菩薩摩訶薩正法中に出家し、三輪浄戒を持し、善く法相を知る。
『勝天王般若波羅蜜経』「念処品第四」
このように、「三輪浄戒」とは出ているのだが、前後の文脈からすれば、「三輪に浄戒を持し」の意味であると思われる。何故ならば、多くの場合は、そのように書かれているためである。
彼れ三輪に著いて戒を受持す、一には自想、二には他想、三には戒想なり。著するに由りて此の三輪、戒を受持するが故に世間、浄戒波羅蜜多と名づく。
『大般若経』巻75
なお、上記の場合の「三輪」は、「自想・他想・戒想」を指している。つまり、自他平等に物事を捉え、また、戒について思うべきだという。
云何が是れ三輪清浄の戒行なるや。謂わく若しくは菩薩の身業清浄、語業清浄、意業清浄なり。
『仏説除蓋障菩薩所問経』巻3
こちらは、三輪清浄の戒行としての「三輪浄戒」ではあるが、その場合の「三輪」とは、身口意の三業を指している。つまり、身口意の三業を清浄にするという意味での、三輪浄戒ということは「十善戒」に等しいかと思われる。
浄戒波羅蜜多なれば三輪清浄なり。
謂わく身輪清浄、猶お鏡像の体平等なるが如き故に。
語輪清浄、猶お谷響の体平等なるが如き故に。
意輪清浄、心を了じて幻の体平等なるが如き故に。
『守護国界主陀羅尼経』巻7
こちらの場合、浄戒波羅蜜多だからこそ、三輪清浄になるという。上記も「三輪」は身口意の三業を指している。ところで、「三輪」という場合、何故「輪」が使われているかといえば、この場合、「転輪王」の輪宝に喩えられているという。つまり、滞ることなくどこまでも運転し続けるものだという。
そのため、身口意の三業が融通無碍なる様子こそが、三輪とされ、同時にそれを清浄だとしていることになるだろう。他にも、「三輪」の意味だけを色々と見ていくと、様々あるのだが、それはそれで機会があれば採り上げてみたい。
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