つらつら日暮らし

「威儀師」一考

以前、【「赤袈裟」一考】という記事を書いた時、「威儀師」という存在を知った。そこで、この記事では職責などを掘り下げてみようと思う。

それで、調べてみると受戒作法の関係で「威儀師」という名称が用いられていることを確認した。

明了論疏に、若し已に五夏を得れば、大戒を受く証人と作り及び威儀師と作ると為す。七夏已去は、羯磨闍梨に作ることを得る。既に是れ師位、故に互いに共に床坐を同ずることを得ず。
    『四分律刪繁補闕行事鈔』巻上之三「受戒縁集篇第八〈捨戒六念法附〉」』


この通りなのだが、要するに五夏以上の阿闍梨となれば、授戒の時に証人や威儀師になれるという。つまりは、授戒の現場で作法などを教える立場かと思ったのだが、それを示す文脈も存在している。

記、威儀安慰 教授師を名づけて威儀師と為すなり。安慰とは、問難の安慰の語なり。
    照遠『資行鈔〈事鈔上一之分第三巻なり、第一門中三例より第五門に至るなり〉』


この照遠律師という人は、生没年が1301?~1361?年とされる。そうなると、東大寺・凝然大徳の次の世代の学僧だったようで、唐招提寺などで多くの著作を残したという。系統的には、覚盛―良遍―円律―禅戒―照遠という流れらしい。そこで、照遠律師の文献に、上記の通りの記載が見られる。つまり、教授師を威儀師としているのだが、いわゆる教授阿闍梨と同じことか。

ただ、日本の場合、果たしてこの内容を鵜呑みにして良いかどうか、微妙な印象を得る。もちろん、南都の東大寺や唐招提寺などの戒壇では、威儀師を中国の律宗と同じ教授師の意味で使っていたかもしれないが、それこそ大乗戒壇の場合は、いわゆる三師七証も置かないので、位置付けが気になっていた。そこで、当ブログの連載にも用いている釈雲照律師『緇門正儀』では、日本の僧官の項目に以下の通りとしている。

一 威儀師
一 従儀師
延暦五年三月六日太政官符、威儀師の員を定める事、右治部省の解を得て、威儀師を偁ぐ、其の員定まらず、比年の間、猶お増減有り、望み請う法行大僧正の時に準じ、定めて六口を補せん、若し其れ闕するときは、随て即ち官に申るといへり。官、制して請に依る、永く恒例と為す、
弘仁十年十月廿五日、太政官符、律師以上の員数、并に従儀師の数を定むる事〈云云〉、従儀師八人〈云云〉、但、威儀師の員は、去る延暦五年三月六日の符に依れ。
    『緇門正儀』12丁表~裏


う~む・・・実際に務めていたであろう役責の内容は良く分からないな。要するに、威儀師・従儀師を定めた経緯と、その人数制限についての記事だということが分かる。威儀師は「六口」とあるので、六人ということか。それから、『玄蕃式』だと以下のように定めているという。

威儀師各々従僧一人、沙弥一人、童子二人、
従儀師各々沙弥一人、童子二人、
    『憲法志料』巻3


天武天皇7年(679)の時だというが、威儀師に従僧などが付けられた様子が分かる。なので、授戒作法云々ではなくて、常設されていた僧官の一だったものか。ただし、清少納言『枕草子』でいう「威儀師」が上記のものと同じかどうかの検証は必要な印象である。僧官の年代的な変遷などを見る必要があるといえよう。

仏教 - ブログ村ハッシュタグ#仏教
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事