何かにつけて過去の栄光を引っ張りだしてくる。マンチェスターの赤いやつやマージーサイドの赤いやつはCL優勝を振りかざしてくるし、北ロンドンの赤いやつは無敗優勝を自慢してくる。
そんなやつらにはセクタムセンプラである。
マンチェスターの赤い方にはアバダケダブラでもよい。闇の帝王お願いします。
「あぁ、早く着かないかな~」
彩矢はガトキンに到着するのが待ちきれない様子だ。
私たちは今札幌駅前から無料で出ているガトキン行きのバスに乗車している。
ガトーキングダムはお菓子会社として有名なシャトレーゼ社が運営しているリゾートホテルである。リゾートスパと天然温泉を売りにしている札幌市内では有名なホテルであり、週末などは家族連れなどで賑わう。屋内プールはもちろんのこと、札幌では珍しい屋外プールも有しており、ナウでヤングな若者にも支持されている。
先ほども述べたように、中心街からは離れているものの、1時間足らずで札幌市街、小樽市街の両方に行くことができる立地の良さから観光客にも人気である。
ただリゾートホテルと称しているだけあり、それなりに値も張る。ガトキンプールを堪能するためには一般的な市民プールの倍近くお金を払う必要がある。高校生ともなると行けないことはないが、ひと夏にそう何度も行くことはできない。
加えて、私たちの通う道立札幌楡林高校はいわゆる自称進学校であり、高1といえども夏休みには1週間の夏期講習が実施される。
というか、それ以前に夏休みが1ヶ月もない。8月1日から休みが始まり、曜日によって前後するが、8月の最終週には再び授業が始まる。そのうえで8月第2週には夏期講習である。
私はこの短い夏休みに常々不満を抱いている。これは教育による暴力ではなかろうか。もし、これを暴力でないと呼ぶ者があれば、出るところへ出てもよい。私はそう思っている。
短いうえに勉強漬けの夏休みではおちおち海水浴やプールなど来られないのだ。
そういうこともあって、彩矢だけでなく私たち全員がわくわくを隠しきれないのである。
「今日はサウナに入るんだぁ~」
「なに、真緒ってばもうプールのあとのこと考えてるの?」
「サウナ好きなんておやじっぽいねぇ」
3人はキャッキャしている。
「そういう彩矢だってこの前たまゆら行ったときサウナと水風呂5往復してたじゃん」
彩矢をからかうように私も会話に加わった。
「代謝よくするためにはサウナいいんだよ!いまのうちから気にしとかないとおばあちゃんになってから痛い目みるぞ~」
彩矢は頬に両手を当てて下に引き下げお化けみたいな顔をした。
「なにそれ、きも杉内」
「いやいきなり辛辣すぎるだろ」
すかさず志保が私にツッコミをいれてきた。
「ブルドッグみたいじゃん」
「ブルドッグは逆でしょ」
そう言うと彩矢は今度は頬に当てた手を上にぐっと押し上げた。
どっと沸く私たち。
これぞ青春だよなぁ、青春が何かよく知らないけど。
「ねえねえ、あの人見て。あの人こそブルドッグみたいじゃん」
私は真緒が指差す方を見た。
知らないうちにバスはガトキンの近くまで来ていたようで、東茨戸のセブンイレブン前の信号で停まっていた。
秋も深まり落ち葉の舞うセブンイレブンの駐車場には落ち葉と同じような鮮やかなオレンジ色のカブが1台停まっており、その横にこれまたオレンジ色のつなぎを着た50代くらいの男の人が立っていた。どうやら昼食を摂っているようで味噌パンをモグモグ食べている。パンを食むその顔は確かにブルドッグに少し似ていた。
「あのバイクもダサいわ~、うちの父さんもあんなの持ってるんだよね。最近乗ってないし、車あるんだから捨てちゃえばいいのに」
「男の人って古い車とかバイクに妙に愛着持つよね」
「男の人ってかおっさんがじゃない?私のお父さんも彩矢のお父さんと同じだわ」
「確かに白田先輩とか雨宮先輩がそんなわけないもんね」
「それは彩矢の理想でしょ」
「そんなことないってば」
3人はブルドッグ似のおじさんを見てケラケラ笑っている。
ズキッ
痛っ
心がなぜか痛む
なんてことない3人の言葉が突然針のようにズキズキと刺さる。
だめだ、せっかく楽しい雰囲気なのに壊してしまっては…
けれど…
「みんなそのへんでやめときなって。人の顔見て笑うなんて失礼だよ。それにあのバイクボロボロだけど、きっと何か思い入れがあるんだよ、あの人には」
絞り出すように私は言った。
息が少し荒い。気持ち悪い。
「どうしたの、彩音?妙におじさん庇うね」
「中年のおじさんは嫌なもんだよ。臭いし、口うるさいし、すぐキレるし」
「私は頑固なのが一番嫌だなぁ。あ~父さんがキムタクだったらな~」
「ホント、お父さんがもっと優しくてかっこよかったらねぇ」
針の雨が豪雨のごとく心に突き刺さる。
痛い
苦しい
やめてくれ
「もうお父さんなんていらな~い!」
彩矢のその言葉を聞いた瞬間、私の心は引き裂かれた。
引き裂かれた心の中に冷たい雨が入ってくる
心が冷たいもので満たされる
どこをみても暗い水
水面が遠ざかっていく
溺れる
あぁ もうだめだ…
そのときだった
「お前ら、もうそのへんにしとけよ」
私たちの後ろの席にいた男性が立ち上がった。
「どう見ても嫌がってるだろ、今村」
声の主はどこかで見たような顔をしていた。
たしか隣のクラスにいたような…
「オンドレイ…?」
「いや、誰それ」
少年は呆れながらも素早いツッコミを入れてきた。
「隣のクラスの野田君、野田明羅君、じゃなかったっけ?」
彩矢が思い出したように言った。
野田明羅…
あぁ、隣のクラスにいた子だ。
いつもブラックの缶コーヒー飲んでてbossとかトミー・リー・ジョーンズとか呼ばれてたっけ。
たしか夏休み前に小樽の高校に転校したはず…
「もう落ち着いたようだな」
野田君が心配そうに私を見つめている。
そういえばさっきまでの動悸が治まっている。
「今村、お前ん家親父さんいなかったよな」
「え… う、うん。うちは母子家庭だけど…」
どこにでもいる普通の女子高生を自認している私だが、人とは違うところがまたあった。
私は物心ついたころから父親がいない家庭で育った。
お母さんは特に何も言わないし、私もうちではそれが当たり前だと思っていたから、なぜお父さんがいないのかと聞くことは特になかった。
今思えばお母さんに何も聞かないってとこも普通じゃないのかな。
でもこのご時世片親の家庭なんて珍しくないよね。マイノリティではあるだろうけど。
「お前らも今村の家庭のこと知ってるよな?だったら、さっきの発言が今村傷つけるかもしれないことくらい察しろよ、友達だろ」
野田君は彩矢たち3人の方を睨み付けた。かなり怒っているようだ。まるで自分が傷つけられたかのようにそう言い放った彼を見て少し不思議に思い、なぜか少し嬉しかった。
でも空気悪いな… なんとかしなきゃ
「大丈夫だよ、野田君!みんなも!私もう平気だから!」
その場の暗い空気を振り払うように私は両手を横に振った。
「ごめん、彩音。彩音の気持ちも考えないで… 嫌な思いさせちゃったよね」
彩矢が申し訳なさそうに頭を掻いた。
真緒と志保もごめんと続いた。
「全然気にしてないから!ほんと、そんな顔しないで!せっかく今から楽しいことしようってのにそんなんじゃ楽しめないよ!」
野田君にもひと言お礼を言おうと思い、後ろを振り返るともう彼は自分の席に座ったようだ。
座席に膝をついて後ろの席を覗きこんだ。
「みんなの前ではああ言ったんだけど結構ヤバかった。助かったよ、ありがとう、野田君」
私は彼にだけ聞こえるトーンでお礼を告げた。
「気にするな。元気になったならそれでいい」
野田君は少し照れた感じでそっぽを向きながら早口で返事した。
そんな彼をちょっと可愛いと思いつつ、前を向いて座ろうとしたとき、
「持たざる者の気持ちは持たざる者にしかわかんねぇよな」
彼がそう呟いた気がした。
気のせいかな。
もう一度振り返ってその真偽を確かめようとしたそのとき、体がぐらりと軽く揺らいだ。
バスがガトキンに到着したようだ。
到着と同時に野田君は立ちあがりバスの通路に出た。
もう行っちゃうのか…
ちゃんと話したのは今日が初めてだったけどなぜか自分と似たものを感じてこの短時間で彼には謎の親近感が湧いていた。
名残惜しさ全開で荷物棚の荷物を取ろうとした私の耳元に背後から優しい声がした。
「お母さんを大切にな」
あまりに不意だったので私は思わず変な声を出してしまった。
振り返ったときには野田君は運転席の方まで歩を進めていた。
遠ざかっていく彼の背中が車外に出るまで見つめてしまった。
頬が熱い。
柄にもなく赤くなってしまっているのだろうなぁ。
頬に手を当ててぼぉーとしていると変な視線を感じた。
視線の方を見やると彩矢たちがニヤニヤしながらこちらを見ている。
「さては彩音さん、野田君に惚れましたな~」
「そ、そんなことないって!な、何言ってんの、彩矢!意味わかんない!」
だめだ。どんどん顔が熱くなっていくのが手に取るようにわかる。
「照れるな照れるなって。野田君割とかっこいいしね~」
「いやぁ、彩音もやっと好きな人ができたか~」
「こりゃ今日は赤飯ですなぁ」
こいつら言いたい放題言いやがって、さっきまでの反省はどこにいったんだ。
「もう、早く降りないと置いてくからね!」
そう言うと私はリュックを背負って駆け足でバスを降りた。
(誰かがその人の父親のことを悪く言うのを聞いたり、中年男性をいじるような言葉を聞くと気分が悪くなる癖は前から把握していたけど…まさかここまでとは…)
(お父さんがいないことをなんとも思っていなかったけど、実は心の底で気にしてたのかな。今度からはもっと気を付けなければ。)
そういえば野田君はどうしてこのバスに乗っていたのだろう?それも一人で…
謎は深まるばかりだけどとりあえずはガトキンを楽しむか!
「さあ、今日は死ぬほど泳ぐぞ~!」
「待っててば、あーやーねー!」
ガトキンのフロント前に少女たちの楽しげな声が響く。
いざいざ、お菓子のお城に入城だ。
静かな時が過ぎていく10月最後の土曜の昼過ぎ。茨戸の木々はすっかり葉を落とし冬支度を始めている。しかし太陽は冬の訪れなど意に介さないかのように暖かく茨戸川を、少女たちを照らしていた。