つらつら日暮らし

流布本『普勧坐禅儀』参究6(令和5年度臘八摂心6)

臘八摂心6日目。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。

 所謂、
坐禅は習禅に非ず。
唯、是、安楽の法門なり。
究尽菩提の修証なり。
公按現成し、羅篭未だ到らず。
若し此の意を得ば、竜の水を得るが如し、虎の山に靠するに似たり。
 当に知るべし、
正法自ら現前し、昏散先より撲落す。


ここでは、坐禅と悟り、いわゆる修証観について論じられている。まず、「坐禅は習禅に非ず」の文脈であるが、これは特に、流布本系統の前後でいわれることであり、「坐禅儀」巻では、「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」ともいわれる。いわば、習禅とは、安楽の法門ではないし、不染汚の修証でもないと定義できる。また、ここについては更に、「行持(下)」巻に於ける達磨尊者への提唱を見ていく必要がある。

・しばらく嵩山に掛錫すること九年なり。人、これを壁観婆羅門といふ。史者、これを習禅の列に編集すれども、しかにはあらず。仏仏嫡嫡相伝する正法眼蔵、ひとり祖師のみなり。
・嵩山に経行して、少林に倚杖す。面壁燕坐すといへども、習禅にはあらざるなり。一巻の経書を将来せされども、正法伝来の正主なり。しかあるを、史者あきらめず、習禅の篇につらぬるは、至愚なり、かなしむべし。
    ともに「行持(下)」巻


つまり、中国の史書編集者(特に達磨を「習禅」篇に扱った『続高僧伝』への批判を見ていくべきである)に対して、強く批判していることが分かる。その内容は、確かに、達磨はインドから中国にやって来て、嵩山少林寺で9年間の坐禅(面壁九年)をしていたという。ところが、その様子から、この坐禅は仏道・神通を明らかにするための坐禅であると判断され、それで「習禅」篇に混入された。だが、道元禅師は、「仏仏嫡嫡相伝する正法眼蔵、ひとり祖師のみなり」「一巻の経書を将来せされども、正法伝来の正主なり」という言葉で達磨を讃歎されるように、今更に仏道や神通を証す目的で坐禅していたのではなくて、仏仏が嫡嫡相伝してきた正法眼蔵を中国に伝えた、まさに正法伝来の正主であるという。よって、ここで「習禅」と判断された達磨の坐禅とは、実質的には、仏道を得ている人が、その境涯そのままに坐禅する「安楽の法門」であり、「証上の修」として行われているので、「不染汚の修証」、つまりは無分別の坐禅である。だからこそ、9年という、尋常では考えにくいほどの時間坐禅していたといえる。

坐禅は時間の長さを競うものではない。それは、その量が、坐禅の価値を決めないためである。坐禅の価値は、既に坐る段階で、「証上の修」と決められていなくてはならない。もし、量を競えば、その段階で「染汚」してしまうし、それは宗乗の坐禅ではない。自ずと、法の云為として坐禅するのである。

そしてそのことを、「究尽菩提の修証」とはいう。これを、「菩提を究尽するの修証なり」と読むこともあるが、そう読んでしまうと、「修証」が、「菩提を究尽することを目的」にすることとなる。そうではない。既に、「究尽されている菩提」が「修証」していくのである。その解釈で始めて、「証上の修」である。従来の読解法では、それが成り立つことはあり得ないので、注意が必要である。実はここを、当連載で依拠している瞎道本光禅師『永平広録点茶湯』では、まさしく、「仏祖の兀坐は、唯是安楽之法門也、究尽菩提之修証也」と、原文ままで敢えて提示されている。その上での註釈として、「唯是究尽は兀兀の熟脱のみなり」としている。つまり、「唯是」「究尽」に兀兀坐の不染汚の意味、証上の修の意味を持たせていることになる。

続く内容は、それほど難解ではない。まず、「公按現成し」については、「公按」とは仏祖の伝灯そのものに従う生き方をすることであるから、坐禅が仏祖の伝灯そのものを現すことを意味し、まさに瞎道師が「而今は坐禅を公案といふ」(前掲同著)と註釈される通りである。また、「羅篭未だ到らず」については、既に仏祖の伝灯として「公案」が現成している上には、様々な煩悩・分別を意味する「羅篭」は「未到」である。未到が肝心で、この一節は「公案現成・羅篭未到」という両者に於いて、かの「諸悪莫作」巻の「諸悪莫作・衆善奉行」に準えて解釈されるべきである。「諸悪莫作・衆善奉行」とは、「諸悪を作すこと莫れ、衆善は奉行すべし」と通常は読むところだが、この場合、「諸悪は莫作、衆善は奉行」という、この世界に於ける「存在様相の違い」を示すもので、諸悪・衆善という「仏法(七仏通誡)」の分別的否定・肯定をしているわけではない。よって、公案現成は、つまりは羅篭未到なのである。

そして、「若し此の意を得ば、竜の水を得るが如し、虎の山に靠するに似たり」と続く。これは、分別対比に基づく考えを肯定している「此の意」ではない。不染汚として得る時の「此の意」であるその時、「竜の水を得るが如し、虎の山に靠するに似たり」ことを指すが、これは、本来いるべき場所に、その者がいることを意味し、いわゆる「証上の修」「本証妙修」の言い換えといえる。ただし、今回の記事では、ここが一番難しい。よって、瞎道師の見解に依拠すれば、この「如・似」に着目して解釈している。

・如竜・似虎は譬如にあらず、竜虎の如如なり。
・竜・虎は万物をいふなり、如・似は頭頭物物の頭正尾正をいふ。
    瞎道師『点茶湯』


つまり、「~の如し」「~に似たり」とは、「如如」なのだという。この「如如」とは、「頭正尾正」のことであって、要するに、仏道に於いて端正であることをいう。この「如如」とは、「真如」のことである。まさに、「如来如去」である。この「如如」とは、例えば、「日月なきところにも昼夜あるべし、日月は昼夜のためにあらず、日月ともに如如なるがゆえに、一月両月にあらず、千月万月にあらず」(道元禅師『正法眼蔵』「都機」巻)であり、「日月」の無限定を意味する。よって、「竜虎の如如」とは、万物の頭正尾正であって、その内容が無限定であり、これを「非思量」と言い換えられる。

そして、「当に知るべし、正法自ら現前し、昏散先より撲落す」となる。非思量としての如如であるとき、それは「正法の自ずからなる現前」であり、ここもまた同時的に、「昏散先より撲落」となる。「正法現前」が「昏散撲落」なのだが、ここで主体は「正法」の側になっており、学人・坐禅人からそれを得ていくのではない。自ずからそうされるのである。道元禅師が『普勧坐禅儀』で「現前」を扱うのは「本来の面目」と「正法」である。これらはともに、坐禅人の坐禅に依拠してそれが発生する。だが、「本来の面目」にせよ「正法」にせよ、その現/不現という染汚を論じるのではない。よって、「自ずから」なのである。この「自ずから」とは、法そのものによって行われる時、これは「法の云為」を意味している。或いは、全機現なのである。

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