つらつら日暮らし

日蓮聖人と持戒の話

まぁ、色々な意見があるとは思うのだが、とりあえず、以下の一文をご覧いただきたい。

 問て云く、末代初信の行者、何物をか制止するや。
 答て曰く、檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜之気分と為す也。是れ則ち此の経の本意也。
 疑て云く、此の義未だ見聞せず。心を驚かし、耳を迷はす。明らかに証文を引いて、請ふ、苦に之を示せ。
 答て曰く、経に云く「我が為に復塔寺を起て及び僧坊を作り、四事を以て衆僧を供養することを須いず」。此の経文明らかに初信の行者に檀戒等の五度を制止する文也。
 疑て云く、汝が引く所の経文は、但寺塔と衆僧と計りを制止して未だ諸の戒等に及ばざるか。
 答て曰く、初めを挙げて後を略す。
 問て曰く、何を以て之を知らん。
 答て曰く、次下の第四品の経文に云く「況んや復人あって能く是の経を持ち、兼ねて布施・持戒等を行ぜんをや」云云。経文分明に初二三品の人には檀戒等の五度を制止し、第四品に至りて始めて之を許す。後に許すを以て知んぬ、初めに制することを。
    『四信五品抄』(建治3年[1277])


これは、同抄に「其中の分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要、在世滅後の亀鏡なり」とあって、『妙法蓮華経』「分別功徳品第十七」に見られる「四信」と「五品」から話を展開している内容である。それで、上記一文については、「五品」についての指摘であることが分かる。なお、「五品」とは、以下の通り分類される。

第一品:随喜
第二品:読誦
第三品:説法
第四品:兼行六度
第五品:正行六度


それで、ここから「持戒」について見ていくと、日蓮聖人は「第四品」に、「兼行六度」の根拠とされる上記の偈を引くが、長経では「況んや復人あって能く是の経を持ち、兼ねて布施・持戒・忍辱・精進・一心・智慧を行ぜんをや。其の徳最勝にして無量無辺ならん」であるという。よって、『法華経』を保ちつつ他の行を兼ねれば、その徳は最勝であることになる。問題は、それ以前の「三品」に於いて、この諸行が制せられているかどうかである。そもそも、「分別功徳品」に、「四信」「五品」を見出すのは天台智顗の『法華文句』であるが、個人的にはこの「兼行」と「正行」の違いが分からない。

荊溪の云く、一念信解とは即ち是れ本門立行の首なりと云云。其中に現在の四信の初の一念信解と滅後の五品の第一の初随喜と、此の二処は一同に百界千如一念三千の宝篋、十方三世の諸仏の出門なり。
    『四信五品抄』


なお、荊溪湛然の説を引きながら、「一念信解」の価値を最上としつつ、そこに、四信・五品を配当していることが分かる。そうなると、経典の題号への一念信解に於いて、余行は全て包摂されることになる。

 問て曰く 経文一応相似たり。将た又疏釈有りや。
 答て曰く 汝が尋ぬる所の釈とは月氏四依の論か。将た又漢土・日本の人師の書か。本を捨てて末を尋ね、体を離れて影を求め、源を忘れて流れを貴ぶ。分明なる経文を閣いて論釈を請ひ尋ぬ。本経に相違する末釈有らば本経を捨てて末釈に付くべきか。然りと雖も好みに随て之を示さん。文句の九に云く、初心は縁に紛動せられて正業を修するを妨げんことを畏る。直ちに専ら此の経を持つ、即ち上供養なり。事を廃して理を存するは所益弘多なりと。
 此の釈に縁と云ふは五度也。初心の者が兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐる也。譬へば小船に財を積んで海を渡るに財と倶に没するが如し。直専持此経とは一経に亘るに非ず。専ら題目を持して余文を雑へず。尚お一経の読誦をも許さず。何に況んや五度をや。廃事存理と云ふは、戒等の事を捨てて題目の理を専らにす云云。所益弘多とは初心者が諸行と題目と竝べ行ずれば所益全く失ふと云云。
 文句に云く、
 問ふ、若し爾らば経を持つは即ち是れ第一義の戒なり。何が故ぞ復能く戒を持つ者と言ふや。
 答ふ、此れは初品に明かす。後を以て難を作すべからず等云云。
 当世の学者、此の釈を見ずして、末代の愚人を以て南岳・天台の二聖に同ず。誤りの中の誤り也。
 妙楽重ねて之を明かして云く、問ふ、若爾とは、若し事の塔及び色心の骨を須ひざれば、亦事の戒を持つことを須ひざるべし。乃至、事の僧を供養することを須ひざるや等云云。
 伝教大師云く 二百五十戒忽ちに捨て畢んぬ。唯教大師一人に限るに非ず。鑒真の弟子如宝・道忠竝びに七大寺等一同に捨て了んぬ。又伝教大師未来を誡めて云く、末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ずべき云云。
    『四信五品抄』


結局、文脈の始終を引用しないと分からない内容であったので、敢えてそうしてみたのだが、まず、最初の3行ほどは、日蓮聖人に於ける註釈書観であり、これはこれで貴重な御示しである。ただ、「好みに随て」とあるので、何か正統な見解をここで示したわけではない。その上で、「直専持此経」という智顗『法華文句』巻10上の見解を元に、戒などを捨てて題目の理を専らにすべきことを導いている。

そこでさらに、同じく『法華文句』巻10上から「第一義戒」を「持経」に求める見解への問答を引いて、智顗の見解を高く評価した。さらに、妙楽(湛然)の見解については、ともかくとして、伝教大師の捨戒については、日蓮聖人の頃、この伝承が一般的だったことを示すのだろう。それよりも、伝教大師に仮託された『末法灯明記』を引きつつ、末法に於ける持戒の無意味さを示したことが、ここでは肝心だということだろうか。

要するに、この『四信五品抄』に於いて、特に「持戒」と「題目(持経)」の関係を探ると、前者の無意味さを結論付け、更に後者の正しさを明らかにしつつ、後者に前者を包摂したというのが、本抄の内容であった。

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