つらつら日暮らし

『華厳経』に見る菩薩の諸戒について

大乗経典が整備されてくると、徐々に戒律についても独自の主張がなされるようになったことは間違いないと思うのだが、その一例として、『華厳経』を見ておきたい。

 善男子、我れ唯だ此の一無礙法門を知るのみ。云何が能説せん、
 菩薩は、大悲戒、諸波羅蜜戒、乗大乗戒、不捨菩薩道戒、滅障礙戒、菩薩蔵戒、不捨菩提心戒、一切仏法深心戒、念一切智不忘失戒、如虚空戒、一切世間無所依戒、不可壊戒、無譬諭戒、不濁戒、不雑戒、離疑戒、清浄戒、離塵戒、離垢浄戒を修す。
    『大方広仏華厳経』巻46「入法界品第三十四之三」


これは、いわゆる『六十華厳』に該当するのだが、その中で、以上のように様々な戒のあり方について示されている。そして、「戒」とあるからには、これらのことは或る種の実践目標だったことが理解できよう。なお、上記一節は、「入法界品」であることからも分かる通り、善財童子が各善知識を訪ねつつ学ぶ経緯を示したものである。上記は、善住比丘が善財に告げた教えである。よって、その比丘が、菩薩としてのふるまいとして、ただ一事のみを知っているとし、それが持戒だったのである。

以下には、字面から知られる各戒の意味を挙げておきたい。

大悲戒:衆生への大悲心を持つことを自らへの戒めとする。
諸波羅蜜戒:六波羅蜜の実践を、自らへの戒めとする。
乗大乗戒:大乗の教え、理念にのみ基づくことを、自らへの戒めとする。
不捨菩薩道戒:菩薩としての行い、理念を捨てないことを、自らへの戒めとする。
滅障礙戒:衆生の修行などでさまたげとなることを滅することを、自らへの戒めとする。
菩薩蔵戒:「蔵」の意味の採り方によるが、菩薩蔵を、大乗経典だとすれば、それに依拠することを自らへの戒めとする。
不捨菩提心戒:菩提心とは悟りを求める心だが、それを捨てないことを自らへの戒めとする。
一切仏法深心戒:一切の仏法を深く心に銘じることを、自らへの戒めとする。
念一切智不忘失戒:一切智という仏陀の智慧を思い、忘れ失うことがないようにすることを自らへの戒めとする。
如虚空戒:虚空の如く、一切の智慧や衆生を受け入れることを、自らへの戒めとする。
一切世間無所依戒:一切の世間の価値や観念には依らないことを、自らへの戒めとする。
不可壊戒:これは、意味が分からなかった。理由として、他に典拠が無いからである。仏法を壊さない、という程度の意味だろうか?
無譬諭戒:これも、意味が分からなかった。譬喩が無いことを自らへの戒めをするというのは、方便を用いて説法する菩薩として、どうなのだ?と思うのだが、もしかすると、直截に教えを示す意味があるのだろうか?
不濁戒:これは、濁っていない、純粋に教えを学ぶという戒めである。
不雑戒:混じり物のない、純粋に教えを学ぶという戒めである。
離疑戒:学んでいる教えへ、疑念を挟まない、という戒めである。
清浄戒:清浄であるという戒めである。
離塵戒:世間の塵(煩悩)を離れるという戒めである。
離垢浄戒:垢と浄らかさという分別から離れる戒めである。


以上である。幾つかは意味が分からなかったり、こちらの推測をもって意義を振った例もあるので、参考程度ではあるが、以上の内容だといえよう。

順番について、思想的な意義があるのか?と思っていたが、どうもそういう法則も分からない。また、大悲戒が重要には見えるが、中盤や後半の戒も、菩薩のあり方としては重要そうに思える。なお、個人的に大事だと思えたのは、「乗大乗戒」「不捨菩提心戒」「念一切智不忘失戒」などであり、また、根本的だと思えたのは、「如虚空戒」である。

いわゆる虚空蔵菩薩と同じような発想なのだが、これは、こういう経典に当てはめても良いのだろうか?虚空蔵菩薩の登場は、大乗仏典上でも、それほど古いわけではない。でも、『大般若経』には見えるのか。密教経典ばかりだと思っていたので、少し安心した。

ということで、大乗の菩薩たるもの、多くの戒めとともに、自ら誓願を発して生きる存在だといえよう。

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