つらつら日暮らし

釈尊の弟子の話③(拝啓 平田篤胤先生39)

前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、釈尊の親族で、その弟子になった者達について言及していたので、確認しておきたい。特に、篤胤は「難陀尊者」に関心を持っているようなので、見ておきたい。

さて此時釈迦がその親族どもを弟子に致したる神変、又無理やくたひに出家させたる者多き中に、いとも憐むべきは釈迦が迦毘羅衛国の尼拘類と云にいて城内に入り乞食おしてあるいた所が、其弟の難陀と云が有り、此は彼摩訶波闍婆提が生んだ子でござる。年もいつかう若くして高ひ処から見ると釈迦が乞食するを見下て来て云には、仏は刹帝利の王胤として有ながら自ら鉢を持ち乞食をすることやあると恥しめて、其鉢へ飲食をいれてやつたでござる。釈迦は還てもはやかれを比丘来にしてやらんと云心が起りて、弟子共にいふはかれが居所へ乞食に行て、若かれがこの方の鉢を受取り物を入れて出したならば、夫をとらずに還り来れ、必この処へ来るべし、我はからふこと有と云てやつたる処に、はたして其計の如く難陀が鉢を受取て物おくれたなれども、行た奴がそれをうけとらんから、難陀がついて来る時に、難陀の婦に孫陀利といふが有たが其出る時云には、速に帰るべしと云ことをかへすがへすいつたと。是は釈迦の許へ行た者に坊主にされぬと云事はなひから、吾夫もそんな目に逢てはならんと云心で有たと云ことでござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』73頁


何だろう?これだと、釈尊は難陀尊者を無理矢理にでも出家させたかのような印象を持たせる文章になっている。なお、釈尊と難陀尊者は異母兄弟ということになっている。釈尊の母はマーヤ―であるが、難陀尊者はマハーパジャーパティーである。それで、このように釈尊が難陀尊者を比丘としたいという願望が本当にあったかどうかなのだが、それを見ておきたい。

・・・ただ、ここで篤胤が直接引いた文章までは見付け切れていないのだが、関連していると思われるのが『仏本行集経』巻56「難陀出家因縁品第五十七上」であると思われる。

しかし、それでは難陀の布施物を受け取らなかった理由は、食事の時間が過ぎていたためであり、上記のような「はかりごと」があった様子は分からない。ただし、妻の孫陀利が難陀の出家を嫌がって、色々と文句を言った話は伝わっている。

う~む、とはいえこれは、篤胤の悪意ある編集のような印象も残ってしまう。この辺は、続く記事で再度、難陀尊者の件を見ていく途中で更に探ってみたい。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

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