つらつら日暮らし

中秋の名月(令和4年度版)

今日、9月10日は、旧暦8月15日に当たり、いわゆる「中秋の名月」となる。なお、かつての禅僧は、この中秋に説法(上堂)を行い、偈頌(漢詩)を詠むなどし、この日を楽しんだ、というか、修行の機会に換えたのであった。元々、15日というのは上堂を行う機会でもあったので、それに合わせたわけである。

今日は、そのような説法の一つを学んでみたい。

 上堂。
 去年の人、中秋の月を看る。
 今年の人、中秋の月を看る。
 今年の人、是れ去年の人なり。
 去年の月、是れ今年の月なり。
 還た、人有りて這裏に向かいて一隻眼を著得せん。
 若し也た著得すれば、径山、半院を分かちて伊とともに住す。
 其れ或いは未だ然らざれば、堂に帰りて茶を喫す。
    『大慧録』巻2


中国臨済宗の大慧宗杲禅師(1089~1163)が径山能仁禅院で行った上堂である。この上堂だが、「中秋の上堂」とはなっていないけれども、内容と語録での順番からそう判断出来る。なお、この直前の上堂は、「圜悟和尚忌」となっているが、これは大慧禅師の本師である圜悟克勤禅師の忌日である8月5日に行われたもので、それに続いて行われたのがこの上堂(8月15日)である。

意味だが、既に去った歳の人も中秋の月を看た、今年の人も中秋の月も看る。その意味で、今年の人は、去年の人であるし、去年の月は、今年の月である。つまりは、新旧という分別を越えて、仏法の円かな働きを示すものといえる。

そこで、人がいて、この仏法の円かな働きに向かって一つの眼を著け得たとすれば、大慧禅師はその人にお寺を半分与え、ともに住するという。いわゆる「分座」ということである。しかし、もし、そこにまだ至らないのであれば、僧堂に帰って茶を飲むとしている。

中秋の名月に掛けて、弟子達の中から、首座の位に付くべき傑物を探したわけである。今日の名月、もし見る機会があれば、その円かなる様子から、仏法の様子を観取したいものである。

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