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つらつら日暮らし

雲門文偃の「世尊打殺話」は犯戒か?

中国雲門宗の開祖である雲門文偃(864~949)には、次のような説法が伝わっている。

 挙す、世尊初めて生下し、一手天を指し一手地を指し、周行七歩して四方を目顧して云く、「天上天下唯我独尊」と。
 師云く、我れ当時若し見れば、一棒に打殺して狗子に与えて喫却させ、貴くは天下太平を図らん。
    『雲門匡真禅師広録』巻中


まぁ、知る人ぞ知るというべきで、まさしく禅僧の面目躍如というべき問答だといえよう。しかし、これを「昔ばなし法廷」宜しく、犯戒かどうかを検討するとどうなるのか?という話である。我々には、同様の事例として、かの南泉普願禅師が猫児を一刀の下に殺した「南泉斬猫話」について、犯戒かどうかを『正法眼蔵随聞記』にて道元禅師と懐奘禅師が議論したことが記録されている。

ただし、あちらとこちらで決定的に違うのは、南泉斬猫の場合には実際に猫を殺したのだろうと思う。だが、こちらの場合は以下のような意味である。

 雲門禅師が古い話を採り上げていわれるには、世尊(釈尊)が生まれて、片手で天を片手で地を指さし、周囲を七歩歩いて四方を目で見て「天上天下唯我独尊」と仰った。
 雲門禅師は、もし自分がその場にいれば、棒で殴り殺し、犬に喰わせて、天下太平を願ったのに、と仰った。


乱暴なのは分かる。だが、こうしたかった、という話であって、実際に殺害したわけではない。よって、あくまでも想定としての話であるが、実際に殺害されていたらどうなったのか?ということである。

まず、釈尊が生まれた直後に殺害されたということであれば、釈尊による仏教の戒律はまだ制定されておらず、仏教に於ける「不殺生戒」は破られないことになる。それから、生まれた直後の釈尊は、まだただの菩薩だから、いわゆる五逆罪にも問われないことだろう。

後は、たいがいどこの共同体でも、殺人は重罪だから、世俗の罪には問われたものだと思われる。しかも、相手はクシャトリアだから、それなりに重い罪になったことだろう。

しかし、問題はこの殺人の動機である。雲門禅師は「天下太平」を願ったという。世界の平和を求める場合の殺人は許容されるのだろうか?よく「究極の問い」として出される、目の前で核ミサイルのスイッチを押そうとしている独裁者相手に、1人の仏教者がいたとして、独裁者を殺害するかどうかを問うことがある。これは、立場によって受け取り方が変わることになる問いで、非常に微妙ではある。雲門禅師がいう「天下太平」とは、仏教のような余計な構築的思想が行われないことをもって「天下太平」というのであって、或る種の道教的発想でもある。ただし、禅僧の一部には、それまでの教学参学を含めた一切の「はからい」を否定する場合があって、これもその一種だということが出来る。

そうなると、曹洞宗の場合には、雲門禅師級の「はからいの否定」はなされていないと思う。理由として、修行の肯定がなされており、その意味でのはからいは許容されるからである。そのためだろうか?道元禅師もこの雲門禅師の教えについては、中国曹洞宗の宏智正覚禅師が浴仏上堂で採り上げたのを引用(『永平広録』巻3-236上堂)することで実質的な孫引きになっているが、雲門禅師へのコメントは付されていないように見えるから、余り参考にはならない。

この雲門禅師の問答は、結構良く出来ていて、仏教的な教学や戒律が一切起きないところを問うものであるから、仏教の構築的な観念でもって処断することが出来ない。だから、「犯戒」かどうかは問われないことになる。犯戒では無いところで、罪の観念が出てくるかどうかというと、まぁ、悪事であったことにはなると思うし、『大智度論』では「十善戒」を「旧戒」とかいって、仏陀がいてもいなくても成立するというような言い方をしているのだが、その意味では十悪の1つにはなるといえる。

とりあえず、色々と考えてみたけれど、こんなことくらいかな?

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