第三判釈本文とは、今、此の経中に建立の菩薩の修行する所の法、略して七分有り。
一に経に曰く、釈迦牟尼等は、序分なり。
二に経に曰く、汝等比丘於我等は、修集世間功徳分なり。
三に経に曰く、汝等比丘当知等は、成就出世間大人功徳分なり。
四に経に曰く、汝等比丘於諸等は、顕示畢竟甚深功徳分なり。
五に経に曰く、汝等比丘若於等は、顕示入証決定分なり。
六に経に曰く、於此衆中等は、分別未入上上証為断疑分なり。
七に経に曰く、汝等比丘常当已下、離種種自性清浄無我分なり。
恵光『唐招提寺戒壇別受戒式』「第五講遺教経」
「判釈本文」とある通りで、本文の内容を簡単に解釈してみたものである。解釈といっても、一々に解説を加えたというのではなくて、『遺教経』全体を、「菩薩の七つの修行」と区別して、その項目ごとの名称を挙げたものである。
なお、この「菩薩」については、「ブッダになる前の修行者」と見る場合と、「大乗仏教の修行者」として見る場合があるのだが、ここでは容易に判断が付かない。何故ならば、『遺教経』は古来から、いわゆる阿含部系なのか?大乗系なのか?で議論が分かれるところだからである。
その点、本式では、『遺教経』を積極的に持戒を説く経典と位置付けることで、そういった区分自体を無効化しているようにも思える。要するに、菩薩もあくまでも、「初心の菩薩」としているので、仏道修行を始めたばかりの者ということなのだろう。
さて、上記のような七つの区分については、『遺教経論』からの引用である。色々と議論もあるところだが、インドの天親菩薩造ということになっている。そして、この区分を通して見ると、最初は世間の功徳から、徐々に出世間の大人の功徳を得るようになり、そして、仏の境涯を証明していくという流れが見える。
そして、種種の自性を離れ、清浄なる無我に至るというが、これは観無常を媒介に、修行を推進しようという世尊の遺教の本質を示したものである。まだまだ人生の先があると油断すること無く、今日には落命するかも知れないという危機感こそが、仏道への学びを促すのである。なお、実範上人『東大寺戒壇院受戒式』でも、上記と同内容を示すので、受戒前の『遺教経』講義は定番だったことが分かる(恵光上人は江戸時代の人[18世紀頃]のはずなので、この文献が平安時代末期の実範上人の作法を引用したんだろうけど、詳細は調べていなかった・・・)。
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