つらつら日暮らし

釈尊と摩訶迦葉尊者について①(拝啓 平田篤胤先生31)

江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』では、『過去現在因果経』などの典拠を踏まえてではあるが、釈尊伝を篤胤目線で講釈しているのだが、その中に弟子達との関わりがある。既に【「善来比丘」に関する篤胤の雑感(拝啓 平田篤胤先生26)】でも採り上げたことだが、今回は特に実質的な釈尊の後継者となった摩訶迦葉尊者について、釈尊との関係を篤胤がどう見ていたかを確認したい。

扨かくの如く大山ごとを工夫して、とうとう釈迦は一大家となつて国々をあるく所が、彼婆羅門の輩も多くしめられて弟子と成たるが多き中に、摩揭陀国の王舎城と云所に摩訶迦葉と云婆羅門が有、是は其父なる者は甚だの大富長者で天竺の内に十六大国と名におふ国が十六有て、其国々に肩を并る者はなかつたといふ事でござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』62頁


以上は、ごく簡単な迦葉尊者の紹介であるけれども、特に父親のことを、「大富長者」とし、「十六大国」のことを言及するため、典拠はおそらく『仏祖統記』巻5「西土二十四祖紀第二」であろうと思われる。それで、迦葉尊者が釈尊に帰投した経緯について、篤胤は釋尊自身の、或る種の「野望」に言及する。

尤婆羅門の家柄でかの古より有来たる生天治心の学問を致して、迦葉は弟子の五百人余りも在たでござる。こゝに釈迦が思ふには、かの兄弟二人の者は仙道を学び、国王臣民悉く信ずる物で、又聡明なるもの故かれを吾下につけたらんには、広く人を済度するの力になるべきものぞと思て、かの摩揭陀国に行て日ぐれに迦葉の住所に行たでござる。
    前掲同著、同頁


この一節だが、ここは『過去現在因果経』巻4からの引用である。ただし、原典は用語が難解なので、ここでは篤胤流に改められている。しかし、釈尊の考え自体には間違いが無い。確かに、釈尊は「爾時に世尊、即便ち思惟す、「我今、応に何等の衆生を度し、而して能く一切の人天を広利すべきや。唯、有優樓頻螺迦葉の兄弟三人有りて、摩竭提国に在りて、仙道を学び、国王臣民、皆、悉く帰信し、又た其れ聡明にして、利根にして悟り易し、然るに其の我慢、亦た摧伏し難し、我れ今、当に往きて而も之を度脱すべし」と述べたという。

この後、釈尊は迦葉尊者の家に留まって、7日間様々な説法をしたというが、それは、直接迦葉尊者に対して行ったのではなくて、迦葉尊者の家にいる釈尊を目指してやってくる信者のために説いていた様子を、迦葉尊者が聞いていたようである。しかし、7日間が過ぎて釈尊がいなくなると、迦葉尊者は少し寂しさを覚えたらしいのだが、その寂しさを感じ取って、また釈尊が迦葉尊者の前に現れた、という話になっている。

ただし、拙僧的に1つ分からないのが、迦葉尊者が釈尊に帰伏しようと決めたきっかけが、釈尊の神通力の凄さに思い知ったから、だと篤胤がいうのだが、『過去現在因果経』でもその辺は分かるだろうか。

 心に自ら念うて言わく、「年少沙門、乃ち是の如き自在神力有り、然るに故に、我れ真阿羅漢を得るに如かざるなり」。
 仏、即ち語りて言わく、「迦葉よ、汝、阿羅漢に非ず、亦復た是れ阿羅漢向に非ず。汝、今、何故に大我慢を起こすや」。
 迦葉、聞?此の如き語の説くを聞く時、心に愧懼を懐き、身毛皆な竪ちて、而も自ら念うて言わく、「年少沙門、善く我が心をしる」と、即ち仏に白して言わく、「是の沙門の如きは、是れ大仙の如し。善く我が心を知る、唯だ願くは大仙よ、我を摂受するのみ」。
    『過去現在因果経』巻4


以上の通りなのだが、結局、釈尊の様子を見て、迦葉尊者は自らの心の様子に恥じ入り、そして、釈尊に弟子入りすることを決めるのである。それまでは、釈尊のことを「年少沙門」と呼んで、自分が年上であることを誇示していたようだが、それを含めて、自らの「大我慢」の心を読み取られ、結果として、それを折伏するための出家を願うという話になっていくのである。

なお、篤胤も指摘しているが、原典ではこの後、容易には出家を許されず、他の弟子達とも相談してから、改めて来るべきだと諭されたが、それまで迦葉尊者に仕えていた弟子達は、既に釈尊に心から帰伏しており、誰一人反対するどころか、むしろ、一刻も早い帰投を促される始末であった。

しかし、その一連の遣り取りの後、以下のように出家を許された。

 時に迦葉、諸もろの弟子の、是の言を作すを聞き已りて、即便ち相い衆と仏の所に詣でて、而も仏に白して言わく、「我、及び弟子、今、定めて帰依す。唯だ願くは大仙、時に我等を摂するのみ」。
 仏言わく、「善来、比丘よ」と、鬚髪自ら落ち、袈裟、身に著き、即ち沙門と成る。
 爾の時、世尊、即ち応ずる所に随って、広く四諦を説く。
 時に迦葉、説法を聞き已りて、塵を遠ざけ垢を離れ、法眼の浄らかなるを得て、乃至、漸漸に阿羅漢に成る。
    『過去現在因果経』巻4


以上の通りなのだが、「漸漸」とある通りで、徐々に阿羅漢になったという。この辺は、むしろ実際の様子を示しているように思う。そこで、この後、迦葉尊者は実質的に仏教教団の後継者となっていくことは、良く知られていると思う。その象徴的な出来事として、釈尊の荼毘と、仏典結集は、迦葉尊者を中心に行われたからである。その経緯についても、篤胤は説明しているのだが、それは次回の記事で採り上げてみたい。

それにしても、篤胤のまとめ方よりも、『過去現在因果経』の方が分かりやすいのは、何故だろうか?もし、次回の記事までに分かれば、その辺の所見も申し上げたい。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

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