つらつら日暮らし

修行者は蜂のように……

毎年2月の前半は、釈尊涅槃会を控えつつ『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』を学ぶように心掛けているのだが、今回は道元禅師による引用例を学んでみたい。

 昔日、僧有りて法眼禅師に問うて曰く、「如何なるか是れ古仏」。
 法眼曰く、「即今、也た嫌疑無し」。
 僧、又た問う、「十二時中、如何が行履せん」。
 法眼曰く、「歩歩踏著す」。
 他に亦た道有り、「夫れ出家人、但だ時及び節に随う。便ち寒ならば即ち寒、熱ならば即ち熱を得。仏性の義を知らんと欲すれば、当に時節因縁を観ずべし。但だ分を守りて時に随いて過ぐる、好し」。
 備さに他の意を観ず。如何なるか是れ時及び節に随い、如何なるか是れ分を守るや。
 知るべし、色上に於いて非色の解を作す莫れ、亦た色解を作さざれ、亦た両頭に走らざれ。如今、嫌疑を忘れ、他と与に古仏と同住同行す。然りと雖も、争か猶お鏡に面いて相対す。所以に釈迦老師道く、「沙門、聚落に入らば、猶お蜂の華を採るが如く、但だ其の味を取り去りて、色と香とを壊せざれ」。
 衲子賢士、何ぞ這の訓に順ぜざるや。十二時中、諸もろの万像に対す、但だ其の味を取りて、色香を壊すこと莫れ。如何なるか是れ色香を壊せざる底の道理。
 你に向かいて道わん、他の万縁の印を稟けて、他の万法に証せらる、須く悉く是れ色香を壊せざるの時節なるべし。
    『永平広録』巻8-法語12


この一文は、道元禅師の弟子であったという了然尼という僧侶に対して書かれた法語とされる。静岡県袋井市の可睡斎には、この法語と同じ内容で、道元禅師の真筆と伝わる文書が残されている。

また、可睡斎の同法語には「辛卯孟秋住安養院道元示」とあり、寛喜3年(1231)陰暦7月の頃には「安養院」という寺院にいたとされている。そして、この法語の約1ヶ月後に、『弁道話』を著されたが、その関連性は不明というべきである。何故ならば、『弁道話』側の写本などに、説示場所は書かれていないためである(草案本系統とされる岩手県正法寺蔵の『弁道話』には興聖寺だと書かれているが、時間が合わない)。

ところで、この法語について『遺教経』からの引用は、「所以に釈迦老師道く、「沙門、聚落に入らば、猶お蜂の華を採るが如く、但だ其の味を取り去りて、色と香とを壊せざれ」」が該当する・・・と思っていたが、あれ?

実は、『遺教経』は「如蜂採花、但取其味不損色香」とあり、「沙門、聚落に入らば」の部分が無い。よって、この部分も含めると『毘尼母経』の「入聚落時、如蜂採華、不損色香而取其味」の方が相応しい気もするが、それでも道元禅師が重視した「色香」とは異なってしまうため、両方を合揉したという見方も出来るかと思う。

ところで、道元禅師が「色香」を論じたのは、ほぼこの1箇所のみだと見て良い。つまりは、余計な表面的事象(色香)を無視して、「古仏と同住同行」すること(味)が主要な課題である。表面的事象は無視するが、壊さない。つまりは、凡夫たるこの人身を元にしつつ、本質としての仏性などを信じることを意味する。そして、意義としては「他の万縁の印を稟けて、他の万法に証せらる」となることだが、「印」とは仏性からの刻印であり、それによりあらゆる事象から悟らされるのである(この部分だけを見れば、「現状公案」巻に類似している)。

この法語が、尼僧である了然道者へ授けられたものだとすると、色香とは女性たる了然道者自身を指しているのかもしれないが、そうであっても仏性によって仏法を証悟出来るという確信を告げた教えだとも見られるのである。

『遺教経』を学ぶことからだいぶ横にずれてしまったが、それはそれで学びに違いは無い。

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