次に二万億の威音王に値う。
最初仏の像法の中、常不軽菩薩と為り、三千威儀を受持す。
第二仏の時、不退位を証す。後に大通智勝如来に値う、我れ王子と為りて、出家し三百戒行を具持す。
後に二万の日月灯明に値い、定光仏を経て、名づけて儒童と曰う。威儀三千・戒行を具摂し、即ち我が記を授け、号して釈迦牟尼と為す。
天台宗桑門安然『普通授菩薩戒広釈』巻中
以上のように、釈尊が成仏するまでに、様々な仏陀に逢うという良縁を得ていたというのは、様々な大乗経典で説かれるところであるので、この見解自体は珍しくは思わないが、それを、戒律や威儀具足の観点から説いているところに興味を持った。
ところで、上記引用文に「常不軽菩薩」が出ていることからも分かる通り、その一節は、『妙法蓮華経』「常不軽菩薩品」を典拠にしている。
亦威音王如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と号けたてまつる。是の如く次第に二万億の仏います、皆同じく一号なり。最初の威音王如来既已に滅度したまいて、正法滅して後像法の中に於て、増上慢の比丘大勢力あり。爾の時に一りの菩薩比丘あり、常不軽と名く。
「常不軽菩薩品」
それから、続く「大通智勝仏」は、ここで直接引用されたところは分からなかったが、『妙法蓮華経』「化城諭品」に出ているので、その辺を参照されたのであろう。また、「儒童」の時の授記については、「釈論に云く、儒童菩薩、七地無生忍を得て、燃灯仏に値うて、方に授記を与う」(吉蔵『法華玄論』巻7)とあって、この辺の影響を受けたものなのだろうか。
さて、先の通り、安然は「菩薩戒」を説く場面であるから、上記のような釈尊の前生譚について、全て戒律・持戒に関連させているけれども、それ自体の典拠は、今回の調査では分からなかった。ただし、一つ想像するとすれば、「像法」の中で菩薩となって修行しているので、菩薩行としての「威儀」を強調されたのだろう。
続いて、王子となった場合には、あくまでも仏陀の下で出家したとあるので、戒行を説いているのだろうが、問題は「三百」という戒本の数である。ただし、「二百五十戒」よりも多めに設定することで、厳しい持戒修行を行っていたことを示すものだろうか?或いは、『梵網経』系の十重四十八軽戒を合計した「三百戒行」なのだろうか?この辺は分からない。
その上で、「儒童」はそれまでの威儀と戒行とを両方兼ね備え、そして授記をされて、仏陀としての号も「釈迦牟尼」であるとなった。ここから安然は、繰り返しの人生の中で、徐々に威儀・持戒が具足していく様子を示していると理解出来よう。ただし、安然の次代、既に日本天台宗は、菩薩戒を主とした大乗戒壇を運営していたはずだが、釈尊自身には、いわゆる声聞戒・菩薩戒の兼備があった上での、説法だったと判断したものか。
機会を見て、先の文献を更に参究したいとは思うが、まずは一節を学んでみた次第である。
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