つらつら日暮らし

道元禅師と「海の日」(令和6年度版)

今日は海の日である。もう何年か前から「ハッピーマンデー」になっていたので、今日となる。ところで、大乗仏教で「海」といえば「海印三昧」がある。この三昧は、本来無礙なる仏の智慧の海に、一切の真実相が「印」されて映るような禅定三昧を意味し、『華厳経』という仏典は、この「海印三昧」を説いたものであるとされる。

道元禅師は、この「海印三昧」を承けて、中国禅宗の祖師方が説いた教えをもって解釈し『正法眼蔵』「海印三昧」巻を、仁治3年(1242)4月20日に興聖寺で著されたが、他にも道元禅師の著作には「海」が多く登場する。

寮中の清浄大海衆、いまし凡いまし聖、誰か測度するん者ならんや。〈中略〉但、四河海に入って復た本名無く、四姓出家しても同じく釈氏と称せよとの仏語を念え。
    『永平寺衆寮箴規』


そもそも、修行僧は「清浄大海衆」とされる。これは、叢林修行をする出家者について、インドの四大河が海中に入れば、元の河の名前が無くなって、「一味の海水」と呼ばれるように、それまでの種姓名を捨てて、ただの解脱の仏弟子となることを意味している。曹洞宗で葬儀をする際に、僧侶が故人に戒律を授け戒名を与えるのは、このように仏弟子とすることを意味している。たまに、戒名が無くて良いとか、元の名前で良いなどと言う人がいますが、それはせっかくの解脱の可能性を自ら放棄することを意味している。

 管子云、海不辞水、故能成其大。山不辞土、故能成其高。明主不厭人、故能成其衆。
 しるべし、海の、水を辞せざるは、同事なり。さらにしるべし、水の、海を辞せざる徳も、具足せるなり。このゆえに、よく水あつまりて海となり、土かさなりて山となるなり。ひそかにしりぬ、海は、海を辞せざるがゆえに、海をなし、おほきなることをなす。山は、山を辞せざるがゆえに、山をなし、たかきことをなすなり。明主は、人をいとはざるがゆえに、その衆をなす。衆とは、国なり。いはゆる明主とは、帝王をいふなるべし。帝王は、人をいとはざるなり。人をいとはずといへども、賞・罰なきにあらず。賞・罰ありといへども、人をいとふことなし。
    『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻


道元禅師は「四摂法」の一つである「同事」の説明に、『管子』を著した斉の管仲(?~B.C.645、桓公を覇者にした)の言葉を使いながら、以上のように示された。海が何故広くなったのか?という説明に、海と水との関係を示している。海は何ものをも受け入れる。逆に、水も海を嫌わずに受け入れてもらう。このような関係を「同事」とされる道元禅師は、「同事」が他者への信頼をもって自らを投げ入れていくことで成り立つことだと指摘している。先の「清浄大海衆」も同様だが、ここでも「海」は包容力を意味する存在として描かれている。そして、道元禅師はこの「包容力」をもって、さらに宗教的な見解を強くした説示をされる。

師云の包含万有は、海を道著するなり。宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の、万有を包含するとはいはず、包含万有なり。大海の、万有を包含するといふにあらず、包含万有を道著するは大海なるのみなり。なにものとしれるにあらざれども、しばらく万有なり。仏面祖面と相見することも、しばらく万有を錯認するなり。
    『正法眼蔵』「海印三昧」巻


海とは「包含万有」だが、万有を包含する以上、海があって他から万有という存在を受け入れるというような形にはならない。そうではなく、万有が包含という経験的事実にあって海が海として形成される。それを言葉にすると、「包含万有」になると、斯様に理解されなくてはならない。

だからこそ「海印三昧」とは、海の上にヨットや船が泳ぐように、或いは海の中に魚が泳ぐようなものではない。これでは、どこまでもヨットや船と海が、魚と海が対立的存在として描かれてしまうが、その場合は海という空間を観察者が定義し、其処に個物を配置しているに過ぎない。しかし、その状態で海が「包含」していると言えるのだろうか?だからこそ道元禅師は「海印三昧」巻の冒頭で以下のように指摘される。

諸仏諸祖とあるに、かならず海印三昧なり。この三昧の游泳に、説時あり、証時あり、行時あり。海上行の功徳、その徹底行あり。これを深深海底行なりと海上行するなり。流浪生死を還源せしめんと願求する、是什麼心行にはあらず。従来の透関破節、もとより諸仏諸祖の面面なりといへども、これ海印三昧の朝宗なり。
    『正法眼蔵』「海印三昧」巻


実は、海印三昧の包含万有なる事実は、諸仏諸祖が教行証の三時として明らかにされる。それ以外の海印三昧はない。だからこそ、道元禅師は「海上行」という隠喩でもって、これは三昧がさらに三昧を修行する仏祖を生み出し、また仏祖が明らかにしていく三昧という自己組織化のシステムを明らかにされた。すでに、三昧が三昧となっていく循環を内包している以上、循環によって世界も明らかにされるということでは、循環以外の一切を前提することはできず、結果として海は始めからあるのではなく、あくまでも海も海として自らを明らかにしていくプロセスが三昧である。

そして、プロセスに関わるものが何であるかを予め設定できないということから、一切の存在を受け入れて、プロセスの中で再構成されることを、端的に「海」といい「包含万有」という。我々は海が、始めから広大深遠なる存在として我々を受け入れると理解してはならない。あくまでも受け入れていくという過程を経つつ、海は海として自己現成していくのであり、この海がより受け入れやすい状況を維持するため倫理性も求められる。

或いは、現代ではむしろ、酷い廃棄物や汚染物が投棄された場合には、あらゆる存在を受け入れるのではなくて、あらゆる存在を滅していく場所に変貌してしまうが、それは果たして、海なのだろうか?包含万有なのだろうか?海があらゆる存在を受け入れるというプロセスから考えれば、我々が海を汚してはならないことは明らかである。

・・・などということを、今日の「海の日」に因んで考えてみた。

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