上堂に云く。記得す。
僧、趙州に問う、「如何なるか是、祖師西来意」。
趙州云く、「庭前の柏樹子」。
僧云く、「和尚、境を以て人に示すこと莫れ」。
趙州云く、「吾れ、境を以て人に示さず」。
僧云く、「如何なるか是、祖師西来意」。
趙州云く、「庭前の柏樹子」。
師云く、南無趙州古仏、西来の宗旨を決定す。
『永平広録』巻6-464上堂
上記は、道元禅師晩年の上堂である。道元禅師は若い頃から、趙州禅師を古仏として讃え、その教えに従って、『正法眼蔵』数巻を示すに至っている。その中には、先の上堂と同じ主題である「栢樹子」巻も含まれており、よって、趙州禅師の公案「庭前の栢樹子」については、同巻を参照いただければ良いと思う。
さて、問題は今回の上堂である。
道元禅師は門弟に対して「庭前の栢樹子」を示された後で、「南無趙州古仏、西来の宗旨を決定す」と仰った。この「南無」の意義について考察したい。道元禅師が、趙州禅師に対して「南無」と唱えたのは、「西来の宗旨を決定す」という事実があったためである。何故、「西来の宗旨を決定」出来たのかといえば、「栢樹子」とは、「境(対象)」の問題ではなくて、どこまでも、学人本人の自己の問題を問うているためである。
そして、仏道とは本人の問題として受け止めることから始まっているわけだが、その事実を明示したことが一番の勝躅である。そして、それは西来の宗旨、インド以来の仏道の肝心要のところを開示したと評価しているのである。
ということは、趙州禅師の金言は、まさしくブッダの言葉そのものであり、だからこそ「南無」と敬礼するに至るのである。
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