一 法主
釈道猷は生公の弟子なり。孝武即位に至りて、勅して新安寺に住せしめて、鎮寺の法主と為す。又、法瑗を勅して、湘官寺の法主と為す。
『緇門正儀』2丁裏、訓読は原典を参照しつつ当方
現在、「法主」というと、現在の日本仏教の一部宗派では「宗派の代表」という印象を持つ単語ではあるが、上記内容からすると、寺院の代表くらいの意味合いであったことが分かる。それで、上記一節の典拠だが、これまで同様に『大宋僧史略』巻中「立僧正」項であった。ところで、気になるのは、釈道猷が「生公の弟子」だというが、これは竺道生(360~434)のことらしい。
ところで、『緇門正儀』は明治13年の成立であるが、明治16年に成立した大内青巒居士『釈門事物紀原』でも「法主」の項目がある。
〇法主 第五十二
宋の孝武皇帝孝建元年〈我が紀元一千十四年〉、僧道猷に勅して新安寺の法主となす〈釈氏要覧〉、之を漢土に此職あるの始となすへし、我国には未た法主と置くの制度ありしを聞かず、然れども現に真宗等どの称を慣用す、故に漢土の濫觴を挙て其典拠にそなふ、
『釈門事物紀原』巻下4丁表~裏、変体かなや漢字は現在通用のものに改める
青巒居士の場合は『釈氏要覧』を引用している。確かに巻上に「法主」という項目があるのだが、それを見てみると、とても興味深い。
法主
阿含経に云わく、仏を説法主と為す。今古、皆な説法・知法の僧を以て法主と為す。僧叡の如し。謂わく、僧を導いて曰わく、若しくは当に万人の法主と為るべし。宋の孝武、道猷に勅して、新安寺の鎮寺法主となす。
以上の通りなのだが、「法主」とは、仏のことだというが、更に、説法・知法の僧をも「法主」という。そこで、道猷がまさにそのような僧侶だったということなのだろう。
それから、『釈氏要覧』で引用している『阿含経』の教えはどうなっているのだろうか。すると、『阿含経』の各処に於いて、比丘達が世尊を讃える言葉として、以下のように示している。
時に、諸もろの比丘、世尊に白して曰わく、「世尊を法本と為す、世尊を法主と為す、法、世尊に由る、唯だ願くは之を説け、我等、聞き已りて、広知の義を得ん」。
『中阿含経』巻1、他
『釈氏要覧』が引いたのは、この一節などであろう。確かに、世尊を法主とし、更には法が世尊に由ることから、比丘達は世尊が法を説くことを願ってもいる。よって、まずは世尊への讃歎の言葉でもあり、また、僧侶についても中国での任命の事例があることから、「法主」の位置付けについては理解出来たと思う。
そして、青巒居士がいうように、日本での典拠は良く分からないが、明治時代の段階で、既に一部宗派で使われている、ということになるのだろう。
【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年
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