<歩いたところのH30年の航空写真>
●歩いた日:2023年7月31日(月)
●歩いた所
・黒 鐙(清水):上黒土、金鐙
・国 見(横沢):下仲島、豊成、新山、大動防、八幡前
・東長野(豊川):新山
●歩いたログ(足跡)(道のり7.3km)
(以上の地図:国土地理院)
(📸014の「八幡神社」から)県道に向かう。道端の稲である。
(穂が出たばかりの稲)
穂がだいぶ出揃っている。7月中にこれだけ穂が出ている田んぼは、田植えが早かったのだろう。自分で稲づくりをしていた頃は、穂が出、重みで次第に傾いて来るのを見ると、うれしくなったものだ。
県道に戻るも、すぐ神社脇を通るあぜ道を南に向かう。田んぼ中で東を望む。
📸015:「金鐙」の風景6
農道奥は、先ほど立ち寄った「金鐙多目的研修センター」が建つ木立の中の集落。
左端に赤い屋根の「高橋酒店」が見える。
前回の「長野・清水を往く」で歩いた道に出、南に少し行ったところで北東を望む。
📸016:「金鐙」の風景7
奥の木立は「斉内川」沿いに連なる木立。その裾に県道沿いに建ち並ぶ「金鐙」の家々。今度は右端に「高橋酒店」が見える。
しばらく南に歩いて、車を止めた「上黒土」の「八幡神社」に戻る。
日が照ってきた時に持参した日傘を広げると、田んぼを渡ってくる涼しい風とあいまって、暑さがだいぶ和らいだ。しかし、途中から風が少し強くなってきて、傘をさしているのが鬱陶しくなってきた。また、写真を撮るたびにすぼめるのも面倒で、暑くても日傘は??。
最後に歩いたところの航空写真をご覧いただく。まずはH30年の写真。
上段を「斉内川」が流れ、その南側を東西に「県道259号」が走る。整然と整備された田んぼが広がるが、濃い色のところは稲を、薄い色のところは大豆などを作る田んぼのようだ。
左下に車を停めた「上黒土」の「八幡神社」が写る。橙色の線が今回歩いた道筋。
中央やや左下に寄った十字路脇に、📸002に写る木立が見える。
中段右端、「県道259号」の南側に「家がある」と記入したところに留意しておいてほしい。
「東長野新山」と記入したところが、「斉内川」の北側、「豊川東長野」の飛び地になっている屋敷である。
左上、「坂ノ上橋」の下流側(左側)に示した「堤防?」が、📸013に写る二本の堤防上の道と思われる。これについてはS50年の写真でも確認してみたい。
次にS50年の写真。
左下隅に車を停めた「上黒土」の「八幡神社」が写る。
中央から東側(右側)の田んぼの大半がまだ未整備で、この後に見るS23年当時の様子を色濃く残している。
左下寄りの十字路に📸002に写る木立が見えるが、どうも小さな木立のようだ。本文で「昔の辻に立つ木立のような風情である」と書いたが、田んぼの整備にあわせて通された十字路の脇に新たに植えられた木かもしれない。しかし、田んぼの一角に木を植えるだけの土地を残すこともないと思われるので、何か、訳ありの土地のようにも思えるのだが・・・?。
ピンク色の線は、現在の「県道259号」の道筋である。田んぼ整備に伴って付け替えられたようだ。
県道の右端、県道の南側には家が建ち並んでいない。県道の付け替えによって、家が移転したと思われる。
黄色の線は、今回歩いた道のうち、当時は道がなかった部分である。「東長野橋」の南側は、当時は曲がりくねった道の延びていることがわかる。
「坂ノ上橋」のところをご覧いただきたい。橋の北側に道がない。橋を拡大して見ると、橋がかかった直後でまだ工事の最中のようだ。
橋の下流側に記入した「堤防?」と記入したところが、当時築かれていた堤防のように思われるが・・・。これだけでは不十分なので、川に接するように建つ家のすぐ裏(北側)にもその後堤防を築いたのはないか。
堤防といえば、「東長野橋」の下流南側にはすでに築かれているようだ(「堤防⇓」)。ただ、堤防と田んぼの間に細長い荒れ地のような土地があることに留意しておいてほしい。
最後にS23年の写真。
全体を俯瞰すると、「斉内川」の北側の田んぼは区画整理されている一方、南側の田んぼはすべて未整備の状況にある。
従って、南側の道筋は現在と大きく異なっており、現在の「県道259号」をピンク色で示したとおり、右側の部分のほか、左上の「金鐙」の「八幡神社」近くの部分も付け替えられたことがわかる。また、今回歩いた道筋の一部を黄色で書き入れた。
左下に車を停めた「上黒土」の「八幡神社」を確認できる。また、左上に見える「金鐙」の「八幡神社」は境内・清水が鬱蒼とした木立に覆われている。S50年の写真では少しの木立しか認められないので、この後伐採されたようだ。
📸002に写る木立の位置は、現在の道路が通る以前ではっきりわからないが、左下寄りの「木立?」と記入した辺りか?。
右上隅、「東長野橋」をS50年の写真と比べて見ると、微妙に橋の位置が異なっている。黄色線で記入した現在の道にまっすぐ接続するように架け替えられたようだ。
ところで、橋の南たもとから西に延びる幅広の白い線(「道?」と記入したところ)は何なのだろう。一見すると堤防(の上の道?)と考えられる。しかし、白い線は田んぼに直接接しており、S50年の写真に見える堤防は、南側に荒れ地のような土地があったので、その堤防は橙色で示した線になると思われる。堤防を築き直したとも考えにくいので、この白い線は堤防を築くための工事用の道路なのだろうか?。
田んぼが未整備であるということは、地形をよく現れているとも言える。飛び地である「東長野新山」の屋敷の南側一帯の田んぼを見ていただきたい。いかにも川が蛇行していたことを示す馬蹄形の地形になっている。また、📸009に写っていた河岸段丘は、「B」の家のところからまっすぐ西に延びていた。これらのことから、かつては飛び地の屋敷の南側を川が流れており、「東長野」と地続きになっていたと推測される。
(終わり)
●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:605.7km)
累計の道のりが600kmを越えました。が、まだまだ先は長いです。
次回からは、「斉内川」の南側のさらに上流部になります。しばらく「斉内川」シリーズが続く予定です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます