つらつら日暮らし

「正月十五日」の説法について

道元禅師の語録を見ていくと、「正月十五日の上堂」というのがある。今日の日付に因むので、採り上げてみる次第である。早速本文を見てみよう。

 正月十五日の上堂に、云く。
 宋朝近代、今日の上堂を呼んで、元霄の上堂と為す。蓋し是れ世俗の法、実に仏祖の道に非ず。謂く、上元・中元・下元、世典の言なり。
 唐の鄭処誨『明皇雑録』に曰く、「上、東都に在り、正月望夜に上陽宮に移仗す。蝋炬を設けて連属して絶えず、繒綵を結んで燈楼と為して三十間、高さ百五十尺、垂るるに珠玉を以てす。微風一たび至れば鏘然として韻を成す。其の燈、龍鳳虎豹騰躍の状を為す」。
 『史記』に曰く、「漢家、太一を正月望日に祀る、燃燈を以てす」。
 彼此推究するに、皆、是、世間の言なること、明らかにして明らけし。大宋の諸僧、儒・道・釈の一致なることを曰う、非の非なり。八万四千の薬を設くと雖も、俗塵は則ち所治なり、法薬は乃ち能治なり。八万四千の法門を聴かんと要すや。
 旧く云く、「牟尼の説法蘊、数、八十千有り。須らく知るべし、三世如来、必ず八万四千の法門を啓くを」。
 有るが云く、「八万四千の法門、一心を出でず」。
 有るが云く、「八万四千の法門、苦集滅道の四諦を出でず」。
 有るが云く、「八万四千の法門、方寸を出でず」。
 有るが云く、「仏、衆生の為にする始終の説法を以て一蔵と為して、是の如くして八万四千に至る」。
 有るが云く、「一坐の説法を以て一蔵と為して、乃ち八万四千に至る」。
 有るが云く、「仏、自ら六万六千の偈を説いて一蔵と為して、乃ち八万四千に至る」。
 有るが云く、「塵労八万四千有り。所以に法薬を説くこと、亦、八万四千なり」。
 有るが云く、「半月説戒を以て一蔵と為して、乃ち八万四千に至る」。
 有るが云く、「八万四千の法門、是、二蘊に摂す。若し、声を体と為すれば、乃ち色蘊に摂す、若し名を体と為すれば、乃ち行蘊に摂す」。
 有るが云く、「仏、初発心より分舎利に至るまで、乃ち八万四千の法門有り」。
 向来、一十家の説、是、恁麼なりと雖も、永平、未だ十家の窟裏を脱れず、亦、道処有り。謂ゆる、八万四千の法門、遮箇の法に脱落尽す。甚と為てか恁麼なる、大衆、還た委悉せんと要すや。
 鹿野苑の眼、眨眨地、剔撥騰騰たり。
 鷹峰山の口、吧吧地、収拾聒聒たり。
 把定の処、直に是、絶毫絶釐。
 放行の時、豈に破塵破的を妨げんや。
 永平今日、便りを借りて開門す、普く人天八部・雲衲霞袂の為に拈出す。払子を竪て云く、看よ看よ。権実半満、頓漸偏円、大喩三千、小喩八百、無辺の義海、無尽の法門、総て永平の払子の頭上に在り。信手拈来して、機に当たって便ち用いる。自己の眼目に昧からず、天下の舌頭を疑わず。如是我聞、一時仏住、得大自在、信受奉行。文文見諦し、句句超宗す。法として円ならずということ無し、機として被ぶらしめざる無し。
 正当恁麼の時、如何。
 良久して云く、拳頭亙天飛霹靂、老婆為汝血滴滴。
    『永平広録』巻5-412上堂


何故、正月十五日に説法を行うかといえば、無論、月分行持になる五参上堂の1つだといえばそれまでだが、他に「元霄(元宵が正しいらしい)の上堂」という習慣があったという。これは別に、「上元の上堂」ともいわれる。この日の夜は、家ごとに綵(綾布のこと)を結んで、飾った灯籠を掛け、全国一斉に仕事を休んで宴の席を設けるという。元霄という場合には、一月十五日を指し、「上元」という場合には「中元:七月十五日」「下元:十月十五日」を入れる。

なお、道元禅師はこの習慣を世俗のものとし、仏祖の道では無いと批判的に取り扱う。若い頃の説法録である『正法眼蔵随聞記』を見て分かる通り、世俗の習慣と仏祖の道とを鋭く分けようとしていた道元禅師は、比較的晩年に近付いても、同じ状況であったことが分かる。ただ、この一件については、もう少し学びを深めてみたい。

確かに、唐の玄宗の事跡を雑録した『明皇雑録』(全二巻・補遺一巻)や司馬遷『史記』を引いて、一月十五日に世俗の習慣があることを示しておられるが、これが仏教側に取り入れられたのは、別の理由もあるようで、『仏祖統記』には以下のような記事がある。

仏教初来し、道士と角試す。経を焼くも放光して、巻帙損ずること無し。時に正月十五日に当たって、明帝、乃ち此の日の毎に、灯を焼いて以て仏法の大明なることを表す。是れ自り歴朝、上元に当たる毎に必ず放灯す。
    巻33・「放灯」


要するに、インドから中国に仏教が伝来した際に、道教とどちらが優れているか競わせたという故事があり、その際には各々の経典を焼き、残った方が優れていると判断されたという。道教の経典は焼けたが、仏典は色が変わった程度で残ったという。これが、後には「黄巻朱軸」として知られるようになった。また、この故事を受けて、仏教伝来時の後漢の明帝は、正月十五日に、灯を点けて、これで仏法が世間に於ける明かりの如く優れていると示したと良い、漢代以降もその風習は続いた。よって、元霄の故事とは、なるほどインド由来の風習では無くて、中国由来ではあるが、世俗的か?仏教的か?という区分けはそれほど容易ではない。

多分に、道元禅師は中国禅林が、世俗法の混在を許すことを批判したかったのだと思われ、だからこそ、三教一致説も合わせて批判している。実際、「元霄の上堂」については、宋代当時の禅語録に探すことは容易で、道元禅師の本師である天童如浄禅師も行ったことも知られる。なお、その際に上堂語は「灯」に関連する内容である場合が多く、世俗に於いてはただの提灯祭かもしれないが、同時にそれが、燃燈仏以来の授記を示す事象として扱われていることが分かる。

さて、道元禅師の上堂語は、その批判の後で、釈尊の説かれた八万四千の法門について開示されているが、それは今日という日付に限定されないので、また別の機会に取り上げてみたい。

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