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ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧中仙町豊岡を往く(その6、終)

2020年09月22日 | 旧中仙町を往く

<歩いたところのS23年の航空写真>

★旧中仙町豊岡を往く(その6、終)

●歩いた日:2020年8月3日(月)

●歩いた所

・豊岡:杉ケ崎、椿、中荒井野、中荒井、上野、高野

・栗沢:北野、伊勢ノ腰、社前、下村、一本木、白岩街道ノ下

●歩いたログ(足跡)(道のり6.3km)

(以上の地図:国土地理院)

 (📷017の地点から)少し西に進む。

📷018:「白岩街道ノ下」から「高野」方面を望む

 左端の木立が「高野八幡神社」。青い屋根の家の右手に鳥居が小さく写る。中央の木立の右脇を奥に進んで、山際の「北野」、「伊勢ノ腰」に向かった。

 この日は8月3日、手前の田んぼは田植えが早かったのだろう、稲の色が黄色っぽくなってすでに穂が出そろっている。

📷019:「白岩街道ノ下」から「杉ケ崎」方面を望む

 赤い屋根は「豊成中学校」の体育館で、その左下に野球場のバックネットと資材庫のような小さな建物がある。その建物のところに私の車の屋根だけが写る。

 左手奥の木立は「仙北平野」の用水路沿いの杉林で、「豊川・豊岡を往く」で水路沿いの道を歩いた。

 道から下りて車に向かう前にもう一度小学校がある「豊岡」の中心部の方を望む。

📷020:「杉ケ崎」から「中荒井野」方面を望む

 左端の緑色の大きな屋根は、公民館「豊岡分館」の隣にある体育館。その右手奥辺りが「豊岡小学校」である。

 「東山」に三つの山が見える。左奥が「白岩岳」、その手前の真ん中が「小滝山」、さらにその右手前が「扇形山」である。

 中学校野球場のバックネット裏に止めてある車に戻る。

 最後に古い航空写真(国土地理院)で地域の変遷を見てみる。
 
(S51年)

 田んぼの様子を見ると、下の「栗沢川」沿い、「高野八幡神社」のある「高野」の南側はまだ未整備の状態であるが、そのほかは四角の形状で整備が終わっている。

 中央に「田沢疎水」の、左端に「仙北平野」の用水路がそれぞれ南北に走っている。また、右端の山中には「第二田沢」の用水路が写っており、水色の破線で示したところは隧道(トンネル)となっている水路の部分である。

 下の水色の実線は現在の「栗沢川」の流路である。流路沿いの田んぼの区画整理時にまっすぐに付け替えられたのだろう。併せて、道も現在の橙色の線でなぞった道筋に付け替えられている。

 さらに道は、「県道50号」と書き入れた部分がまっすぐに整備され、「豊岡小」の西側に新設(いずれも橙色の線)ことがわかる。

 小学校のある辺りは「中荒井野」、「高野八幡神社」のある辺りは「高野」で、いずれも「野」が付く。また、「豊成中学校」があるところはかつて「柏木野」と呼ばれていたとあった。この地域一帯は水が不足し、開田できない原野状の土地が広がっていたことが地名の由来になったと考えられる。

(S23年)

 だいぶ見づらい写真であるが我慢していただきたい。

 写真中央から左下にかけて、広大な原野状の土地が連なっている。田んぼは上部と下部に広がる。上部には「小滝川」(上端右手にのぞいている)が、下部には「栗沢川」が流れているので、この水を利用して早くから田んぼが拓かれたのだろう。

 中央に「田沢疎水」の用水路が、左端には現在の「仙北平野」の用水路(「仙北平野」の事業が着工されたのはS40年代なので、当時は「上堰」の用水路)が写っている。現在はこれら用水路の恩恵で、S51年の写真に見るように、原野の大部分が田んぼに変わっている。

 なお、「田沢疎水」と「上堰」の水路の間に、曲がりくねった筋状のもの写る(「水路?」と示したところ)。水路そのものにしては幅があり過ぎるように見えるので、工事中の水路であろうか。S51年の写真にはその痕跡がまったくないので、何なのかよくわからない。

 道筋はS51年とほとんど同じである。

 道を挟んで「豊岡小学校」の向かいに「豊栄の松」が見える。「明治」時代の旧「豊岡小学校」は松が生える道の東側にあったとのことである。松の木の奥は広場になっており、石碑も建っていたが、学校の敷地にしては狭いな、と思った。しかし、この写真を見ると、「田沢疎水」の水路の東側にも四角い土地があり、学校の敷地はこちらにも延びていたものと考えられる。

 ところで、その水路の東側の土地を含めて、点状のものが等間隔に並んでいる土地が何カ所か見られる。植林(果樹園?)をして間もない土地なのだろうか。

 最後に、上段左寄りの、ピンク色で囲んだ三叉路に注目いただきたい。S51年の写真でこの場所を見るとその三叉路が残っている。今回歩いた時も公民館分館前を南北に通る道ができたにもかかわらず、この三叉路部分は残っていた。S23年当時は、「中荒井」方面から来ると、この三叉路から左手に分かれて西に向かう道がメイン道路だったようだ。その後、この辺りの開田や田んぼの区画整理に伴って、メインだったこの道は無くなり、北側を通る道が整備されてメイン道路になったようだ。

(終わり)

●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:475.1km)

 地図の右上、「斉内川」の字の北東部分の赤線が今回歩いたログです。

 次回からは、我が家のすぐ近く、「旧大曲市四ツ屋」の中心部を歩いた記事を連載する予定です。


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