つらつら日暮らし

至道無難禅師の「破戒」観

近世初期の臨済宗の僧侶・至道無難禅師(1603~1676)には、仮名法語が遺されているけれども、和歌(道歌)の体裁で、指導をしていた事例も見られる。今日はその1つを見ておきたい。

ある人に
   平常に五戒をつよくたもちなば
         つゐに破戒のびくとなるべし
    『禅門法語全集』第五篇、37頁


・・・え?いや、あの・・・何を言っているのか全く分からん(;゜ロ゜)

えっと、或る人に向かって渡した道歌だとは思うのだが、意味は、平常に五戒を強く持ったならば、しまいには破戒の比丘となるだろう、ということである。いや、持戒していたのに、何故、破戒の比丘になるのか?と疑問に思った人は、拙僧と同じ疑問に立った人である。

そこで、1つ思うのは、「つよくたもちなば」と「強く」という表現が入っていることに注目したい。この辺、読み解くカギになるかもしれない文脈として、同じ至道無難禅師は、以下のように説示することがあった。

一 物に執着する時あるべし、たとへばちいさきとき、いろはをならひ、世わたるとき文書くに、もろこしの事も書きのこす事なし、いろはのじゆくするなり、仏道も修行する人身のあくを去るうちはくるしけれども、去りつくしてほとけになりて後は何事もくるしみなし、又慈悲も同事也、慈悲するうちは慈悲に心あり、慈悲熟するとき慈悲を知らず、慈悲して慈悲知らぬとき仏といふなり、
  慈悲はみな菩薩のなせるわざなれば
     身のわさひのいかであるべき
    前掲同著・13~14頁


おそらく、こちらを使って読み説けば、先ほどの道歌も理解出来るように思う。つまり、至道無難禅師は物に執着する時があるとしつつ、その具体的な例として、文字の手習いを示している。つまり、最初はいろはから習い、漢字も書けるようになるけれども、その時は必死に習った様子とは違って、意のままに書くことが出来るということである。それを「熟」すことだとしている。

一方で、仏道修行に於ける諸悪莫作についても、最初は悪事を行わないと自らを苦しめる(矯正)ことになるが、次第に慣れて、自在に悪を行わないことになる。同じく、慈悲の実践についても、最初は慈悲を心に想い、慈悲をしようと想うが、熟すとじひをしらなくても、仏として、慈悲を行うというのである。

ここから、先ほどの道歌を見ていくと、これは、「持戒」について同じことが述べられているのだろう。在家の信者として、五戒から守り、後に出家し、比丘となったとしても、その持戒に執着している間は、比丘として目指すべき自由闊達なる境涯に達することは無い。至道無難禅師はそれを、「破戒」と表現しているのである。

つまり、意図的に破戒をすることを推奨しているのでは無いが、持戒を心に思わずして自在であることが求められている。その可否が、そのまま持戒か破戒かに繋がる。結果として、形ばかりの持戒に執着していると、結果としてそれは、自らを苦しめる煩悩となり、破戒になってしまうのである。持戒が、真に持戒である時には、持戒を想うことが無いのである。

今日は、このような禅思想的な持戒観を学んでみたが、こういう理屈で理解するのを嫌がる「禅僧」も居られそうだな・・・。

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