つらつら日暮らし

道元禅師の来世成仏観について

既に【道元禅師の誓願と未来成仏論】の記事を書いたけれども、関連して以下のような説示を見ておきたい。

 上堂、
 仏と謂い祖と謂う、混雑することを得ざるなり。仏と謂うは七仏なり。七仏とは、荘厳劫の中に三仏あり。謂く、毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏なり。賢劫の中に四仏あり。謂く、拘楼孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦牟尼仏なり。此の外、更に仏と称する無きなり。然る所以は、毘婆尸仏に附法蔵の遺弟多く有りと雖も、倶に祖師と称し、或いは菩薩と称して、未だ曾て乱りに仏世尊と称すること有らず。必定、尸棄仏の出世に至って仏と称す。行満劫満の所以なり。
 〈中略〉吾、今、成仏し、正法の座を以て其の往勲に報ず。仏に対して坐する時、天人咸く仏の師と謂う。是の徳を具うと雖も、未だ称して仏とせず。況んや、澆季全く一徳無きの輩、猥りに吾、是、仏と称す、豈に謗仏・謗法・謗僧を免れんや。大愚痴なり。豈に三悪中に墜堕することを免れん。迦葉より已後、達磨に至るまで二十七世、或は是、羅漢、或は是、菩薩、仏世尊の正法眼蔵を伝うれども、未だ称して仏となさず。
 仏は是、行満作仏する所以なり。祖は是、解備嗣法なり。仏果菩提猥りに成ずることを得ず。此の道理を明らめ知るは、実に是、仏祖の嫡子なり。〈以下略〉
    『永平広録』巻6-446上堂(抄録)


これは建長3年(1251)7月15日~8月15日の間のどこかで行われた上堂であるとされており、道元禅師(1200~1253)の晩年にあたる。ここで、従来の教えと明確に異なって「仏祖各別」に転換されていることをご確認願いたい。しかも、この上堂の前後から、道元禅師は明確に仏と祖師とを分けていくのである。なお、この理由として考えられるのは、道元禅師が改めて成仏を願った様子が理解出来る。ちょうど同じ時期に道元禅師の説法には或る表現が増える。

・一生補処、必ず兜率陀天に生ず。 『永平広録』巻5-410上堂
・補処の菩薩は兜率に非ざれば生ぜず。 『永平広録』巻7-472上堂
・菩薩必ず兜率天に生ず。 『永平広録』巻7-504上堂
・補処と雖も第四天に生ず 『永平広録』巻7-514上堂


それまでには全く見られなかった「補処」「兜率天」という表現だが、これらは全く同じ事態を指しており、要するに道元禅師は自らを含めた叢林修行者を「仏」ではなく「菩薩」であると自覚していたことである。「補処」とは「一生補処」の略であり、菩薩としての長期間に於ける修行が終了したものが、次の一生で仏となるべき存在であることを意味している。いわば、釈尊が亡くなった後で、次に釈尊の仏位を補う者がいるべき場所が「補処」なのであり、それこそ「兜率天」という欲界の第四天なのである。多くの場合、釈尊入滅後56億7千万年後に次の仏となるのは弥勒菩薩であるとされているが、道元禅師はそうは思っていなかったようである。あくまでも、弥勒に限らず仏となるべき菩薩は補処=兜率に生まれ変わるべきだという。

ここで道元禅師の言葉をそのまま理解しようとすれば、どうやら『弁道話』や75巻本『正法眼蔵』に説かれている現在成仏的な修証観から、明らかに来世成仏的な修証観に変化した感じがある。この直接の理由は分からない。これまでの論文でも幾つか理由を「推測」しているものはあるが、研究者個人の想いが投影されているに過ぎず、ここで採ることはできない。あくまでも、理由は留保である。そして、その時期を勘案すれば冒頭に貼ったリンク先で紹介している『永平広録』巻2-182上堂の頃であろうか。理由は、この永平寺改名直後の寛元4年(1246)の6月下旬~7月上旬に掛けて行われた上堂の内容が、以下のような構図を持っているからである。

今釈尊⇒古釈尊の下で授記されて現在成仏している。
道元禅師⇒今釈尊の法を聞いたことを授記として未来成仏したい。


だからこそ、これ以降晩年に至ると、先に挙げたような自らの現在の人生が成仏一歩手前の最後の菩薩身に生まれ変わることを願うものになるのである。したがって、道元禅師自身が「成仏」するには、上手く行けば次の人生で、上手く行かなければ、数回の人生を菩薩=祖師として生き抜く必要があった。

そこで、実はここから、拙僧などは改めて「祖師信仰」の可能性を見出している。確かに、我々の成仏を保証してくれる仏は別に必要かもしれない。しかし、それを含めて、修行の階梯は明らかに付法蔵の祖師が導くものである。そして、その付法蔵の弟子にしたがって我々もまた付法蔵の弟子となって、来世成仏を願うという信仰である。例えば、先に引いた『永平広録』巻6-446上堂では、「然る所以は、毘婆尸仏に附法蔵の遺弟多く有りと雖も、倶に祖師と称し、或いは菩薩と称して、未だ曾て乱りに仏世尊と称すること有らず。必定、尸棄仏の出世に至って仏と称す。行満劫満の所以なり。」のような説示がある。ここをそのまま受け取れば、道元禅師は或る特定の仏陀の世には、多くの付法蔵の弟子がいても彼らは仏世尊とはならず、次の仏の出世にいたって仏と称したことが示されている。

つまり、道元禅師の宗教で坐禅とならんで最重要の位置にあると言って良い「面授・嗣法」は、ここに来てその趣を変えたのである。従来の75巻本『正法眼蔵』などの見解であれば、まさに「大法を受け継ぐ」存在として「仏祖」であったものが、「大法を受け継ぐ」存在として「祖師」なのであり、「大法を受け継いでいる」こと自体を担保にして、来世成仏を願うという内容なのである。その意味では、まさに嗣法とは「授記」でなければならず、授記=嗣法は来世成仏への重要な原動力になったものと拝察される。

何故、このような宗教観の変化が出たのか?その理由は様々に推測されていることはすでに述べたが、その推測に取るべきものがないことも示した。拙僧もそのような逕庭に自らを誘うことを躊躇せずに、誤解であっても自らの見解を曝すこととするが、拙僧は端的に道元禅師に於ける「修証の継続性」がここに来て、自らの人生(現世)そのものを掛けて継続するように変貌したのではないか?と考えている。少なくとも、現世では成仏できないということであれば、多くの者は修行を諦めてしまうかも知れないが、しかし、この現世での修行を担保にして来世にて成仏されるのだ、ということになれば、結果として現世での修行は倫理的な厳しさを具えたものとならざるを得ない。だからこそ、現世であっても師に就いて「面授嗣法」されなくてはならない。だが嗣法とは、あくまでも来世成仏の担保であるから、そこで修行が終わることもなく、修証はどこまでも続くのである。拙僧は道元禅師の思想的変化に於いても、特に「嗣法」に関しては従来の状況とそれほど無理なく接合できることから、従来から強く打ち出されていた「修証の継続性」の強調を、原因として推測するのである。

そこで、問題意識をここまで進めていくと、曹洞宗に於ける「本尊」をどのように解釈するのか?という問題が発生してくる。少なくとも、道元禅師に弥勒信仰があったような形跡はない。つまり、普通「補処」や「兜率天」というタームが出て来れば、それは直ちに「弥勒がいる場所」であり、次の仏は弥勒であるという前提を用いることができる。しかし、道元禅師はそのような前提を用いず、ただ「如来」とだけしてある。確かに現世成仏はあくまでも釈尊のものであって、道元禅師或いはその他の付法蔵の弟子のものでは無かったかもしれない。だが、次もまた弥勒の眷属になるともされていない。いわば、次に仏陀になる存在は、未だ留保されたままなのである。結果として、道元禅師は来世成仏を説きつつ弟子に付法し、その付法の系列を長く活かすことによって、ある種の信仰的集団を生み出そうとしていたとも解釈できる。その時「本尊」となるのは、果たしてどの如来なのか?現世成仏としてであれば「釈迦牟尼仏」で良いが、来世成仏となるとそう容易ではない。ここでは当然に阿弥陀仏の御許へ行こうという浄土信仰ではない。弥勒信仰に近いがそうではないという形が一番近い表現であろう。

そして、本ログの結論としては、我々は明確に祖師信仰を通して成仏するということである。現在の状況をなんら恥じる必要はない。その成仏の機構はすでにその生涯で道元禅師が示された通りである。なお、この機構は他にも論じるべき問題があるが、また別の機会に考えたい。

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