つらつら日暮らし

篤胤の釈迦族論(拝啓 平田篤胤先生9)

前回の記事までは、「篤胤の天竺論」を論じたのだが、今回らは「篤胤の釈迦族論」と題して、釈迦族についての見解を見ておきたいと思う。篤胤は、仏教の開祖である釈迦牟尼仏について、その一族の様子を明らかにすることで、何かの瑕疵を見つけ出そうとしているようである。

さて釈迦の姓に五つのわけがある、一つには瞿曇氏と云、二つには甘蔗氏と云、三つには日種氏と云、四つに舎夷氏といふ、五つには釈迦氏といふ。悉くこれにはわけがあるけれども、余りくだくだしいによつて是はおきませうが、其中甘蔗氏と云わけは〈以下略〉
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』17頁、漢字を現在通用のものに改める


この最初の「釈迦」は、「釈迦法師」のことを指している。そして、その姓に5種類があったとしているのだが、この挙げ方の典拠を探ってみたい。例えば、『仏祖統紀』巻1、『釈迦氏譜』巻1等にもこれらの姓について挙げられているのだが、どうも、篤胤の挙げている順番と異なっているので、別の文献から引いたのであろう。『翻訳名義集』にはわざわざ「釈尊姓字第四」まであるのだが、こちらでは、先に挙げた5種類に、もう1つ「六刹利」を加えているので、これも違うといえよう。

そこで、順番まで完全に一致しているのは、『祖庭事苑』巻4であるらしい。宋代に成立した文献であるから、江戸時代末期の篤胤が読んでいても全く不思議ではない。よって、おそらくは同書を参照したものと仮定しておきたい。なお、篤胤は特に「甘蔗氏」については解説しているけれども、典拠は『法苑珠林』巻8あたりだろうか?こちらは、参照されたかもしれない文献の1つというだけで、確定はできない。

さて、ここで甘蔗氏から釈迦氏という名前に至った理由について解説され、或る王に5人の子供がいたが、後継者を回る争いの中で、4人までが城から追い出されてしまい、非常に厳しい生活を送っていたが、能力が高く、それぞれに国を作ったという。

そこで父の王が大きに歎息してわが子どもらに釈迦じやといつたと云事がござる。釈迦氏といふは是からのことでござる。さて釈迦と云天竺詞を翻訳すれば、能仁と云ふ言となつて、能仁といふは仁を能すると書たる文字じや。いはゞ我子どもらは仁者じやといつたのでござる。
    前掲同著、18頁


この一節であるが、おそらく典拠は『釈氏要覧』巻1「五釈迦氏」項であると思われる。ほぼ同じことは『仏祖統紀』巻1にも見られるのだが、上記一節に続く以下の文章は、『釈氏要覧』の同項に見られるのである。

偖この甘蔗氏が五人の子どもの第五人目を尼拘羅と云ふ。尼拘羅が子を倶盧と云ふ。倶盧の子を瞿倶盧と云。瞿倶盧の子を師子頬といふ。師子頬に子が四人ありて、第一の子を首図駄耶といふ、是を翻訳すれば浄飯といふ事になる。浄飯とは浄(いさぎよ)き飯といふ事で、こう名をつけたにもわけがあるけれども、これはまずよしませう。
    前掲同著、18頁


この系図の下りで示される歴代の王の名前について、『釈氏要覧』が、篤胤の説に最も近いのである。よって、先の一節と合わせて、同書から引用したと推定されるのである。それにしても、篤胤はこれを述べることで、何を明らかにしようとしているのだろうか?ここまではただ、その系図を紹介しているだけだから、伝承を挙げているに過ぎない。ただし、上記の伝承の中でも、1つ気になったことがあるが、それは以下の一節を紹介しつつ申し上げたい。

 さてこの浄飯が善覚長者といふ者の娘摩耶と云ふ夫人を娶て、生んだる子を悉陀といふ。是が彼の初て仏道と云ふことを考へ出して世に弘めた釈迦と云ふはこの悉陀がことでござる。
 さてまた釈迦と云ふは、本とうの名ではない。元来は姓で、先にも申す如く能仁といふことで、能仁と云ふは仁者と云程の事でござる。夫のみならず、悉多は衆生の為じやとか云て、苦んで仏法を弘めたによつて、其徳を賞て釈迦と云たと云ことでござる。何れにも釈迦と云は実の名ではなく、姓なりあだ名なりでござる。
    前掲同著、18~19頁


ここで、浄飯王の紹介から、急に釈尊の母である摩耶夫人の話が出て、そして、悉陀(悉多)太子、後の釈迦牟尼仏の話へと展開する。それで、篤胤がこのような紹介をした理由として、釈尊の名前の問題を挙げようとしていることが推定される。例えば、上記一節でも「釈迦と云ふは、本とうの名ではない」といってみたり、「釈迦と云は実の名ではなく、姓なりあだ名なりでござる」と述べることで、例えば、仏教には仏名を唱えて功徳を得るという方法があるけれども、その効果を弱めようとしているようにも感じる。

また、「能仁」についても注意が必要だ。これは別に「能忍」とも表記されるのだが、篤胤は敢えて「能仁」を強調し、更には「仁者」という意味だとも述べているので、いわば「仁」を強調する儒教などとの接点も求めているようにも思う。それは同時に、日本には相応しくないという意図が国学的文脈からは得られるので、注意が必要なのである。自然と、仏教を「異国の宗教」として批判しているのである。

そして、ここで釈尊が誕生したのだが、次の記事では釈尊降誕の様子の真偽を篤胤が問うているので、その辺の様子を見ておきたい。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

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