つらつら日暮らし

江戸時代の洞門学僧による栄西禅師への評価について

臨済宗黄竜派の明庵栄西禅師(1141~1215)について色々と見ていくと、鎌倉時代初期の僧侶としては、おそらく当代きっての有名人であったことは疑い無い。栄西禅師は、専修思想に不当に毒された「鎌倉新仏教」というカテゴリーで、仏教思想・行法の改革が不十分であったような印象を持たれたこともあるが、昨今では当代の改革者として燦然たる地位にあったという評価を得つつあるように思う。

ところで、曹洞宗と栄西禅師については、高祖道元禅師(1200~1253)との関わりもあり、また、道元禅師は栄西禅師の弟子である仏樹房明全和尚(1184~1225)から菩薩戒を受けていたこともあってか、曹洞宗では洞済両聯の『血脈』を用いる場合もある。

そして、江戸時代の洞門学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)が行われた、建仁寺での「伝戒会啓建」という勝躅が際立つ。面山禅師は『永平実録』に見るように、道元禅師が「明全禅師に師事し、禅壇菩薩戒を伝え」とされて、明全所伝の黄竜派菩薩戒を受けたと考えている。そして、その影響については更に、次のように詳細を述べる。

訣に云く、我が永平、明全に相従うこと、凡そ九年。乃ち其の戒を得。〈中略〉如今、我が門の戒脈の一方、西和尚・全和尚・元和尚と系聯するは、乃ち、栄西・明全・永平なり。
    『仏祖正伝大戒訣(上)』


これは、「西公歿後、菩薩戒を明全に得く」という一節への面祖の解釈である。先に示した伝記の通りだが、戒脈のレベルでそれが評価されているところをまず見ておきたい。

 予、示て云く、戒は諸経論に説けて、仏祖歴代正伝し来ること、毎度開示せし通り、仏仏祖祖洞済聯綿たるものなり。建仁の西和尚、先に叡山に在て菩薩戒を受け、持律精厳、自然に禅に通じ、後に入宋して法を東林の敞に得。かねて禅壇の大戒を伝受あり。いはゆる、「菩薩戒者禅門之一大事因縁」と云ふもの是れなり。帰朝後、菩薩戒の血脈、済家・教家両伝双聯して、以て明全に授く。全、また元和尚に授く。
 元和尚、後に入宋ありて法を天童浄和尚に面授し、兼て禅壇の大戒をつとふるもの、西和尚の東林より伝ふと一般なり。ゆへに、帰朝のはじめ、明全所伝の血脈を理観に授るもの、実に文暦二年中秋の日なり。是の年十一月嘉禎と改元す。
 嘉禎二年、法を興聖に開てより、天童所伝の血脈を用ひられ、洞済両伝双聯なしたまふなり。
 〈中略〉さて、洞済双伝の道理、如何となれば、異国本朝ともに、甲刹の主人たる内にも、正伝の宗旨にくらきともがら、ただ随宜の保護のみにて深意を得せず、況や遠方外国より伝来の事なれば、後人の疑を生ぜんことを思ひたまふて、証を他家に取るものなり。
    『伝法室内密示聞記』


いわゆる「洞済両聯(洞済双伝)」の実施理由に関する室内の密示が、上記引用文となる。面山禅師は、特にその理由を、正式なる寺院となる甲刹の住持であったとしても、正伝の宗旨に理解を示さない者は、疑いを生じる可能性を考え、その対処として道元禅師は明全所伝の血脈や、如浄禅師所伝の血脈を用い、日中間にまたがる法の伝授をしたことについての証拠を、より確実ならしめたと評されている。

なお、江戸時代においては、洞済両聯は曹洞宗における正統なる見解になったと言って良く、面山禅師に限らず、卍山道白禅師(1636~1715)の『洞門衣袽集』に収める「対客二筆」において済下・洞下の「両伝双聯」を支持しており、法孫の万仭道坦禅師(1698~1775)も『室内三物秘弁』「一体三名」項において「洞済両聯血脈」を、「永平高祖の製作する所に係る」と口伝している。つまりは、峨山派(面山)・明峰派(卍山・万仭)が軌を一にして、洞済両聯を是としたといえる。よって、現在でも多くの場合、宗派内では両聯の血脈を用いていることだろう。

さて、面山禅師は京都東山にある、臨済宗建仁寺派の大本山建仁寺にて、住持長老以下、山内の衆に洞門にて併伝してきた臨済宗黄竜派の戒脈を授与した。その経緯を含めた詳細については、『洛陽東山建仁禅寺戒壇録(以下、戒壇録と略記)』に詳しい。

この伝戒会に至る経緯だが、宝暦11年(1761)に、建仁寺霊洞院の穆西堂が請して、面祖は建仁寺の福聚院に入られた。面祖は最晩年に至るまで、京都を活動の拠点にされたけれども、それは宝暦6年(1756)に泉涌寺での補陀尊(観音像)の安座に随喜して以来、その縁が広がってのもののようである。そして、宝暦11年仏誕日(4月8日)、福聚院の面山禅師に対し、合山清衆より、『梵網戒経』の開示(実際には、新羅僧太賢『梵網経古迹記』であったようだ)を請われ、それが約1ヶ月に及び、その後、同年5月15日から建仁寺塔頭・護国院(栄西の塔所)にて伝戒会(四衆の授戒会を含む)を行い、5月20日に当時の建仁寺住持であった北礀道爾長老(『禅学大辞典』によれば同寺327世)に対して、伝戒を行ったのであった。

そこで、面山禅師は啓建に至る様子を「合山より戒壇を啓建するの請有り」(『戒壇録』参照)とされるのみだが、北礀長老から寄せられた「謝偈」の真筆が永福庵に所蔵され、また、『戒壇録』にも収められており、同書に詳しい経緯が見える。

昔、千光祖翁、虚庵の室に入りて、布薩戒を伝来し、今に連綿なるものなり。然るに、戒脈は中古に其の伝を失し、一衆嘆傷に堪えざるなり。今夏、洞上の面山和尚、幸いに山中に寓す。道行孤峻にして、徳臘倶に高し。闔衆、胥議して云く、志願の時至れり。懇請して大戒を乞う。〈中略〉是に於いてか、華蔵海内に伝戒の者あり、授戒の者あり、信男・信女、受戒に随喜す。座下、授受の際、丁寧に告戒し、全く魔繞無し。今日、了畢す。素願已に満ちる。宛も、明珠を合浦に還すが若し。法門の幸栄、焉より大なる莫し。
    「附北礀和尚謝偈」、『戒壇録』所収


上記引用文からは、建仁寺では栄西が伝えた布薩は、そのままに伝えられていたが、大戒は失われていた。よって、優れた学僧であった面山禅師に対して、先に見た如く、『梵網経』の開示を請うた後で、大戒の伝戒を乞うたのであった。なお、これは伝戒のみであり、また、儀礼内容については「禅門大戒普説」(『戒壇録』及び、『面山広録』巻10に所収)を参照すれば、「洞家古式に依って、完戒茲に畢んぬ」とされており、おそらくは『仏祖正伝菩薩戒作法』に則って行われたものと思われる。更には、先に見た如く、黄竜派に由来すると思われる栄西関連の断紙は、この法会の前後で付与されたようである。

面山禅師自身はこの時の自称を「千光祖師第三十一世戒孫面山瑞方」とし、栄西禅師以下31代の戒脈を得た祖師であると自称したことになる。そして、先に挙げた「禅門大戒普説」に依拠して、御自身による授戒の意義を端的に述べれば、次の通りといえる。

 我が永平祖翁、始め千光祖師を本山に参じ、祖師示寂後、山に駐まること九年、乃ち、其の戒を仏樹明全和尚より伝授す。而して祖師、戒孫となる。〈中略〉後に入宋して重ねて之を天童浄祖に受け、帰朝の後、戒脈を整え、以て済洞一轍と称するは、是に由るなり。
 且つ、東福聖一国師、之を其の門下に授け、興国法灯国師は之を我が祖翁に受け、三光国師は之を我が瑩山に受け、夢窓国師は之を碧潭和尚に授け、虎関和尚、禅戒規を述し、関山派下舂夫禅師、梵網経の跋等に、「日本相続して綿々として絶えず、支那に於いては乃ち宋亡びて元の興りて、正宗の羯磨断絶す」と。
    「禅門大戒普説」


上記引用文によれば、やはり洞下・済下でそれぞれ受け嗣いできた一轍なる菩薩戒をまず建仁寺に再興する目的があったと理解できる。そして、先の面山禅師の自称と、また、ここで伝戒を行うことについては、自ら黄竜派の戒脈を受け嗣ぐことを示しつつ「縁有って、因無きに非ず」と自ら述べたことからは、建仁寺という黄竜派の祖師である栄西禅師の開山である以上、そこに黄竜派の戒脈を戻す意図があったと考えられる。

そして、ここには明確に、江戸時代の仏教思潮の底流に流れ続けた「復古思想」があることを忘れてはならない。この勝躅は、面山禅師による復古運動の一面として理解されるべきなのであろう。その思いは、『戒壇録』に収める「叙」から確認しておきたい。

余、今春、痾に因って洛に赴く。夏に入って建仁の支院に寓す。因みに、合山篤請して梵網戒経を開演し、幾んど三十日なり。厥後、亦、伝戒の請に値う。時に永祖、千光祖師の戒孫となって、而も戒脈相続して今、老頑に到るを感憶す。便ち、其の請に応じて、授受の始末円成す。是、将に此の山の古戒たるべし。而して再び今、此の山に還すなり。
    『戒壇録』「叙」


最後の、「此の山の古戒」或いは「此の山に還す」という箇所が、復古の精神を能く示すものだといえよう。そして、それは同時に、高祖大師が栄西禅師の戒孫となっていたことの恩に報いる行でもあったといえる。この一事もまた、面山禅師におかれては、「永祖の面を見る」ことだったのだろう。

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