<「下黒土」の一角>
●歩いた日:2023年7月6日(木)
●歩いた所
・長野(長野):小合田、太田袋、杉ノ窪、五百刈、神林、関根
・黒鐙(清水):下黒土、上黒土、金鐙、瀬川
・賢木(清水):北又
●歩いたログ(足跡)(道のり7.3km)
(以上の地図:国土地理院)
(📸001の跨線橋から下って)「神林」集落のすぐ手前まで進む。
📸002:「神林」の一角
集落に入る手前に大きな水路がある。
その脇にある小さな小屋(消防器具の格納庫?)の看板を読むと、「この川は以前『びるがわ』とよばれ、『一部の清水』から湧きだすだけのきれいな水で、色々な魚やきれいな川草がゆれていました」とある。ログ地区を見ると「金鐙」の辺りまでこの水路が書き込まれているので、そこに「一部の清水」があるのかな?。それとも「あった」のかな!。
橋を渡って南に向かう。少し行くと右手に「神林部落会館」がある。さらに集落の中を進む。農村集落ではあるが、建設会社の大きな建物も建つ。
集落を抜けたところで振り返る。
📸003:「神林」の一角2
道奥に跨線橋への坂道が写る。道から奥まったところにも何軒かの家が建つ。これらの家々は昔の道筋に沿って建っていたのだろうか。
写真の丁字路付近が、旧「長野町」と旧「清水村」の境になっている。
「旧清水村」はそのまた旧「賢木(サカキ)村」、「黒鐙(クロアブミ)村」、「沖ノ郷村」、「野口村」が「明治」の立村・合併時に合併して誕生した村だが、その「黒鐙」の「下黒土(クロヅチ)」を南に向かう。なお、「地名へのいざない」によると、「黒鐙」は「黒土」と「金鐙(カナアブミ、カナブミ)」が合併して誕生した合成地名と記されている。
南に少し行くと、道端に立派な石碑が建つ。道路側には雄渾な字で歌のようなものが刻まれている。どんないわれの石碑だろうと裏に回ってみると・・・。「大潟村」(「八郎潟干拓地」)に入植してその地に根をおろした人が、かつて先祖代々住んでいたこの地に、家の歴史を刻んだ石碑である。ルーツを子孫に伝えるために建てた碑のようだ。
ゆったりと建つ「下黒土」の家々のたたずまいを眺めながら、しばらく進むと十字路がある。そこを突っ切って少し行ったところで振り返る。
📸004:「下黒土」の一角
奥から来たところ。十字路左手の角に建つ建物は「下黒土北会館」。
きれいに植えられた花畑の脇にはりっぱな看板が立つ。それによると、花は環境を守る集落活動の一環として植えられているもののようだ。実施主体として「下黒土北・神林活動組織」とある。ずいぶん硬い名称だ。
十字路に引き返し、右折して東に向かう。
📸005:「下黒土」の風景
道奥が前掲写真の十字路。
道右手、手前の田んぼは稲が植えられているが、奥は大豆に転作されている。この後歩いたところにも大豆に転作された田んぼが随所に見られた。大豆は湿害には弱い作物なので、この辺りの田んぼは整備に際して排水を良くしたのであろう。
道から少し離れたところにかたまって建つ数軒の家があるので、そのたたずまいを見るため、左折して北に向かう。一回りするように通っている道をたどる。
📸006:「下黒土」の一角2
奥から手前に、そして左、鋭角に右と折れて立っている位置に来たところ。左手の家に向かっている道は、入口のところで左折して私が立っている道に合流している。これは昔の道筋を示していると思われる。昔の航空写真で確認してみたい。
(③に続く)
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