「アエラ」記事訂正、日経が申し入れ・「富田メモ」

2006年07月28日 | メディア・芸スポ
 日本経済新聞社は26日までに、朝日新聞社発行の週刊誌「アエラ」(7月31日号)の「天皇VS小泉劇場」の記事に誤りがあると指摘、同誌に訂正を申し入れた。
 この記事では、故富田朝彦元宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)に基づき日経が7月20日付朝刊で「昭和天皇、A級戦犯合祀に不快感」と報じたことに触れ、日経が富田メモを入手したのは「昨年秋」で、「報道までに時間がかかっている」などと記述。報道のタイミングについて「経済界と日経の二人三脚説」と伝えた。
(07:00)

NIKKEI NET:社会 ニュース
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20060727AT1G2603C26072006.html






今日の大阪での1面は<靖国合祀、国主導の原案>とトップで大きな活字が踊る。まだ時刻が早いせいかもしれないが奇妙な事にこの記事はasahi.comにはない。あるいはいつもの卑劣な使い分けなのだろう。1956年の段階で厚生省と靖国神社が緊密な連携をしつつ熱心に合祀の数を増やしていったと朝日は鬼の首をとったように書く。これを書いている記者はいくつなのだろう。恐らくその時代の空気に対する想像力など糞ほどもないんだろうね。独立を回復した当時の日本は誇りを取り戻すべく苦悶していた。そんな中で戦争犯罪受刑者の釈放を求める運動は国民的な盛り上がりを見せ何と4000万人の署名を集める。53年の衆議院での「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」は全会一致での可決である。時代の空気には狡猾に乗る朝日新聞のことだ。当時の紙面を少し探して見れば「合祀を急げ」なんて書いているんじゃないだろうね(笑)。靖国神社の存在そのものに手を突っ込み始めた勢力に注意しよう。

さるさる日記 - 勝谷誠彦の××な日々。
http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=31174&log=20060729





靖国合祀、国主導の原案 「神社が決定」に変更
2006年07月29日08時28分
 戦没者の靖国神社への合祀(ごうし)をめぐり、旧厚生省が1956年2月の時点で、合祀者は国が決定するなど国主導で合祀事務を実施するとの要綱原案をまとめていたことが28日、朝日新聞社が入手した同省の文書で明らかになった。「厚生省が合祀者を決めて神社に通知する」「合祀事務の体系は(靖国神社が国の管理下にあった)終戦前のものに準じる」と記している。新憲法の政教分離原則に触れる疑いが濃く、2カ月後にできた要綱では、神社が合祀者を決め、国は照会に応じるものと変更されたが、独立回復後に国が主体的に合祀を進めようと構想していた実態が浮かんだ。
 文書は、56年1月25日付「旧陸軍関係 靖国神社合祀事務協力要綱(案)」と、それを解説した同30日付の「要綱(案)についての説明」。
 当時、戦後になって停滞した靖国神社への戦没者合祀を進めるよう遺族から要望があり、国会で議論になっていた。戦没者の調査をする都道府県の意見を聞くために、同年2月2日付の旧厚生省引揚援護局復員課長名の通知「復員第七六号」とともに、都道府県の担当課長あてに出された。
 要綱(案)によると、(1)戦没者の合祀をおおむね3年間で完了することをめどとする(2)合祀事務体系を終戦前のものに準じたものに改める??が「方針」に掲げられた。
 具体的な作業の進め方としては、都道府県が合祀予定者を選び、引揚援護局に報告。同局で審査したうえで合祀者を決定し、靖国神社に通報。それに基づき、神社が合祀の祭典を行い、神社作成の合祀通知状を市町村役場などを通じて遺族に渡す、とされた。
 その趣旨について、要綱(案)の「説明」は「戦没者の合祀は形式的には靖国神社が行い、国や都道府県はこれに協力する」としつつも、「実質的には国や都道府県でなければ実施不可能で、実体に即応するよう事務体系を改める」と指摘。「靖国神社で決定していた合祀者を今後は都道府県が選定し、厚生省で決定し、靖国神社へ通知する」と解説した。
 陸海軍省の管轄下にあった戦前の靖国神社では、だれを合祀するかは軍が選び、最終的に天皇が決めていた。要綱(案)では、靖国神社ではなく、国が合祀者を決定するといういわば戦前に近い形に改めようとしているのが特徴だ。
 しかし、この要綱(案)の中身は、2カ月後の4月19日付引揚援護局長名で出された通知「援発三〇二五号」に付けられた「靖国神社合祀事務協力要綱」では手直しされ、「神社の照会に対し、都道府県が調査し、引揚援護局がとりまとめる」「神社は合祀者を決定する」という表現に変わる。都道府県が「祭神名票」と呼ばれるカードに戦没者の氏名や本籍、生年月日、死亡地や死亡年月日などを書き込み、引揚援護局がまとめて神社に送る仕組みだ。
 実際、合祀事務はこの形で進められたが、国と靖国神社のどちらが合祀者を決定するかは今も明確ではない。靖国神社側は「国から送られてきた名簿に従って神社はお祀(まつ)りするにすぎない」と主張するのに対し、政府は一貫して「神社からの照会に調査回答しているだけ」という立場で、見解が分かれている。
 ただ、国は56年からの3カ年計画で合祀を積極的に進めた。翌春の合祀に備え、同年8月には年末まで計約20万人分の祭神名票を提出するよう都道府県に指示。合祀予定者のノルマを課したり、作業が遅れている都道府県には迅速化を促したりし、57年には年間47万人も合祀するなど合祀者数を急激に伸ばした実情がある。
 後に野党や宗教団体などから「政教分離違反ではないか」などと批判を受けて、70年11月に「合祀協力事務」を「戦没者の身分等の調査」に名称変更したが、その後も86年まで同様の形で合祀事務は続けられた。

asahi.com:靖国合祀、国主導の原案 「神社が決定」に変更?-?社会
http://www.asahi.com/national/update/0728/TKY200607280687.html


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