つらつら日暮らし

禅僧にとっての戒法

禅僧にとって、戒法とは何だったのだろうか?このような見解がある。

今この戒を仏祖正伝ととけば、戒法をいやがる禅宗僧の云様は、禅宗は悟りの宗旨なれば、なにの戒法と云ことがあるべきと、亦書冊のはしのよめる僧は、其上に証拠を引て云は、伝灯録及び諸家の録にも、授戒と云ことは見へず、後人の初めたることと云、これ大邪見、愚妄の至なり。
    面山瑞方禅師『若州永福和尚説戒』(宝暦9年版)乾巻・2丁表、カナをかなにするなど見易く改める


この説示を見て、拙僧は今でも同じなのではないか?と思うようになった。いや、この見解が現代の現場にまで反映しているのかもしれない、ということだ。

しかし、何故、禅宗の悟りと、戒法とが対立するのだろうか?拙僧にはそれが解せない。例えば、道元禅師は禅の悟りと、釈尊の教えとが矛盾しないことを論じている。或いは、戒法と禅宗との関係も矛盾ではない。

西天東地、仏祖相伝しきたれるところ、かならず入法の最初に受戒あり。戒をうけざれば、いまだ諸仏の弟子にあらず、祖師の児孫にあらざるなり。離過防非を参禅問道とせるがゆえなり。戒律為先の言、すでにまさしく正法眼蔵なり。成仏作祖、かならず正法眼蔵を伝持するによれり。正法眼蔵を正伝する祖師、かならず仏戒を受持するなり。
    『正法眼蔵』「受戒」巻


「戒律を先となす」とあるが、参禅は常に戒律を元に行われている。つまり、悟っただけで戒律の全てを無化することは出来ない。

それから、面山禅師は、同時代の者の中に、多少は文献が読めるものが、『景徳伝灯録』や中国の禅語録に、授戒について論じられていないことに疑問を呈し、後人が始めたという指摘があったと批判している。これは、或る意味で「純粋禅」のようなものを想定したものであった印象もある。

しかし、不可解なのは、この時代の前も後も、曹洞宗は授戒でもって教線拡大を行ってきたはずで、それを忘れてしまったかのように、この発言をする者がいたことである。都合の良いところだけを利用するのは、禅僧と名乗るべきではない。それこそ分別・忖度ではないか。

しかのみならず、諸有道の師、先規悟道の祖、見聞するに皆戒行を守り威儀を調ふ。たとひ小善と云とも是を重くす。未聞、悟道の師の善根を忽諸する事を。
    『正法眼蔵随聞記


以上の通りで、道元禅師は悟道の祖も、皆戒行を守っているという。もちろん、以下のような教えもある。

学人最百丈の規縄を可守。然に其儀式護戒坐禅等なり。昼夜に戒を誦し、専ら戒を護持すと云事は、古人の行李にしたがうて祗管打坐すべきなり。坐禅の時何の戒か持たれざる、何功徳か来らざる。古人の行じおける処の行履、皆深心あり。私の意楽を存せずして、ただ衆に従て、古人の行履に任せて行じゆくべきなり。
    同上


こちらは良く、坐禅に戒が包摂されることを意味すると解されてはいるが、真意は、坐禅をしている時にも、戒が保たれていると示しているだけで、坐禅以外の時の戒行を否定するものではない。そう考えると、戒(と言っても、菩薩戒なのだが)の護持は徹底されるべきだと思われるのである。この辺は、恣意的な「意楽」を用いずに、ただ古人の行履を履践すべきなのである。

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