つらつら日暮らし

「菩薩戒」とは誰から受けるのか?

以下の一節をご覧いただきたい。

戒を受ける主体が仏であることは、菩薩戒の特徴の一つである。というのも、一般に、声聞乗における通常の受戒儀礼の場合は、戒は比丘から授けられるのが原則であり、このように他の修行者を介して戒を受ける方法は従他受戒と通称される。この受戒法は、いわゆる師資相承の系譜を遡ると、釈迦牟尼仏にまで連綿と繋がる点が重要である。間接的にではあるが、釈迦牟尼仏の制定した戒律を代々受け継ぐという性格がある。一方、菩薩戒においては、瞑想や夢の中に釈迦牟尼仏や他の仏や菩薩が現れ、かかる仏や菩薩から直接に戒を授かるという場合がある。この受戒は、仏や菩薩に菩薩の誓願を自ら表明することによって実現するため、しばしば自誓受戒と呼ばれる。
    船山徹先生『六朝隋唐仏教展開史』法蔵館・2019年、251頁


確かに菩薩戒は人からではなくて仏・菩薩から受けるというのは頭のどこかで理解していたのだが、しかし、何故実践的なところで自覚出来ていなかったのか?拙僧は自分でそれが気になった。そこで、改めて曹洞宗に於ける「授菩薩戒」の作法を見てみると、その疑問が氷解した。まぁ、改めてというところなのだが、確認しておきたい。

・我今盧舎那、方に蓮華台に坐す、周匝せる千華上に、復た千の釈迦を見(『菩薩戒作法』は「見」だが、『梵網経』は「現」)ず。
・灑水終らんと欲するの間、和尚は預め合掌して七仏の宝号、并びに迦葉・阿難・商那和修・優婆毱多等の宝号、及び菩提達磨尊者等の六代の尊号、青原・石頭・薬山・雲岩・洞山等の宝号を黙誦す。但し我が嗣法の先師の尊号は三唱す。
・一たび三帰戒を受くること、斯くの如し。今従り已後、如来至尊正等覚は是れ汝が大師なり。更に邪魔外道(※以下、この用語は人権問題が指摘されているため、取り扱いには注意されたい)等に帰依せざれ。此は是れ千仏の護持したもうところ、曩祖の伝来したもう所なり。我今汝に授く、汝善く護持すべし。
    『仏祖正伝菩薩戒作法』、訓読は拙僧(以下、同じ)


以上の点から、戒を授ける立場の戒師(作法上は「和尚」)が、『梵網経』の一節を受けて「我、今、盧舎那」と自ら報身の盧舎那仏であることを宣言し、その上で更に化身たる「千の釈迦」を現じていることを示す。そして、和尚の立場としては、七仏から歴代の祖師の宝号を唱えて、菩薩戒が伝来されてきた経緯を改めて確認している。その上で、実際に授ける作法上では、「如来至尊正等覚は是れ汝が大師なり」として、如来自身が戒師であることを明言しつつ、このような菩薩戒について、「千仏(これを「千の釈迦」とするのだろう)」と曩祖が伝来護持してきたとしているのである。

つまり、宗門の『菩薩戒作法』では、如来からの授戒という立場を基本にしつつも、その上で、曩祖を介在させることで、「従他受戒」としている様子が理解出来ると思う。よって、江戸時代の学僧・指月慧印禅師は自誓受戒について、次のような注意点を示す。

故に三世の如来、皆受戒を言う。大覚已にこの先覚を稟く、余覚豈に自得することを得んや。縦い自誓授と言うも、仏に因りて受く。仏言く、「好相を見ざれば戒を得ざるなり」。蓋し是れ好相を見ること明らかなり。能授人有れば、果たして己見発明の謂いに非ず。既に信を以て受け、受くれば持なり。
    指月慧印禅師『禅戒篇』「得戒」項、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・238頁


これも、自誓受戒だと思われることを、敢えて「仏から受ける」ことを強調した「従他受戒」として解釈し直していることになる。また、道元禅師の場合、『正法眼蔵』「受戒」巻は先の『菩薩戒作法』の意を受けているように思う。一応、授ける者としての和尚・阿闍黎(戒師と教授師)はいるものの、受者自身の言葉は、仏陀からの受戒を前提にしているためである。

如来至真無上正等覚は、是れ我が大師なり、我、今、帰依す。
    「受戒」巻


如来を「我が大師なり」としているため、受者自身が如来を師とすることを宣言している。これは、『菩薩戒作法』が和尚からの発言として、「汝が大師なり」というのと、ややその趣を異としている。だが、上記の通り、宗門の授戒に於いては、戒師本人では無くて、仏陀からの授戒を想定しているのだが、上記一節には「善男子、既に邪を捨て正に帰す、戒已に周円す。応に三聚清浄戒を受くべし」とあって、如来を大師として仰いだことにより、戒が周円するという立場が明言され、しかも、十戒について「是れ乃ち諸仏・菩薩清浄の大戒なり」とすることで、我々が受ける菩薩戒としての「十戒(十重禁戒)」は、仏・菩薩のものだとしているのである。

その上で、2つのことを確認しておきたい。それは道元禅師の『出家略作法』と現代の「檀信徒喪儀法」である。

如来至尊等正覚、是れ我が導師なり、我れ今帰依す。今より已後、仏を称して師と為す、更に邪魔外道等に帰依せず。
    『出家略作法』


これは、同作法中の「三帰戒」が終わった後で唱えられるものであり、「仏」を師としている。こちらもやはり、先ほどまでと同様の状況であった。また、「菩薩戒」を受けた結果については、以下のように示される。

既に三聚浄戒を受け訖んぬ、次に応に菩薩波羅提木叉を受くべし。若し復た此の戒を受けた者は、即ち大覚の仏位に入る。真に是れ諸仏の長子なり。
    同上


『梵網経』に於ける「衆生受仏戒」偈を受けた一節であることから、拙僧自身はほとんどこれを疑問に思っていなかったのだが、ここからは、受者についても、直接仏から授戒され、仏子となったことを自覚させていることになる。

帰戒を授与すること此の如し、今自り以後如来至真等正覚は是れ新帰元某甲〈信士・信女〉が大師なり。更に余の邪魔外道等に帰依せざれ。
    「檀信喪儀法」、『昭和改訂曹洞宗行持軌範』288~289頁


昭和25年制定の「檀信喪儀法」であるため、今とは文面が異なっている。特に「邪魔外道」という言い方は、今は「余道」となるなどし、人権的問題が配慮されねばならない文脈であるため、取り扱いは注意されたい(重ねてお願い申し上げる)。その上で、ここからは、三帰戒の結果として如来を大師とすることは分かるが、それが菩薩戒にどう影響するのかが若干分かり難い。ただし、十六条戒の全体について、「先仏(千仏ではないところに注意)の護持したもう所、曩祖の伝来したもう所なり」としており、末尾には「衆生受仏戒」偈も採用されているため、一応「仏戒」ということの意義は確認されているが、「誰から受けるのか?」という観点は、他の「授菩薩戒」の作法からすると後退している印象がある。

以上のように、宗門内に於ける「授菩薩戒」の作法全般からしても、誰から受けるのか?という問題については、一部曖昧ではあるが、道元禅師の場合には明らかに「仏・如来・菩薩」などを師としていることが明らかである。よって、曹洞宗で採用した菩薩戒に於ける師の問題は、決したと思われるのである。

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