つらつら日暮らし

三帰依と提婆達多の救済について

提婆達多は、釈尊のいとこであり、一時的には仏教教団の比丘となっていたが、後には僧伽を破り、自らの教団を打ち立てたとされる。これは、後に「破僧罪」という仏教でも最大の罪、いわゆる五逆罪の1つに数えられるようになった。そうなると、今度はその罪の解消がどのようになされるのかが検討される場合もあった。

 問うて曰わく、「若し大罪有れば、仏、救うこと能わず。若し罪無ければ、仏の救いを須いず。云何が三宝、能く救護すること有るや」。
 答えて曰わく、「提婆達多、三宝に帰依するも、心、真実ならず、三帰、満たず。常に利養名聞を求め、自ら一切智人と号す、仏と争競す。是の因縁を以て、三宝、大力有ると雖も、救うこと能わざるなり。阿闍世王の如きは、逆罪有りて、応に阿鼻獄に入るべきと雖も、誠心を以て仏に向かうが故に、阿鼻の罪を滅し、黒縄地獄に入る。人中の重罪の如きは、七日で都て尽きる。是れを三宝の救護力と謂うなり」。
 問うて曰わく、「若し提婆達多の罪、救うべからざれば、経、有りて云わく、「若し人、仏に帰すれば、三悪道に堕せず」と、是の義、云何」。
 答えて曰わく、「提婆達多、三宝に帰するを以ての故に、阿鼻に入ると雖も、受苦、軽微なり。亦た時に暫らくして息むことを得る。又た、如し人、山林曠野の恐怖の処に在りて、若しくは仏の功徳を念ずれば、恐怖、即ち滅す。是の故に三宝に帰依すれば、救護すること虚ならず」
    『大方便仏報恩経』「優波離品第八」


以上の通りなのだが、簡単に訳しながら上記文脈の意図するところを見ておきたい。まず、最初の問いである。もし、或る人に大罪があれば、仏も救うことは出来ないではないか、或いは、若し人に罪が無ければ、わざわざ仏の救いを用いることもない、そうであれば、どのようにして三宝が人を救うのだろうか、と問うたのである。

そこで、答えは、提婆達多のことを挙げて、三宝に帰依していたが、心は真実の帰依では無かったので、三宝帰依の条件を満たさなかった。実態としては、常に名聞利養を求め、「一切智人」などと自称して、仏と争っていたという。よって、三宝に偉大な救済力があったとしても、提婆達多を救えなかったとしている。一方で、親殺しをした阿闍世王の場合は、本来地獄に入るような罪であったが、真心を持って仏に帰依したので、少しそれが解消され、更には7日で全て尽きるともいう。これを「三宝の救護力」と呼称するという。

つまり、提婆達多は形ばかりの三宝帰依をしても、真心が伴わなかったので、救済されなかったといいたいのである。

しかし、その点を上記では更に問い、もし、提婆達多の罪を救うことが出来ないのであれば、経典の中に「もし、或る人が仏に帰依すれば、三悪道に堕ちない」といわれているが、その意義とは何か?と問うた。なお、この経典だが、具体的にはどこか分からない。類似した文脈なら、『悲華経』巻10「入定三昧門品第六」に見られるが、多分そこではないのだろう。まぁ、良く分からない。

それで、この問いへの答えは、提婆達多は、三宝帰依をしたからこそ、地獄に堕ちても受けた苦悩は軽微だったとし、また、暫くして止むことを得たという。これは、人が山林や曠野など、怖さが立つ場所にいたとしても、仏の功徳を思えば、その恐怖が滅するという。このように、三宝に帰依すれば人を救うというのは、虚偽ではない、としている。

つまりは、三宝帰依の功徳を説くのがこの経典の立場であるが、そもそも提婆達多の裏切りについてどう考えるかも、仏教教団中では厄介だったと思われ、その辺が「罪」という話になっているが、穿った見方をしてしまうと、そもそも仏教側で提婆達多を裏切り者としつつ、勝手に救いの原理を押し付けているようにも見え、何だか微妙な感じを得た。

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