自分は自分のことを、認められているのかな。
自分は自分のことを、受け入れられているのかな。
心の不安定さが頂点に達して、憎しみとイライラと憂鬱の極みに達して、それでいつも、
「どうして自分は、こういう人間なのか」
「どうして自分は、憎しみがいっぱいで憂鬱で仕方なくなる人間なのか」と、
自己嫌悪や劣等感、人に対する怒り憎しみを味わいながら、自分自身のことを見ている。
自己嫌悪や劣等感、人に対する怒り憎しみを味わいながら、自分自身のことを軽蔑している。
自己嫌悪や劣等感、人に対する怒り憎しみを味わいながら、自分自身のことを「守って」いる。
だけど最近、やっぱりそれは「自分自身を本当の意味では受け入れていない」とはっきりと思った。
サークルを休んでしまった時もそうだし、サークルに行きたくないなと思う時もそう。
仮病を使わなければいけない人間関係を味わう時もそうだし、アルバイトでもそう。
ゼミの人間関係だってそうだし、学部の知り合いの人たちに対してもそう。
僕はいつも、人に対する憎しみでいっぱいだ。
人に対して、いつも怒りや憎しみ、攻撃的な気持ちでいっぱいだ。
それでいつも、イライラしている。
それでいつも、憂鬱で仕方がない。
人に対する憎しみがいっぱいなのに、実際の場面では人に冷たくされることが怖い。
ぞんざいに扱われることがとても嫌。見放されたくない。誰とでもうまくやりたい。
だけど憎しみがいっぱいだ。
本当は憎しみでイライラでいっぱいだから、他人が嫌いなのに、いざ自分が嫌われることをものすごく恐れている。
嫌ってるのに嫌われたくない。
同じ自分の中に、相反する2つの気持ちが存在している。
だから、いつも憂鬱で仕方がない。
いつも、心が不安定で仕方がない。
これまでは、いつも、そんな自分が出てくるたびに、そんな自分を感じるたびに、そんな自分を味わうたびに、憂鬱になったり、イライラしたり、自己嫌悪に陥ったり、劣等感を感じたり、人に憎しみを抱いたりして、苦しくて仕方のない気持ちになっていた。
そんな自分があるのはどうしてだろう、刺激されたくない部分がある自分はどうしてだろう、刺激されるセンサーが多いのはどうしてだろうって思って、考えたけど、やっぱり原因はいつも分からない。
苦しい気持ちを味わうだけ味わって、そんな自分がどうしてだろうって考えるけれど、分からない絶望感にうちひしがられて…っていうことの繰り返し。
自分をぞんざいに扱っているのは、何よりも自分自身なのではないかと思った。
いつも、苦しいのは確かで、刺激されたくない部分が刺激されるたびに、「苦しい、憂鬱、イライラ、憎い」と、自分の心は『自分自身』に対して必死にうったえてきた。
けれど、僕はいつも憂鬱にうちひしがられて、「こんな自分はダメだ」って自己嫌悪や劣等感のマントで自分のことをぼやけさせて、自分のことを見ようとしないで、「自分はダメだ」って思うことで、何とか自分を保ってきたのではないか。
「自分はダメだ」って言いながら、感じながら、まだ、心のどこかで「自分はダメじゃない」って思う気持ちが存在している。
「自分がダメだダメだ」って言うことで、本当の自分を見ようとしない自分がいる。
いつも通りの自己嫌悪に浸ることで、本当の自分から目をそむけている自分がいる。
僕はこれまで、何度も「イライラで憂鬱で憎しみ不安で仕方のない」気持ちになった。
そのたびに、憂鬱やイライラに浸っていた。
浸りながら、こんな自分がダメだって感じていた。
だけど最近、憂鬱やイライラに浸りながら、ふと、「でも、これが自分か」と思った。
今まで何度も同じ目にあってきているのに、いつもその事実から目を背けている。
だけど本当は、何度も同じ苦しい気持ちを感じているのが、自分なはずだと思った。
何だかその瞬間、自分を受け入れるっていうことはこういうことなのかなあと思った。
違うかも知れないけれど。
そうなんですか☆(*'o'*)
何だか頭で理解するんじゃなくて、体が「ああ、これって自分以外の何者でもないなあ」と、スーっと溶け込んでいくような、諦めに近いような、だけど心はあんまり不快ではなくて、妙にスッキリとしていて…という感じです。
mypaceさんの言われる通り、「実感」として感じる気持ちです。
そうやって一歩一歩前進していると思うので、しんじさんは将来自分のことを受け入れることができると思います。
なるほど~、mypaceさんが感じたような気持ちと同じなんですね。
何だかmypaceさんが自分ととても似ていて、親近感が湧きます。身近に感じられます。
将来、自分のことをちゃんと受け入れられるように人間になっていきたいです。
応援していただいて、ありがとうございます。