つらつら日暮らし

天野信景『塩尻』が示す古規復古について

『塩尻』は、尾張藩士の天野信景(あまのさだかげ、1663~1733)が元禄年間から諸方の記録を書き溜めて著した随筆で、全100巻もある。以前から、幾つかの記事で採り上げてきたのだが、今回は黄檗宗と臨済宗、そして曹洞宗の関係を示した一節を見出したので、記事にしておきたい。

○隠元禅師東来の後、万福禅寺を創建して大いに黄檗の風を振へりされば、殿堂の奇製の荘厳よりはじめ、木魚・引磬の音を珍らかに明音の誦経いとゞ面白し、衣体異にして其観一ならざるが故に、緇素一時風をなし、倣て本宗の法式を変革せしもの都鄙多かりし、
 寛文年間、妙心寺派の寺院、好事の禅子新奇を衒ひて旁観を駭す事ありしかは、花園の老衲等議して誓書を製し、凡四派の禅侶本山の規範を免して他門の法則を執行する事を戒禁せし〈答客問に詳なり〉、
 堂持台座主職に禁止の令旨ありし、されば各宗其本寺の旧規ありて与流是を守る、これ開祖の所定也、末流豈是に違ふべきや、
 今、洞宗の禅院、蓮社の末徒やゝもすれば、檗山の風をうつし、本宗の規を忘るゝものあり、
 嗚呼人々元禅師の徳を仰ぎ、其節を伝ふべき思ひはなくして徒に衣鉢器様の美に眩き好事の徒なりと異相を現して却て世のあざけりをまぬく、尤亦誤らずや、〈以下略〉
    巻五十七、室松岩雄校訂『塩尻』(國學院大學出版部・明治40年)巻下・98頁上段、漢字を現在通用のものに改める


まず、冒頭の文章で書いてあるのは、黄檗宗の隠元隆琦禅師が日本に来られた後で、現在の京都府宇治市に黄檗山万福寺を開創されたことを伝え、更に同寺の殿堂の景観や、その中で行われている諷経の作法などを褒め讃えた文章だといえよう。拙僧も、近くまでは行ったことがあったが、中にまで入る機会を得たことがないので、一度は参拝したいと思っている。

さて、当時非常に評判になったため、黄檗宗の作法などは、他宗派でも大いに参考にされ、天野の指摘に依れば、元々の宗派の法式を変革す るような者が、都鄙(国中)多かったとしている。そこで、寛文年間に臨済宗妙心寺派の寺院に於いて、まだ若い僧侶だったのだろうか、新奇を衒い、見た目などで周囲を驚かすことがあったため、花園(妙心寺のこと)の老僧達がこのことを議論し、また、4派の本山では、規範を発して他門(この場合は、黄檗宗を指しているのだろう)の作法などを行うことを、禁止したという。

一応、天野は『答客問』という文献に詳しいと指摘しているが、どの文献を指しているのか、無門源真禅師の『答客問(たっかくぶん)』だろうか?この文献は残念ながら、現段階で見られていないが、どうも「国書データベース」で画像が見られそうなので、その内に学ぶ機会を得てみたい。

また、この時に同宗派内で出されたであろう宗達などについても、現段階では見ていないため、どういう内容であったかを知ることは出来ないが、おそらくは同じ臨済宗として到来した黄檗宗(当時は黄檗派と呼ばれていたと思う)について、一定の危機感を持って対応したように思われる。

また、「堂持台座主」についても詳細不明。「台座主」が天台座主を指しているとすれば、天台宗山門派に係る内容であろうか。

それから、洞宗の禅院は曹洞宗の寺院のことを指し、蓮社の末徒とは浄土宗の信徒を指すのであろう。これらの者たちもやはり黄檗山の方法などを移籍させ、自分たちの宗派の軌範を忘れることがあったとしている。この辺は、少し後の時代の洞門学僧・面山瑞方禅師もほぼ同じことを仰っているので、問題視されていたのであろう。

日本は、舶来物をありがたがるという風潮があるが、江戸時代前期も同様の事態だったといえよう。それが、宗派内のみならず、宗派外の武士からも指摘されているところが、興味深い一節だと思った次第である。

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