つらつら日暮らし

いわゆる両大本山制度の成立に関する一議論

以前から、気にしている文脈があるので、それを見ておきたい。

 元和に改元す。東照源君、兵を統べて伏見に駐す。諸宗徒徴して城に入りて顧問す。師も亦与う。諸師、各おの祖脈の源、委しく述べ、寺院の本支に及ぶ。源君、将に永平を以て洞門の本寺に為さんとす。
 師、殿階を上書して曰く、總持禅寺は後醍醐天皇勅賜の梵刹、開山瑩山に命じて宗を匡す。御製の詰命、其の略に曰く、曹洞出世の道場に補任す。宜しく南禅と相並びて、紫衣を服し、国家の延長を祈り奉るべし。次いで、歴朝の天子の宸翰、皆な斯の如し。仰いで望むに閣下に請うらくは、先蹤に随わんことを、と。
 源君見て乃ち之に従う。
 遂に永平・總持を陞らせ、両本寺と為す。為に鈞帖降りて大護持と作る。總持を本寺と為すは、師の力なり。
   『日本洞上聯灯録』巻10「加州宝円泰山雲堯禅師」項、『曹洞宗全書』「史伝(上)」巻・472頁下段~473頁上段、訓読は拙僧


以上のことから、日本曹洞宗がいわゆる「両大本山制」となったのは、こちらの加賀宝円寺5世・泰山雲尭禅師(1574~1648)による働きかけがあったから、ということになる。ところで、この雲尭禅師だが、上記の記事の冒頭からすると、かの朝倉義景(1533~1573)の第三子だったとのことだが、あれ?生没年合わなくない?

それから、朝倉義景の方を調べても、この雲尭禅師のことは出て来ない。また、義景の他の子供は基本、本願寺との関わりがあったとされているので、雲尭禅師についての記載は、何らかの間違いだったのではないかと思う。

そうなると、この總持寺も大本山へ、という話もどこまで本当だったものか、気になるのである。実際、他に同じようなことを書いてある文献、拙僧は見たことが無い(もちろん、最大の理由は勉強不足だ)。よって、ここは更に深めることは出来ないのが残念ではある。更には、明治26年の麻蒔舌渓著『曹洞宗史要』(明教社)でも、上記記載を受けている。

なお、總持寺の歴史を明らかにされた栗山泰音禅師(大本山總持寺独住第8世、1860~1937)の『嶽山史論』(鴻盟社・明治44年)によれば、以下の注意を御垂示されている。

然るに或る一部の論者は、彼の元和度の法度に於て永平寺は総本山と為り、總持寺は泰山雲尭の俗権的勢援に依てお情け的に大本山と為り、随て徳川時代にも永平寺は総本山の格式を逐ひたるが如く強弁すれども、是れみな虚言にして事実は全く然らざる〈以下、略〉
    『嶽山史論』380頁


栗山禅師の御垂示に見える「一部の論者」とは、先に挙げた『聯灯録』の記事を、重大に採る者達の言動になるのだろう。その上で、いわゆる総本山論の噴出に到ったことについて、栗山禅師が批判を寄せておられる。ここに続く文章も、その論駁に係る内容となっていることからも、明らかである。

拙僧自身は、この元和の法度の発出時に、幕府内でどのような議論があったか把握できていないのだが、例えば東西本願寺の分立などは、徳川時代になった時に、既にそうなっていたので、追認した形だともされるから、良くいわれるような、宗派内の分断を目指すということとも異なっているのだと思われる。

この辺は、もう少し色々と学ぶ必要があることは間違いない。

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