つらつら日暮らし

十月二日 『正法眼蔵』「無情説法」巻参究(令和5年度版)

道元禅師に、次のような教えがある。

 曩祖道、我説法汝尚不聞、何況無情説法也。これは、高祖、たちまちに証上になほ証契を証しもてゆく現成を、曩祖、ちなみに開襟して、父祖の骨髄を印証するなり。
 なんぢなほ我説に不聞なり。これ凡流の然にあらず、無情説法たとひ万端なりとも、為慮あるべからず、と証明するなり。このときの嗣続、まことに秘要なり。凡聖の境界、たやすくおよびうかがふべきにあらず。
    『正法眼蔵』「無情説法」巻


この「曩祖」というのは、中国曹洞宗の先駆的立場としてある雲巖曇晟禅師のことである。その雲巖禅師が、洞山良价禅師と「無情説法」について問答をした際の言葉について、道元禅師が提唱されたのが上記一節である。

それで、この一節とは無情説法そのものよりも、それをどのようにして「得聞」するかが問われている。そもそも無情説法とは、無情物による説法である。我々の常識に照らして考えれば、無情物とは命無き存在であるから、説法などするはずが無いと言える。しかし、それによる説法が問われている。そうなると、我々自身の常識的・感覚的問題ではなくて、「道理」が問われていると理解しなくてはならない。

この場合も、道元禅師は「なんぢなほ我説に不聞なり。これ凡流の然にあらず」とし、今拙僧が申し上げた問題をそのままに提示されていることが分かる。しかも、「無情説法たとひ万端なりとも、為慮あるべからず、と証明す」とあるのだから、無情説法は常に万端に説法されている。だが、「為慮」が有るはずが無いと証明したというのが、雲巖禅師の言葉であったことになる。

雲巖禅師が証明された洞山禅師の言葉とは、「高祖曰、若恁麼即某甲不聞和尚説法也」というものである。「若し恁麼ならば即ち、某甲和尚の説法を聞かざるなり」ということなのだが、この「不聞」が最大の問題なのである。これはつまり、常なる無情の説法であるからには、それを「聞く/聞かない」という分別は既に働いていない。ということは、転じて常に聞いているということも出来る。それを洞山禅師が敢えて「不聞」と表現されたことについて、「証上になほ証契を証しもてゆく現成」と、道元禅師は示している。

或いは、洞山禅師が既に大悟された上での問答であることを評したものともいえよう。

そして、このような洞山禅師の言葉について、やはり雲巖禅師も「不聞」を評価し、自分の説法すら聞いていない、ましてや無情説法など尚更だ、と評した。しかし、これはむしろ、洞山禅師の無分別なる悟境を最大限に評価したものであり、道元禅師はこのことを、「このときの嗣続、まことに秘要なり。凡聖の境界、たやすくおよびうかがふべきにあらず」とされたのである。何故こう示されたのかといえば、一見すると、雲巖禅師は洞山禅師にダメ出しをしているようにも思えるからだ。

だが、ダメ出ししたのではない。むしろ、正法の嗣続を明らかに認めたのである。ただし、これらはあくまでも「無情説法」という我々の常識・情識では推し量れない道理の上での話である。だから、表現的に難解だといえる。

なお、今日10月2日は、何としても「無情説法」が参究されねばならない。理由は、以下の一節に顕著である。

爾時寛元元年癸卯十月二日、在越州吉田県吉峰寺示衆。
    「無情説法」巻奥書


今日はこれにて記事を終える。

仏教 - ブログ村ハッシュタグ
#仏教
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事