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青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

小さな小さな神さま・13

2025-04-17 01:51:50 | 小さな小さな神さま


  8

 小さな神さまは、女神の前を辞されますと、青い竜に乗って、早々と谷へと帰られました。
 途中、大羽嵐志彦の神の盆地に寄られ、三つの珠をお返しし、十分にお礼を言われ、また、おふた方の分け身を傷つけてしまったことを、深くおわびしました。大羽嵐志彦の神は、笑ってかぶりを振られ、おっしゃいました。
「にんげんを育てることになされたのですね」
「はい」
 大羽嵐志彦の神は、心より祝福をなされました。小さな神さまは、ほほ笑んで受け取られました。そして今、赤子のようであった小さな神さまのお姿は、童子のようにりりしく成長して見えたのです。
 谷では、分け身の神が、つつしんで待っていました。小さな神さまが帰られ、留守を守ってくれたことへのお礼を述べられますと、分け身の神はすいと珠にもどり、小さな神さまのお口の中へ吸い込まれました。そして小さな神さまは、山のてっぺんに立ち、谷を見渡しました。
 谷は以前と変わりなく、大喜びで、小さな神さまを迎えました。風が緑の木々の上を吹き渡り、喜びのあまりに空を飛んで大きく宙返りをしました。小さな神さまは、ほほ笑んで、「よい」と言われました。
 小さな神さまは、女神にいただいた銀砂を、さらさらと山の上にふりまかれました。すると山は、まるで神の種をはらんだ乙女のように、ざわざわと総毛立ち、喜びとも悲しみともつかぬような切ない息を、深々とついて、小さな神さまのお手を乞いました。小さな神さまはそんな山の頂をやさしくなでながら、おっしゃいました。
「そうか。おまえも待ち遠しいか」
 そうして、小さな神さまは、いつものように谷を一回りされると、最後に水晶の洞窟にお入りになって、御座にお座りになりました。水晶たちのかなでる宇宙の調べに耳を澄ましながら、小さな神さまは、二百年の時を、静かに待つことにしました。
 新しい水晶の芽が、洞窟のあちこちで、星屑のように、ちんまりと顔を出していました。

  (おわり)


 

 

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小さな小さな神さま・12

2025-04-16 02:30:08 | 小さな小さな神さま

 小さな神さまがしばし口ごもっておられますと、女神はそっと両のたなごころをあわせて、優美な椀をこしらえ、傍らの湖にそれを浸しました。見るとその椀の中には、赤や青や黄や、中には灰色や黒のものまで、色とりどりの核が盛られてありました。女神がお手を小さく揺すられますと、その中の核も、しゃらしゃらと心地よい音をたてて揺れました。
 やがて核は、湖の水に洗われて、まるで燃え始めた石炭の粒のように、それぞれに内部から光り始めました。女神の手から、虹が小さな魚のように次々とあふれ出ました。女神はその様子を笑顔でごらんになると、傍らの手箱の中に、その核をさらさらと注がれました。よく見るとそれは手箱ではなく、小さな朱塗りの社でありましたが。
「あなたのつかさどっておられる谷は、どんなところでございましょう」
 女神はもう一度手で椀をこしらえながら、おっしゃいました。すると小さな神さまは、思い出したかのように、懐から小さな巻物を取り出されました。
「ここに地図を持ってまいりました」
 小さな神さまはおっしゃると、その巻物をぱらりと広げられました。すると巻物の中から、突然青々とした山が高く盛り上がりました。そして見る間にせせらぎがきらきらと光りだし、愛らしい野花が緑の中に点々と灯りだし、あちこちで若鹿がひょいと顔を出し、鳥がぴりぴりとさえずりだしました。季節の色は次々と変わり、そのたびに森は、薄紅の花がほわほわとふくらんだり、緑が光るように深みを増したり、紅葉が梢を赤らめたり、寒さに細る枝に白い雪を載せたりしました。奥に目をやれば、もちろんのこと、澄んだ空気を閉じ込めた珠玉のように、白い滝がひっそりと歌っている姿が見えました。
 女神はその様子をしばしごらんになった後、にっこりとほほ笑みながら、おっしゃいました。
「丹精しておられますね。これならば、十分ににんげんを育てられましょう」
 しかし小さな神さまは、恥じ入るように、あわてて地図を巻き戻しました。
「どうされましたか」
 にんかなの女神が尋ねられても、小さな神さまはしばし答えることができませんでした。沈黙が痛く胸にこすりつけられました。やがて小さな神さまは、声をしぼり出すようにおっしゃいました。
「この身が、恥ずかしいのです。わたしは、確かに、この谷を愛し、慈しんできた。しかし、あのように、……我が身を割り砕くまでに、何かを愛したことは、一度もなかったのです」
 にんかなの女神は、澄んだ深い湖のような瞳を、遠い地平を見はるかすように細められて、小さな神さまを見つめられました。そしてほほ笑まれ、静かなお声でおっしゃいました。
「愛は時に、愉悦とはよほど離れた苦をもたらすものです」
「はい。この身に染み入ってございます」
「では、もうにんげんをお育てにはならないのですね」
 小さな神さまは、再び沈黙されました。胸の珠の中で、美羽嵐志彦が息をひそめて聞いている気配が、重く感じられました。
 今、小さな神さまのお胸の辺りでは、ある一つの言葉が、月満ちて今しも生まれようと、もがいていました。小さな神さまは、その言葉を生もうか、どうしようかと、悩んでおられました。生まずに、飲みこみ、混沌へと投げこむこともできました。
 小さな神さまは、ご自分の中へ問いを発しました。どうすればいいかと。しかし、答えはありませんでした。元より、小さな神さまにはもう分かっていました。言葉は生んでみなければ分からぬことを。そしてもはや、後もどりはできぬことも。
 小さな神さまは、お口を開きました。待っていたかのように、言葉は生まれました。小さな神さまは、こうおっしゃいました。
「……そだてて、みたい……」
 小さな神さまは、不意に脱力感に襲われました。今し方生まれた言葉が、嬰児のように泣きながら小さな神さまのお胸に宿りました。切ない潮の高まりが、いずことも知れぬ奥底からいっぺんにわきあがり、小さな神さまのお心を、しばし船のようにもてあそびました。小さな神さまはお顔をおおいました。嗚咽が生まれました。
 にんかなの女神はかぎりなくやさしく笑いました。そして、おっしゃいました。
「よろしい。少しの間、お待ちください」
 女神は、再び椀をこしらえ、その中の核を湖の水でゆすぎました。虹が魚のように躍り出ました。女神は、その核を、手箱に流しこむ前に、そっと小さな神さまの前に差し出され、おっしゃいました。
「この中からお選びになるとよいでしょう」
 小さな神さまがのぞきこんでみますと、中の核たちは、ちらちらと光りながら、何やらもぞもぞ動いたり、こそこそとささやきあったりしています。おやおや、中にはキノコのように伸び上がるものや、くるくるとせわしなさそうに走るものもいます。鈴のようにきれいな声で歌おうと、懸命に声をはりあげていたりするものもいます。ふと見ると、チコネによく似た薄金色の核が、隅に静かにたたずんで、もの問いたげに小さな神さまを見上げていたりもしています。
 小さな神さまは、静かにそれらをごらんになっていました。小さな神さまのお心は、次第に、湖のように平らかになってゆきました。小さな神さまは、そっと、おっしゃいました。
「この中に、わたしの許に来たいものは、いるか?」
 すると、核たちは、ぱっと明るく輝きました。小さな神さまはほほ笑まれました。再び、情愛がふくふくと生まれてきました。涙があふれ、それらは星のように輝いて、ぽたぽたと女神のたなごころに落ちました。
「そうか。ではおいで。わたしは、おまえたちのために、できることなら、なんでもしてやろう」
 小さな神さまは静かにおっしゃいました。するといくつかの核が、狂喜したようにぱちぱちと暴れまわりました。やがて核たちは、淡い虹色の光を、ふかふかと放ち始めたかと思うと、小さな声を合わせて歌い始めました。小さな神さまはその歌を受け取り、ゆっくりとうなずかれました。
 女神は、ふうふうと、なだめるように核たちに息をふきかけました。すると核たちは、眠りこむように、静かにたなごころの底に沈みました。そして女神は、核たちをかたわらの社の中へと、さらさらと流しこみました。
「これで準備は終わりました」
 女神はおっしゃいました。小さな神さまは、深々とお辞儀をなされ、女神に感謝の心を捧げられました。
「にんげんは、いつ、わたしの谷へやってくるでしょう?」
「二百年ほど、かかりましょう」
「二百年ですか」
 いつしか、小さな神さまのお手の中には、二百年の時間が、美しい銀砂の山となって、盛られていました。

  (つづく)





 
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小さな小さな神さま・11

2025-04-15 02:21:47 | 小さな小さな神さま

  7

 やがて前方に、再び青々とした陸が現れました。
 小さな神さまたちは、無言で陸の迎えを受け入れました。海が陸に接する境界では、白砂が弓なりの陸の縁を美しく彩り、漁をするにんげんたちのきまじめな営みがそこここに見えました。しかし小さな神さまは、そんなにんげんたちをもう見ようとはなさいませんでした。お目はただ前方のみを見つめ、お口元は固く閉じられているだけでした。
 やがて、なだらかな山並みをいくつか越えると、向こうからおふた方の神が、こちらにおいでになるのが見えました。小さな神さまはふと竜をとめ、その神さまたちが来られるのを待ちました。
「大遅此芽稚彦の神でいらっしゃいますか」
 おふた方の神は、小さな神さまのお前に立たれますと、ていねいにお辞儀をなされ、声をそろえておっしゃいました。小さな神さまも額を下げられ、ごあいさつをなさいました。
「にんかなの神でいらっしゃいますか」
「いいえ、わたくしどもは単なる遣いのもの。あなたがたがいらっしゃるのが分かりましたので、にんかなの神がお迎えにいってこいと仰せになったのです」
 おふた方の神は、どちらも白と金の美しいお衣装をまとっておられ、お首元には青やら朱やらの美しい瓔珞を回されておりました。細やかな輪郭をすがすがしい光が囲み、何やらそばにいるだけで、マによって沈みがちであった小さな神さまのお心が、癒されていくようでありました。
 やがて、おひと方の神が、そっと手を出されておっしゃいました。
「そのお手の上のものは、どうぞこちらに」
 見ると、小さな神さまのお指の上で、チコネはすやすやと眠っておりました。
「これは、久香遅の神より託された大事な核です。久香遅の神は……」
 小さな神さまがおっしゃるのをさえぎるように、もうおひと方の神が笑顔でおっしゃいました。
「すべては分かっております。ご安心なさいますように。大事にお預かりいたします」
 それでも、しばらくの間、名残を惜しむかのように、小さな神さまはお指のチコネをなでておられました。
「永遠の別れはないものでございます」
 おひと方の迎えの神がおっしゃいました。小さな神さまは一息つかれますと、お指からチコネを解き放ちました。チコネは、ふらふらと蛍が飛ぶように、お遣いの神の手元に吸い寄せられました。
「では、どうぞこちらへ」
 おふた方の神は小さな神さまの両脇に並ばれますと、にこやかにほほ笑まれて、小さな神さまをいざないました。小さな神さまは、無言で、従いました。
 そこから、連山の帳を二つほど越えると、不意に、空の下に広がる巨大な山容が、眼前を領しました。小さな神さまは、その大きさとみごとな形に、声にならぬ声を、あげました。
 大羽嵐志彦の神の、おっしゃった通りでした。にんかなは、小さな神さまがこれまで見たどのような山とも違う、またとないほど美しい峰でした。
 それは、未だ見も知らぬ貴いお心の、天よりもたらされた吐息の静かな広がりのように、大地に向かって広々と、涼やかに、垂らされておりました。天に向かう大地の勇猛な野心は微塵も感じられず、まるでひとひらの風に描かれた巨大な絵のように、軽々と眼前に座し、それでいてその膨大な山量からくる威容には、神をも人をも、涙をもってひれふさせるに十分な力がありました。小さな神さまは圧倒され、お目に涙を灯されました。
 お遣いの神が峰の向こうに消えた後、小さな神さまは山のふもとの鏡のような湖のほとりに、ふんわりと降りられて、さえざえと澄み渡る感動に導かれるまま、声高らかにおっしゃいました。
「にんかなの神はいらっしゃいますか」
「どなたでございましょうか」
 まるで、鈴を風の中に千も転がしたような、澄んだ美しい声が、天空に染み通りました。小さな神さまは、ひざを折り頭を垂れられて、改めてていねいに名乗られ、ごあいさつをなさいました。すると、ふと空気が揺らいで、それまで美しい山であったものが、それは大きなお美しい女神の姿に変わりました。
 女神は青い色をした、みごとなお衣装を着ておられ、その裳裾はゆったりと大きく広がりながら、豊かなひだをそこここの谷や湖畔や川べりに、すべりこませておりました。そのお顔は峰の雪のように白く、たそがれ時の雲のばら色が、ほおの辺りを鮮やかに染めていました。そのほほ笑みは限りなく優しく、なつかしく暖かい光が、お顔の周りにまぶしく満ちていました。
 小さな神さまが、ぼんやりと見ほれておりますと、にんかなの女神はにこやかにおっしゃいました。
「にんげんをご所望でございますか」
 小さな神さまは、ふと我にもどりました。実のところ、どうすればいいか、決めかねておられたのです。

  (つづく)




 
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小さな小さな神さま・10

2025-04-14 01:46:28 | 小さな小さな神さま

 とたん、マは瞬時のうちに姿を変え、空が裂けてこぼれでた闇のように真に暗くなりました。小さな神さまとお三方の神は、剣を振り上げながら立ち向かわれました。暗闇は弾けるように無数に広がり、それはいくつもの頭をもつ不気味な黒竜となって、襲いかかりました。
 一つの頭が、小さな神さまを食おうと、赤い口をぱんと割って落ちてきました。小さな神さまは巧みに避けて横に回りました。その拍子に剣で黒竜の首の一部を傷つけましたが、その傷はぱくりと開くやいなや、ひげの生えるように無数の小さな首を吐き出して、言いようのない不快な臭いをまき散らしました。
 悲鳴が響きました。小さな神さまはあっと声をあげられました。青い珠なる早羽嵐志彦が、黒竜に腹を砕かれ、海に落ちていく様が見えました。
「早羽嵐志彦!」
 叫んだのは於羽嵐志彦でした。美羽嵐志彦が懸命に黒竜の牙を避けながら、必死に叫ぶのが、次に聞こえました。
「於羽嵐志彦! ゆくな! 我を失うな!」
 しかしその声は於羽嵐志彦の耳には届きませんでした。於羽嵐志彦は兄弟を失った悲しみと怒りのままに、剣を振り上げ、のどの裂けるような声をあげながら、黒竜の一際大きな首に向かってゆきました。
 小さな神さまは、海に落ちる寸前で、青い珠を拾いあげました。珠の痛々しく欠けているのをごらんになったとたん、今度は朱い珠なる於羽嵐志彦が落ちてきて、小さな神さまはあわててそちらに走りました。二つの珠は小さな神さまのお胸にかえりましたが、しかしもう元の姿にもどることはできませんでした。
 黒竜は力衰える様も見せず、小さな神さまたちを飲みこもうと襲ってきました。美羽嵐志彦にはもうその鞭のような無数の首を避けるのが精一杯でした。小さな神さまにも、もはやほどこす手を思いつくことができませんでした。首は、剣で傷つければ傷つけるほど、次から次へと増えるほです。
(どうすればいい、どうすれば……)
 小さな神さまは必死に考えました。しかし小さな神さまは未だ、戦うことが非常に不得手なのでした。元より憎悪の塊であり、相手を滅しようとする怨念の化身であるものに、力でもって勝てる方法を、小さな神さまは未だしっかりと得てはいませんでした。これはもはやだめかもしれぬと、小さな神さまは思われました。しかし、その小さな神さまのお手の上で、チコネが震えながら何度も叫んでいました。
「おとうさん、おとうさん! 助けてください!」
 そうだ。久香遅の神に、チコネをにんかなに連れていくと約束したのだ。ここでへこたれるわけにはいかぬ。小さな神さまが、そう思った、その時でした。
 海が、突然、山のように盛り上がりました。何千もの手で太鼓を打つような音が辺りに響き渡ったかと思うと、暗雲にひびが入り、昼の神のお手が一筋、海に射しこみました。
「吾子よ!」
 太く雄々しい声が響きました。何千もの手を持った巨大な男神さまが、海中から現れて、飛び込むようにマにおおいかぶさりました。マは恐ろしい声をあげて、首という首でその男神さまに咬みつきました。めりめりと、お体の裂ける音が響きました。
 その最中にも、見る見るうちに暗雲は払われ、やがて澄んだ蒼天がからりと現れました。昼の神の下に現れたそのお姿を見て、小さな神さまは声を飲まれました。
 無数の首がもつれあい、もはや醜悪な肉塊としか見えぬマにおおいかぶさった方は、久香遅の神でした。久香遅の神は力という力をふりしぼり、手という手を使ってマを抑えつけていました。お口は一際大きなマの首を深く咬み、ぎらぎらとしたお目は小さな神さまに向かって無言のうちに叫んでおりました。
(さあいけ! わたしにはこやつを抑えておくっことしかできぬ!)
 しかし小さな神さまは眼前の光景をにわかに信じることができず、ただ茫然と立っておられました。そのお手の上で、チコネが気も狂わんばかりに叫んでいました。
「おとうさん! おとうさん! おとうさん!」
(はやく! そいつを眠らせろ! そのままでは割れてしまう!)
 我にかえった美羽嵐志彦が、急いでチコネを口にふくみました。そうすれば核はすぐに眠るのでした。
 その様子を見た久香遅の神は、安心なすったように、ゆらりとお顔を歪ませました。笑っているのか泣いているのか、判断しかねるお顔でした。久香遅の神は、暴れるマを最後の力をふりしぼって締めつけました。そして、一瞬、口を開き、身を割らんばかりのお声で叫びました。
「おおいなる深淵の神よ!!」
 すると。
 水底から、音とも言えぬ音、声とも言えぬ声が、聞こえました。
 膨大な海の水が、瞬間、真に透明なまま凍りついてしまったかのように、巨大な沈黙が深淵から発して、天を貫きました。小さな神さまが下をごらんになると、いつしか深淵の女神のお目が見開かれ、海上の小さな神さまたちを正視していました。小さな神さまは、天地ががくがくと揺れるほどの恐ろしさを、全身に浴びるほど感じておられました。そして凍りついたまま動けぬ小さな神さまの目の前で、女神の石のようなお口元が、ゆっくりと開きはじめました。
 なんと、大きな、お口なのでしょうか。ひとひらの珊瑚のようでさえあった、小さなくちびるは、見る間に亀裂を深めてゆき、まるで水底すべてをおおわんとするほど、大きく大きく、広がりました。そしてそのお口の中には、いずことも知れぬ闇が、満々と湛えられていました。
 闇に染まった黒い海面は、かすかに盛り上がりました。それは果てしない海底から、黒い大きな陸の塊がもぎとられて、音もなくゆっくりとせり上がってくるようにも、思えました。小さな神さまのほおを、理由もわからぬままに、涙が一筋、流れました。
 それは、一頭の巨大なくじらが、にしんの群れを一飲みにする光景にも、似ていたでしょうか。津波のように巨大な女神の口に、マとともに飲みこまれんとする時、久香遅の神は刹那、うっすらとほほ笑まれました。その声にならぬ声が、呆然とその様子をごらんになっていた小さな神さまのお胸に、響きました。
(……最初から、こうしてやればよかったのかもしれぬ。そうすれば、おまえたちを死なせることもなかったろう……)
 やがて、岩のぶつかるような音がして、女神のお口が、がしんと閉じました。女神は何もおっしゃらぬまま、再び深淵に沈まれ、ゆっくりと身を横たえられました。
 昼の神が、ほこらしく中天に輝きました。海面は凪ぎ、板のように照り映えました。
 まるで、何事もなかったかのような静けさの中で、小さな神さまは、がくりとひざを折られました。重い額が、手の中に落ちました。

  (つづく)




 
 
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小さな小さな神さま・9

2025-04-13 02:24:03 | 小さな小さな神さま

  6

 再び、いくつかの山々を越えてゆくと、突然緑の陸がとだえ、広々とした海が現れました。小さな神さまは、海原の上を走りながら、美羽嵐志彦におっしゃいました。
「にんかなは、この海のむこうにあるのか?」
「そうです。この海を越えれば、もはやすぐそこでございます」
 無尽蔵の巨大な海は、子を産んだ女の乳房のように、豊かにたぽたぽと揺れていました。深緑の水はどのような思案もゆき届かぬほど広く深く謎に満ちていて、生き生きとした瞳を持ちながら石のような舌を持つ大いなる女神が、沈黙しながら広々としたお腰を水底の深淵に横たえていました。小さな神さまたちは、その女神の鏡のような青眼の上を、かしこまりながら通り過ぎました。深淵の女神は、もの言いたげに微かにほほ笑まれましたが、それは海面の揺らぎのせいとも思え、はっきりとは分かりませんでした。やがて女神はゆっくりと瞳を閉じられました。
 周囲は島影ひとつなく、ただ渺々とした海と蒼天だけが広がりました。天には昼の神が孤高の輝きを放ち、黙々と飛ぶ小さな神さまたちをじっとごらんになっていました。
 小さな神さまは、不安が再び、小さな羽虫のようにお胸の中でうごめくのを感じられました。背後の気配は、もはや身を隠すところもないので、竜の尾を咬むほどの近くに身をすり寄せながら、じっと小さな神さまたちの気配をうかがっていました。
 珠の中で、お三方の神が、ぎりりと緊張していました。チコネも気配を察して、縮こまっていました。小さな神さまも、もはや無視できなくなり、とうとう声に出しておっしゃいました。
「だれだ。分かっているぞ」
 答えはありませんでした。しかし気配は消えるどころか一層大きく感じられました。小さな神さまは、さっと身を翻して振り向かれました。しかし、そこにはだれもいませんでした。
「何者だ。答えよ」
 小さな神さまのお声が、周囲の海面を打ちました。すると背後で、何やらざわざわと音がしました。小さな神さまがもう一度振り向かれますと、何とそこには、今まで見たこともないような、美しくさえざえと高い山が、海上に忽然と現れておりました。
「これは……、にんかな?」
 小さな神さまは眼前に幻のようにそびえ立つ峰をごらんになって、思わずつぶやかれました。しかし美羽嵐志彦が厳然と言い放ちました。
「ちがいます。これはにんかなではありません」
 三つの珠が次々に弾け、お三方の神が、小さな神さまの周囲を固めるように現れました。小さな神さまは峰の正体を見きわめんと目に力をこめました。するとどこからか、空を割るような高笑いが聞こえました。雷雨が落ちたように、周囲の海面が泡立ちました。竜が脅えて、凍えるように縮こまりました。
 いつしか黒雲が空を覆い、昼の神のお姿が消えていました。青かった峰は怪しく次々と色を変え、ざわざわと虫の這うような音が聞こえました。やがて、めりめりと峰の中央が割れて山肌がめくれ上がり、仲から巨大な一つの眼球が現れました。
 峰の中ほどに現れた眼球は、ぐるぐると周囲を見回したかと思うと、不意に正眼をきめました。これが正体かと小さな神さまが身構えられますと、眼球はぐらぐらと揺れ出し、それを縁取るまつげがざわざわと伸び出し、毛皮のように峰全体をおおいました。眼球は再びつぼんで見えなくなり、代わりに伸びたまつげが中央で分かれて、その間からこの上なく美しい女神のお姿が現れました。小さな神さまがあっけにとられてごらんになっておりますと、女神は次第に年老いて醜い老婆となり、やがて干からびたされこうべになり、がらがらと朽ち果てました。かと思うと、しかばねの上からみるみるうちに大木が生え、それには二目と見られぬ醜い男の顔が、木の実のように無数に生りました。
 小さな神さまは、呆然となさいました。目の前のものは、次々と様子を変えて、一時も同じ姿をしてはいませんでした。花のように美しい乙女になったと思えば次の瞬間にはおどろおどろし蛟になりました。眼涼しい王子に見えたと思えばすぐに醜怪な守銭奴になりました。小さな神さまは恐怖さえ覚えました。お三方の分け身の神はすでに剣を抜いていました。
「何者だ」
 小さな神さまは声高らかに再びおっしゃいました。すると今度は、ろん、と、奇怪な音が周囲を囲みました。そのものは、耳をねじあげるような不快な声で、言いました。
「われは、マだ」
「マ?」
「マ、真、魔、ま……はははは……」
 声は小さな神さまの頭を割ろうとでもするように、圧倒的な力をもってたたき伏せようとしてきました。小さな神さまは内心、これはあぶないと、感じられました。美羽嵐志彦が、叫ぶような声をあげました。
「わが神よ! これこそ、神とにんげんを引き裂くもの! にんげんに慢心を吹きこみ、疑いを植えつけ、命の核を食い物にする魔物です!」
 暗雲がたちこめました。不気味な風が海面をなであげ、波は黒い大きな舌となって小さな神さまたちを何度も飲みこもうとしました。マは変化をやめ黒々とした影になり、再び天頂に眼球を灯しました。眼球は歪み、にたりと笑いました。小さな神さまは、お体の芯に棒が刺さるような驚きを感じられました。
「これか。こやつが、あれらのことの、全ての原因か」
 小さな神さまは今までにごらんになった悲劇の全てを思い起こされました。過ちに陥り、神を見捨てたあげく孤独の果てに魂を飲みこまれていくにんげんたち。見捨てられ打ち捨てられながら、ただただにんげんたちのためにお心を砕かれる神。
「なぜだ! なぜおまえはそんなことをする!」
 小さな神さまは叫ばれました。風がどんどんと響き、マは醜い亀裂のような口を開きました。白い牙が数珠のようにならび、赤黒い口腔を縁取っていました。マはどろどろとした声で言いました。
「なぜ? なぜそう尋ねる? わたしは何もせぬ、何をしたこともない」
「何もせぬと?」
 小さな神さまが繰り返されますと、マは再びにたりと笑いました。そして背筋の寒くなるようなあざけり笑いを、ながながとひきずりました。
「にんげんを飼いたいなら、そうするがよい。神とはそうしたもの。かわいがりたがるもの。だがこれだけは教えておいてやろう。にんげんは、神よりも、マの方が好きなのだ」
「なんと……」
「にんげんは神より生まれた。ゆえに神のくさりを断ち切ろうと常に試みる。自由になりたいと欲するものの願いをかなえて、何が悪い。すべてはにんげんが望んだことなのだ」
 小さな神さまのうちに、憎悪が起こりました。いや果たして、神が何かを憎悪するということが、あり得るものでしょうか。神は愛するものであり、他にできることはないものです。しかし今、小さな神さまのお胸に燃えたものは、憎悪としか言いようのないものでした。悲しみは波のようにうねり、言葉は生まれる前に砕かれて防ぎようのない激情のほとばしりになりました。小さな神さまはそのほとばしりを吐き出しました。それは氷のような、炎のような、鋭い剣となり、小さな神さまはそれをお手にとられました。

  (つづく)





 
 
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