つらつら日暮らし

旧暦の日付で高祖道元禅師の忌日(令和5年度版)

明治時代以降は、新暦への変換などがあって、9月29日に曹洞宗では両祖忌を執行しているが、当ブログでは諸事情もあって、かつての日付のまま、高祖道元禅師忌の記事を書くようにしている。曹洞宗の両祖の忌日は、旧暦の表記では次の通りである。

永平道元禅師御遷化:建長5年(1253)8月28日
瑩山紹瑾禅師御遷化:正中2年(1325)8月15日


そこで、拙ブログでは、8月15日は「終戦の日」の記事を書くため、瑩山禅師忌を9月29日に書き、道元禅師忌を8月28日に書くようにしている。よって、本日の記事となっていることをご理解いただきたい。

さて、改めて、道元禅師の最初期の伝記から御遷化された時の状況を学んでみたい。

 建長四年壬子秋、病を示す。
 建長五年癸丑八月二十八日夜半、偈を示し、自書して云く、
  五十四年、第一天を照らす、
  箇の𨁝跳を打して、大千を触破す、
   咦
  渾身覓る処無く、活きながら黄泉に陥つ。
 筆を抛ちて、逝す。
 俗寿五十有四、僧臘二十有七。
 本山の西北隅に塔す。
    『永平寺三祖行業記』「初祖道元禅師」章、訓読は拙僧

 建長四年壬子秋、病を示す。
 建長五年癸丑八月二十八日夜半、偈を示し、自書して曰く、
  五十四年、第一天を照らす、
  箇の𨁝跳を打して、大千を触破す、
   咦
  渾身覓る無く、活きながら黄泉に陥つ。
 笔を抛ちて、逝す。
 俗寿五十有四、僧臘三十有七。
 墖を本山の西北の隅に立す。
    『三大尊行状記』「越州吉祥山永平開闢道元和尚大禅師行状記」章、訓読は拙僧


このように2本を挙げた理由は、僅かではあるが相違点があるためである。ただ、様々な観点から考えて、おそらくは後者が正しいと思われるのである。その理由を簡単に書いてみよう。まず、相違点は、以下の3つである。

①道元禅師の遺偈の表記
②道元禅師の僧臘
③御遺骨を納めた塔について


まず、①についてだが、異なっているのは、前者が「渾身覓る処無く」で、後者が「渾身覓る無く」となっている。つまり、前者は「処」の一字が多いのだが、ここが不自然である。何故ならば、他は全て「4字」なのに、ここだけ「5字」となっているからである。そうなると、後者の方が正しいという判断が可能である(他に、遺偈のみを書いた文書も根拠とされる)。

②についてだが、前者が「27年」、後者が「37年」となる。正直申し上げて、前者はもちろん、後者にしても違和感が残るのだが、解決するための考えとして、それぞれの伝記の関連する記述を見ておきたい。

・建保元年癸酉四月九日、十四歳、初任座主公円僧正を礼して、剃髪す。同十日、延暦寺戒壇院に於いて公円僧正を以て和上と為し、菩薩戒を受け、比丘と作る。
・建保五年丁丑十八歳秋、始めて本山を離れ、洛陽建仁寺に投じ、明全和尚に従う。猶、顕密の奧源を極め、律蔵の威儀を習い、兼ねて臨済の宗風を聞き、即ち黄竜の十世に列す。
    ともに『三大尊行状記』


もし、『三祖行業記』の記載の通り、「27年」とすると道元禅師が28歳で僧臘の第1歳となってしまうので、それは流石にあり得ない。そうなると、「37年」の方を採らざるを得ないのだが、それでもかなり不自然ではある。まず、道元禅師の出家年などについては、14歳の時とされる。『三大尊行状記』では、この時に「比丘(菩薩戒を受けたのみなので、菩薩比丘)」になったというが、これでは僧臘「40年」でなくてはならないが、敢えて「37年」とあるからには、18歳の時の状況を重く採るべきだといえる

つまり、建仁寺で明全和尚に参じたところを、「僧臘」の開始だとしている可能性がある。この辺、同じく最初期の伝記になる以下の一節の内容も確認したい。

因て十八歳の秋、建保五年丁丑八月二十五日に、建仁寺明全和尚の会に投じて僧儀を具ふ。彼の建仁寺僧正の時は、諸の唱導、初て参ぜしには、三年を経て後に衣を更しむ。然るに師の入りしには、九月に衣を更しめ、即ち十一月に僧伽梨衣を授けて、以て器なりとす。
    瑩山紹瑾禅師御提唱『伝光録』「第五十一祖章」


ここで「僧儀を具ふ」とあることに注目したい。やはり建仁寺に入ったことが、僧侶としてのキャリアに大きな影響を与えたと判断されているのである。そして、本来なら他の宗派からの転宗の場合、3年ほどの見習い期間が置かれるところ、道元禅師は建仁寺に入った翌月には衣を改め(天台宗風から、臨済宗風に改めた)、更に同年11月には「僧伽梨衣(九条衣)」を授けられたという。この記述に鑑みて、『三大尊行状記』では、14歳に菩薩戒を受けた時に「比丘」になったと言うが、威儀の上では沙弥同様だった可能性を指摘したい。そうなると、九条衣は保持しておられないが、18歳に建仁寺に入った段階で、授与されたのだろう。それを「兼ねて臨済の宗風を聞き、即ち黄竜の十世に列す」と書いてある可能性を指摘したい。

この辺、現在の曹洞宗の僧階制度と余りに異なっているので、良く分からない。

最後③についてだが、御遺骨を納めた塔について、後には承陽庵(承陽殿)と呼称されているが、【承陽殿―つらつら日暮らしWiki】の通り、塔の建立当初は名前が無かった。おそらくは「開山塔」などと便宜的に呼称されていたと思われる。それは、この記事で採り上げた伝記からも明らかであろう。ただし、その上で、記述として自然なのは『三大尊行状記』である。『三祖行業記』も、無理矢理「塔」を動詞的に解釈したが、本来なら「塔を立す」としておきたいところだ。よって、『三大尊行状記』の方が良いのである。

以上、道元禅師が御遷化される時の御様子について、学んでみた。15世紀に成立した『建撕記』では、御遷化される少し前に、京都の俗弟子覚念の私邸に赴かれた話や、「妙法蓮華経庵」などの話が挿入されていき、更には御遷化した時に、周囲で看病されていた懐奘禅師などの御様子も書かれていくが、最初期の伝記にはそれらは全て書かれていない。

しかし、そうであるが故に御遷化の御様子として、最も大事なことが理解出来るのである。今日という日に、高祖大師の顕彰として記事を書いた次第である。南無高祖承陽大師。

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