今日は鉢形城(埼玉県寄居町)の笹曲輪及びその周辺を散策しました。笹曲輪は本曲輪が外部と直接接しないように設けられた緩衝的存在の曲輪です。
下の写真は笹曲輪、鉢形城の1/250スケールの復元模型と四阿の南側のカタクリ群生地(開花は3月下旬から4月下旬)です。
この曲輪は徳川家康の従兄弟にあたる水野石見守長勝が守っていたといわれています。家康の母於大の方の姉が長勝の母於丈(おじょう)の方です。長勝は織田信長に仕え、本能寺の変の後北条氏政そして氏邦に仕え、北条氏滅亡後は家康に仕えました。
写真は鉢形城から東約3kmにある昌国寺(しょうこくじ)にあるお墓です。左から「長勝」、隣の五輪塔が「夫人」、宝篋印塔が「実母(於丈の方)」、一番右の五輪塔が「長男(貞正)」です。
昌国寺は徳川家康の従兄弟であったことから旗本に取り立てられた長勝がその開基とされています。屋敷跡を菩提寺としたと思われ、現在でも堀・土塁が残っています。水野一族の墓所は町指定史跡となっています。
笹曲輪から、北条氏邦の最終段階か徳川氏の改修かは不明ですが、石垣の一部が発見されています。その外は残念ながら後世の開削等により残された遺構は殆どありません。
写真は笹曲輪の御殿曲輪切り岸面から発見された石垣です。
鉢形城の内堀として利用されてきた荒川の支流である深沢川に寄居町の名勝「四十八釜(しじゅうはちがま)」があります。川床が水の流れにより削られ、また水の落下により滝壺のように形成された淵を「釜」と呼んでいます。四十八釜の半数が鉢形城内にあり、笹曲輪の東端搦手橋の直下北側にある釜の一つ「艪(へさき)の滝」が見られます。写真は上が真上から(この時季、木の枝葉が邪魔でこの角度でしか見られません。)、下が数年前の冬季に斜め上から撮影したものです。
写真は搦手橋の東側たもとにある四十八釜の石碑です。
序でに一つだけ近代のお話をします。
従来、荒川にはこの近辺に三か所の渡し場ありましたが、梅雨や台風の時期には交通が絶え日常生活や物流に支障を来していました。その不便さを解消したのが、大正9年に地元の名士神谷茂助氏の私財を投げ打っての努力によって架設された橋長139m、幅員3.6mの「正喜橋(しょうきばし)」です。その名は「大正時代」の「正」と工事期間中に亡くなった父「喜十郎」の「喜」をとったといわれています。その後、正喜橋は40年の風雪に耐えましたが、交通量の増加と橋自体の老朽化のため、昭和32年に下流50mの処に二世が架けられました。それがコンクリート製、橋長145.9m、幅員7.5mの現在の正喜橋です。
写真の上が新旧橋の位置関係、真ん中が当初の吊り橋、下が現在の橋です。
笹曲輪のご紹介は以上です。真夏の連日続く猛暑、猛暑日の合間を縫っての楽しい半日を過ごせました。
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