つらつら日暮らし

仏教用語としての「白衣」考

これは、【仏教用語としての「緇素」考】の続きの記事である。そこで、これまでは「緇白」や「緇素」などの用語を扱ってみたが、ここで「白衣」について考えてみようと思い、記事にした。ただし、「白衣」というと、日本では科学者や医療関係者などが着けているイメージが強い用語となっているのだが、仏教用語としては在家信者を意味する言葉であった。

例えば、以下の一節などはどうか?

仏、釈摩男に告ぐるに、「在家の白衣、三宝に帰依す、是の義を以ての故に、優婆塞と名づく、汝、即ち其の人なり」。
    『別訳雑阿含経』巻8


ここで「在家の白衣」とある通りなのだが、白衣とは在家信者を指すのである。その件について、簡単に事例がある。

・白衣とは、在家人なり。
・白衣とは、未出家人なり。
    ともに『四分律』巻27


在家と未出家とは同じ意味である。他にも、以下の通りである。

白衣、欲を受け、道を行ずる人に非ず。
    『遺教経』


この通りである。ところで、この辺について、更に興味深く論じた事例がある。

  白衣
 問、俗人を白衣と称すること如何なる義ぞや。
 答、天竺の風俗は鮮白の衣を着を以て習ひとす。故に俗士を指て白衣と呼なり。西域記巻二に、天竺の風俗を述る下に曰、衣裳服玩、裁製する所無し、鮮白を貴び、雑綵を軽んず、と是なり。
    諦忍律師『空華談叢』巻4


このように、江戸時代の真言宗の学僧・諦忍律師は、『大唐西域記』巻2を典拠に白衣を論じている。そして、ここからは、本当に白い衣を着ていたことになる。

それから、ちょっと面白い比丘と在家者の関係性について言及している文献がある。

 問、比丘、白衣に一切の亡人を祭らざれと教う、是れ理と為るや不や。
 答、非なり。仮使、父母食ざれども、敬心もて供養すれば、亦た其の福を得ん。
    『目連問戒律中五百軽重事』「問雑事品第十三」


要するに、比丘が白衣(在家信者)に、一切の亡くなった人を祭るべきではないと教えるのは正しいのか?という話なのだが、ここでは、「正しくない」と断言している。父母などを、敬う心をもって供養すれば、必ず福を得るとしているのである。在家信者には、まずは「福」を得させるべきだという立場、その通りだといえよう。

今回、とりあえず「白衣」について見てみたが、展開としては「白衣舎」や「白衣家」などの用語が面白いとも思った。それもこのシリーズで見ていきたい。ついでに「黒衣」もかな?

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