つらつら日暮らし

今日は明全和尚忌(令和5年度版)

今日、5月27日という日付は、道元禅師の参学師であった仏樹房明全和尚(1184~1225)の示寂された日である。まず、道元禅師は明全和尚のことを、次のように述べられている。

予、発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華、すみやかに九廻をへたり。いささか臨済の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり、あへて余輩のならぶべきにあらず。
    『弁道話』


このように、道元禅師は元々、比叡山で出家されたが、後の伝記資料では18歳の時に京都東山の臨済宗・建仁寺に入られ、そこで明全和尚に出会ったという。なお、「あひしたがふ霜華、すみやかに九廻をへたり」とあるため、1225年に明全和尚が示寂されるまで、従っていたとされるため、1217年から数えて9年ということになり、1217年は道元禅師18歳であるため、伝記資料の記述と一致している(実際には、『弁道話』などの記述から、伝記資料が作られたというべきか)。

そして、道元禅師は明全和尚に導かれて、中国に渡ったこともまた、『正法眼蔵随聞記』巻6(長円寺本の場合)で「示云、先師全和尚入宋せんとせし時」とあって、師の恩への報い方などが論じられているのだが、それ自体とても難しい問題なので、また機会を見て採り上げてみたい。なお、ここで「先師全和尚」と呼ばれていることに注意したい。先師というのは、亡くなられた師匠のことを指すため、道元禅師にとっての、明全和尚の位置付けが理解出来よう。

それから、伝記的記述が少ない明全和尚だが、道元禅師が遺された記録が複数存在し、それが『舎利相伝記』と『明全戒牒奥書』と呼ばれる文書である。両方ともに、明全和尚の戒行の徳を讃えたものである。その記録を元に、簡単に明全和尚について記述したいと思ったが、そういえば、拙Wikiにその辺をまとめているので、【明全和尚―つらつら日暮らしWiki】からご覧いただきたい。

そこで、この記事では、明全和尚が示寂される様子について、特に確認しておきたい。

已に唐に入りて、天童山に投じて了然寮に入る。時に堂頭は無際了派禅師、住持なり。首座は智明、都寺は師広なり。全公、天童に在って三年を経るも、四十二歳五月廿七日辰の時、了然にて円寂す。時に大宋宝慶元年乙酉載なり、時に堂頭和尚は如浄禅師なり。
    『明全戒牒奥書』、訓読は当方


ここからは、天童山に入って3年目、如浄禅師の会下におられたのだが、宝慶元年(1225)5月27日の辰の時(午前7~8時頃)に天童山了然寮で示寂された。『明全戒牒奥書』は以上の記述であり、おそらく本文書はこの後に書かれている、『舎利相伝記』は示寂の経緯が詳しく書かれている。

大宋国宝慶元年五月十八日、たちまちに微疾をうけ、おなじき廿七日たつのとき、衣裳をただしくし、身体をまさしくして、端坐して寂にいる。
    『舎利相伝記』


明全和尚は、約10日間だったようだが、体調を崩し、あっという間に亡くなってしまったようである。そして、その後、天童山では明全和尚のための喪儀が行われたが、おそらくは亡僧喪儀であったと思われる。

供養の儀式をはりて、おなじき廿九日たつのとき、闍維するに、火のいろ五色にかはる。衆これをあやしみていはく、かならず舎利現ずべし。ことばのごとく闍維のところをみるに、白色の舎利三顆をえたり。これを寺につぐるに、寺の大衆みなこぞりてうやまひたとび、供養し恭敬す。そののち連及してひろうに、あつめて参佰陸拾余顆をえたり。ここに大宋国のうち、いづれのところにも、みなこれをきき、うやまはずといふ事なし遠近親疎みなことことくほめほむ。つゐに寺に碑をたてて、のちにつたゑんとするしき。
    同上


この「供養の儀式」が、亡僧喪儀を指していると思われる。その儀式に5日ほどを要し、そして、火葬(闍維)したのだが、御遺体を焼く火の色から、舎利が出るだろうという話をしていたようだが、道元禅師は、白い色の舎利3粒を得られたという。そして、更に集めたところ、「三百六十個余り」を得たという。

そして、道元禅師は明全和尚の舎利を日本に持ち帰られたのであった。なお、『永平広録』を読むと、2度ほど明全和尚のための供養の上堂を行われたことが記録されている。今日は、内1つを採り上げてみたい。

 仏樹先師忌辰の陞堂。
 挙す、古仏云わく、身従無相中受生、猶如幻出諸形像。幻人身識本来無、罪福皆空無所住、と。
 師云わく、受生は且らく致く、作麼生か是れ無相底の道理。還た聴かんと要すや、是法住法位、世間相常住なり。這箇は是れ唯仏与仏乃能究尽底の道理なり、今日、知恩報恩底の一句、又た作麼生。
 良久して云わく、如来、未だ越えず因果を明らむことを、菩薩必ず兜率天に生ず。
    『永平広録』巻7-504上堂、訓読は当方


以上の上堂は、建長3年(1251)の5月27日に行われたものであると思われる。そこで、道元禅師は「古仏云わく」として、『景徳伝灯録』に載っている毘婆尸仏の偈を採り上げ、その偈頌を元に、明全和尚への知恩・報恩を説かれたのであった。なお、敢えて引用などはしなかったけれども、『正法眼蔵随聞記』に見える明全和尚の求道心などは、常に拝しておきたい心構えであると感じている。

南無仏樹房明全和尚、合掌。

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