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青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-03-01 03:54:40 | 月の世の物語・余編第二幕

青々と深い緑の森の中の、細長い遊歩道を、二人の青年が歩いていました。季節は夏に近く、まだ蝉の声は聞こえませんが、地中でもぞもぞと羽化の準備にかかっている幼虫の気配がします。濃い緑の香りのする風の中を、時々、神の文字を描いたような不思議な文様をした蛾が、ひらひらと飛んでいきます。

「この遊歩道は、比較的最近に作られたようだね」一人の青年がいうと、もう一人の青年が答えました。「ああ。でも人間は、この道を造ったことを、もう忘れているようだ。手入れもされていないし、あちこちが朽ちて崩れている」
「何のためにこんな道を作ったのだろう?」「それは、そのときは、彼らなりの大事な意味があったのだろう。でも、短い間に、こんな風に忘れられてしまうということは…つまり、作った人間が、あまりよい人間ではなかったんだ。だから、精霊が、人間がこの道を忘れるようにしたんだろう」「道ができて、人間がたくさん森に入ってくるのも、あまり好ましいことではないしね」

青年たちは遊歩道をしばし歩きながら、道の所々に、森を去っていった精霊が描き残した、忘却の意味のこもる印の跡を、見つけては新しく書き直して行きました。森を流れる風にはできるだけやさしく、細やかな愛の歌を歌うことを命じました。あれからもう何年になるか、長い間慣れ親しんだ森の精霊が、ある事故をきっかけに地球を去ってしまったことを、木々たちはたいそう悲しんでいましたが、風の歌う愛と、青年たちの慰めの魔法で、気力をいくらか取り戻し、悲しみに耐えていました。

青年たちが、印や紋章を風に描いたり、歌を歌いながら、森の悲哀を清めていると、ふと、空気がぽんと破裂するような音がして、一人の青年の目の前に、一枚の書類が現れました。
「おや、お役所からの通知だ。…この森の次の管理人がようやく決まったそうだよ」彼がそう言うと、もう一人の青年が、横からその書類をのぞき、ほお、と驚きの声をあげました。
「ふたり来るのか。珍しいな」「…うむ。驚きだ。白蛇の姿をとる精霊なんだが、なんと双子だと書いてある」「精霊の双子なんて聞いたことがない。いや、ぼくたちの種族にしたって、双子なんて見たことないぞ?どういう人たちなんだろう」「ふむ、興味深いことではあるね」そう言うと青年は、指で書類をはじいて、それを小さな石に変え、ポケットにしまいました。

彼らが、悲哀や寂しさの流れる森の中を、慰めの歌を低い声で歌いながら、森の中を歩いていると、ふと、後ろの方から、がさりという音が聞こえました。二人が同時に振り向くと、森の青い下草の中から、それは大きな白い大蛇が、鎌首をもたげて、こちらを見ているのでした。蛇は真珠のような白い鱗で全身をおおわれていて、目は赤銅色の珠玉のようでした。青年たちが、驚いて挨拶をするのも忘れている間に、その白蛇の後ろから、もう一匹の、そっくり同じ白蛇の頭が、がさりと出てきました。

「こんにちは、はじめまして」二匹の白蛇は声を合わせて、ふたりに挨拶しました。青年たちは慌てて挨拶を返しました。白蛇はさらさらと静かな音をたてて下草の中をはいつつ、青年たちに近づいてくると、同時に変身を解きました。するとそこにいつしか、髪も肌も服も全身雪のように真っ白な、そっくり同じ美しい若者がふたり立っていたのです。姿は人間とほぼ同じでしたが、違うのは赤銅色の目の瞳孔が縦に細長いことと、唇の奥に小さな牙が見えることでした。彼らはそれぞれ、他人が自分たちを見分けることができるように、違う色の小さな胸飾りをつけていました。ひとりは瑠璃の胸飾りを、もう一人は柘榴石の胸飾りを。

「お役所の命でやってきました。森林のシステム管理をするのは久しぶりですが、誠意をもって力の限りやるつもりです」「今まで少し、森の中を散策して様子を見ていたのですが、なかなかに美しい森だ。前任者は、とても立派な仕事をなさっていたようですね」
精霊たちがいうと、青年の一人が少し悲哀の混じった声で答えました。
「ええ、それは古い時代から、この森を管理してくれていました。遠い昔は、森の神として人々にとても尊敬されていたこともありました。でも人間が、精霊や神の存在を信じなくなってから、辛いことがたくさんあったようです。人間が勝手に木を切り、道を作り、神にも森にも木にも何の感謝も尊敬もすることなく、たくさんのものを森から盗人のように奪ってゆく。彼は人間の礼儀知らずをとても悲しんでいたそうです」

青年たちが言うと、二人の精霊たちは顔を見合わせ、しばし何やら、二人にしかわからないことばで会話をしました。青年たちは、この双子の精霊を、失礼とは思いつつも、つい驚きの目でじろじろと見つめてしまいました。声も顔も全く同じ精霊がふたりいて、話をしている。こんな珍しいものを見るのは、初めてだったのです。というより、あり得ないのではないかとさえ、感じるのです。

青年たちの視線に気づいて、ふたりの精霊は声を合わせて、少し笑いながら言いました。「双子が珍しいのでしょう。確かにわたしたちは、かなり珍しい存在のようだ。自分たち以外に、双子など、見たことがありませんから」すると青年たちは慌てて失礼を詫びました。「…地球上の生命に双子や三つ子などはよく見ますが、我々のような存在に、双子がいるなど思いもしなかったのです。存在というものは、皆同じ愛ではありますが、ひとりひとり顔も心も違うのが当たり前ですし…」青年たちのうちの一人が言うと、瑠璃の胸飾りをした兄の精霊が言いました。「わたしたちにも、違うところはありますよ。弟は少々せっかちだが、わたしは物事をよく考えて落ち着いて行動する方だ」すると柘榴石の胸飾りをした、弟の精霊が異を唱えました。「それは聞き捨てならない。せっかちというより、わたしのほうが兄さんよりやることが早いんですよ。兄さんは少し考えこみすぎるんだ」青年と精霊たちは、声をあげて笑いました。

しばしの会話の後、青年たちは、双子の精霊を、森の中を案内して歩き回り、前の精霊が残していった、魔法の印や不思議な石組みのある古い祠の場所を示しながら、様々な注意点を教えてゆきました。空から見守る神のまなざしを感じつつ、青年たちは精霊に仕事をひきついでいきました。それには、ひと月ほどもかかったでしょうか。

森林の奥には、小さな水たまりのような池があり、その中には小さな水棲昆虫や、蛙が生きていました。周りにすがすがしい青草が茂り、水気も光の具合も白蛇の棲むにはちょうどいい場所でありましたので、双子の精霊はそこをねぐらとし、森を管理してゆくことになりました。

「これでほとんどのことは伝えましたね。ほかに、何か質問はありませんか?」一人の青年が言うと、精霊たちはかぶりを振りながら言いました。「いや、今は特にありません。後々に何か疑問点が見つかっても、二人でなんとかやっていきます。神も助けてくださいましょうし、森の木々や動物たちも、わたしたちを気に入ってくれたようだ」「みなわたしたちが、そっくり同じなのを、たいそう珍しがって、喜んでいたねえ」
精霊たちが言うと、青年はほっと息をついて、言いました。
「ああ、これで何とかなりそうだ。ありがとう。心よりお礼を言います。この森が消えてしまうと、それは大変なことになるので」

青年たちは去ってゆく前、森の真ん中の草むらで、精霊たちと並んで座り、神に祈って正式な引き継ぎの儀式をした後、深く神に感謝し、この森がいつまでも豊かであるようにと祈りました。儀式が終わった後は、もう青年たちは帰ることになるのですが、その前に、青年たちはどうしても精霊に聞きたくてたまらないことがあったので、とうとう言ってしまいました。

「一体、双子とはどういうご気分なのですか。まるで自分と一緒の者が、もう一人いるというのは。ぼくには全く想像できないんですが」すると双子の精霊は顔を見合わせ、少し苦笑いをし、言いました。
「どうっていってもなあ、わたしたちは、ふと気づいた時にはもう、ふたりでしたから」
「ええ、わたしのほうが先に、気付いたんです。そのときわたしたちは真空の精霊でした。ふと、自分の存在に気づいたら、太陽風の中で星の清めの歌を歌っていたのです。そして隣に、もう一人いた。まるでわたしにそっくりだったので、わたしはそいつのほうが、わたしなのではないかと思ったほどでした」「ええ、そう。わたしは三分ほど遅れて自分に気付いたのです。だから弟になったのですが、同じことを思いました。隣にわたしそっくりなのがいて、これがもしかしたら、わたしなのかと」

「自分を間違えてしまうことなんか、ないのですか。ぼくだったら、自分そっくりなのが、隣にいたら、どっちが自分なのかわからなくなってしまいそうだ」青年の一人が言うと、双子の兄の方が答えました。「それは、実は、時々あります。神は何で、わたしたちをこういう風にお創りになったのかなあ。時々、弟のしていることが、自分のしていることのように感じることがあるのですよ。弟も、時々、そういうことがあるそうです。わたしたちは何やら、『自分』というものが、不思議に交錯しているようだ」すると、弟の方も言いました。「…ええ、ずいぶんと前、兄がムカデの怪に体を刺されたとき、その毒がぼくの体の方にも、しみ込んできたということもありました。なぜなのかは、全くわからない。疑問はたくさんありますが、まあわたしたちは特に気にせず、同じ時は同じ、違うときは違うと割り切って、ずうっと仲良くいっしょに生きてきました」「ただ、わたしたちは、離れて生きるということは、できないらしいです。遠く離れようとすると、自分がちぎられるように、痛いのです。…なんというか。わたしたちは、もしかしたら、ほんとうにひとりなのかもしれないね」兄がそう言うと、弟が深くうなずきました。「ええ、時々わたしもそう思う。体は二つあるし、どちらにも心はあるけれど、わたしたちはもしかしたら、ひとりの精霊なのかもしれない…」
双子の精霊の話を聞きながら、青年たちはただただ驚いてふたりを見ていました。そうやって見ていると、どう見ても、この二人が、同一人物のように思えて仕方がないような気もするのです。
「神のなさることは不思議だな」青年は感心したように言いました。双子の精霊は、ただ黙って笑っていました。

やがて、青年たちは、精霊たちに別れを告げると、神に感謝し、森に敬意を表し、日照界に帰ってゆきました。双子の精霊は、白蛇に姿を変え、二人で声を合わせて、森のさみしさを慰める歌を歌いました。それは、全く同じ人の声が、二人合わさったような見事な斉唱で、実に透き通って美しく、森の風にしみ込んでゆきました。森は魂にしみとおるその歌をとても喜び、悲しみも忘れ、命の底から生きる力がわいてくるような気がしました。

小さな小鳥が、光の中に喜びを歌いに来ました。ところどころで花が星のようにゆれました。夜になると、小さな妖精のような鼠が、木の実を探しに出てきました。
紺青の空の低いところで白い三日の月が笑っていました。こうして、双子の精霊は、新しい管理者として、森に喜んで迎えられたのでした。


 
 
 
 

2025-02-28 04:08:02 | 月の世の物語・余編第二幕

青い地球が、眼下に大きく見えていました。丸い輪郭が大気にうっすらとぼやけて、その風の中を、何か透き通った青い魚のようなものが、忙しく泳ぎまわっているのが見えました。それは地球上でとても大きな霊魂が何らかの活動のために動いているからでした。また、地球上のある一点には、まるで血の塊のような赤い渦が、驚くほど激しく、そして驚くほど静かに咲いており、それは誰の目にも見えぬところで、地球上にある、あってはならないものを、静かに焼いて清めているのでした。

「軌道計算によると、今頃ここら辺にいるはずなんだが」月の世の青年が一人、宇宙空間を飛びながら言いました。「それほど大きなものじゃないからね、探すのも結構大変だ」もう一人、月の世の青年が言いました。「しかし、何でこんなことまでしなきゃいけないんだろう。ぼくたちは地球の観測だけで手いっぱいだというのに」片方が苦々しく言うと、片方の青年がきっぱりと言いました。「その観測のためじゃないか。あれを何とかしないと、観測機の映像が乱れてしょうがないんだ」
「まあ、それはそうなんだけど…」青年は口を突きだして、少し苦い顔をしました。

ふと、片方の青年が、少し離れたところの空間に、小さな石の影のようなものを見つけ、それを指差しながら、大きな声で言いました。「お、あった、あれだ!」「よし!」
彼らが探していたのは、小さな一つの人工衛星でした。宇宙空間に浮かびつつ地球の周りを回っているその衛星を追いかけ、ひとりの青年がその上に飛び乗り、もうひとりの青年は衛星の突起部に手でつかまりました。衛星は小さな鏡のさいころのような形をしていて、蛙の足のような突起が立方体の二面に一つずつついています。

「よーし、大人しくしてくれよ。さあて、目当てのものはどこだ?」人工衛星に乗った青年が、姿勢を整えながら言うと、片手で突起につかまっている青年が、衛星の内部を透視しながら言いました。「箱の内部だ。装置の一部におかしな呪いの文字が書いてある。ずいぶんとひどい邪気がする。怪がやったのだろう」すると、衛星の上に乗った青年も目を光らせ、衛星の内部を透き見ました。「なるほど。こいつのせいだな。最近の映像の乱れは」「それだけじゃないだろう。多分、最近この衛星を、正しくないことに使ったやつがいるんだ。それで邪気が膨らんだんだろう」「うむ。軍事用だからな」

衛星の上に乗った青年は、呪文を唱えて、右手に小さな銅の鏡を出すと、それから光を出し、衛星の中の、呪いの文字を焼きながら、言いました。「この文字は、あれだ、人間がよく使う邪気払いの文字の真似というか、応用だよ。ずいぶんと上手く書き変えてある。確かにこう書けば、人に悪いことをさせて邪気を呼び集めることができる。こんなのが空を飛んでいるということ自体、大変なことだ」「まったくね。こういうことに関しては、怪は本当にうまくやるよ。一応コピーはとっといた。後で文字の効力をなくす魔法をしないといけない。似たような文字が書かれた衛星は、多分一つや二つじゃないだろう」「ああ、いずれ、人工衛星の全部を調べないといけなくなるだろうな」

衛星に乗った青年は、呪いの文字を全部焼き切ると、手から鏡を消し、もう一人の青年と一緒に清めの呪文を唱えて、衛星を清めました。

「よし、大丈夫だ。離すぞ」「OK」

そういうと同時に、二人は人工衛星から離れました。衛星は清めを受けて、何やら生きているもののように、嬉しげにしばしきらめきました。片方の青年が、ついでと言って魔法を行い、その軍事用衛星を悪いことには使えないように、一部封じの魔法をしました。すると、衛星は本当に、何やら嬉しそうにゆれてきらきらと笑っているように見えました。青年がぽつりと言いました。

「ものというものにも、魂が宿るのだな。自分が悪いことに使われるのは、悲しいのだ。やっぱり」「それはそうだ。まちがったことを無理やりやらされることほど、苦しいことはない。あの衛星にも、悲哀があるのだろう」

二人は、紙にコピーをとった文字を見ながら、話しました。
「いやな邪気を発している。あのまま衛星が飛んでいれば、地球上で愚かなことが起こったかもしれない」「やはり浄化しにきてよかったな。実際に見てみなければわからなかった」
「ああ」

「さて、青船に帰るか…」一人の青年が腕時計をいじりながら、青船に仕事が終わったことを連絡しました。もう一人の青年は、青い地球を見下ろしながら、少し悲哀に凍えた短いため息をつきました。その視線の先には、ひとひらの銀の板のような、小さな宇宙ステーションが、浮かんでいるのが見えたのです。

「宇宙開発、か…」

青年が小さな声でつぶやくと、もう一人の青年が、腕時計から目を離して、友人を諌めるように声を強くして言いました。
「それ以上のことを口に出して言うなよ。言葉というものには羽がついているんだ。風に乗ってどこまで行って、誰の耳に入るかわからない。たとえ真実でも、時期が来るまでは決して言ってはいけない」
すると青年は、友人を振り向いて少し悲しげな瞳をして、言いました。
「ああ、わかってる。でもぼくは最近、どうしても、何か言いたくなってしまうんだ。言いはしないけれどね。…たぶん、時代が変わっているからだと思う。この浄化計画は、地球上のあらゆるものに影響を及ぼし始めている…」

時計を見ていた青年は、友人の悲哀に染まった横顔をしばし硬い表情で見ていました。確かに、彼の今言ったことの意味が、自分にも何となくわかるような気がしました。青年は友人と並んで、同じように青い地球を見下ろしました。

「美しいな、この星は。…悲しいほどだ」
時計を見ていた青年は言いました。もう一人の青年は、ただ黙って笑いながら、目を細め、心の中で密かに、地球に愛を送りました。


 
 
 
 

2025-02-27 03:30:53 | 月の世の物語・余編第二幕

「なんですか?ややこしい罪びとができたら、ぼくのとこにもっていけとでもいう道理でもできてるんですか?」竪琴弾きは、日差しのように月の明るい林の中を速足で歩きながら、少し怒ったように言いました。青年がひとり、彼を小走りで追いかけながら、言いました。「いや、そんなことではないですよ。ほら、この前、あなたの担当していた人がひとり、圏外の地獄に落ちてしまったじゃないですか。それで空きができたからだと思うんですけど」
それを聞くと、一瞬、竪琴弾きの目に青い悲哀の影がさしこみました。「…そうですね、多分そのとおりだ」竪琴弾きは、ずれた帽子をなおしつつ、小さな声で言いました。脳裏に、ある女性の面影が浮かび、竪琴弾きは悲しげに目を伏せました。

竪琴弾きの後ろを追いかけている青年が、ふっと息を吐いて、手の中に書類を出しました。それを読みながら、彼は言いました。「たしかに、難しい罪びとですね。これはどうやって導いたらいいんだろう」竪琴弾きも、歩きながら青年から書類を受け取り、それを読みました。「…かなりいい人ですね。この人は、二千年は月の世に来ていない。このたびの人生でも大過なくやり過ごして、ほとんど罪らしい罪は犯していない。なぜ月の世に来たのか、自分でもさっぱりわからないでしょう」
「ええ、普通なら、この手の罪は、浄化することは今の人間には難しいからと、彼らが成長するまで待ってもらえるはずなんですが。なぜか今回、許してもらえず、まっさかさまに月の世の地獄に落ちてきている。原因はお役所でもわからないそうです。上部にお伺いしているところなんだそうですが」青年は腕を組んで歩きながら言いました。そして、ため息とともに付け加えました。「…人間は、何も知らないまま、物事をいとも簡単にやりすぎてしまうからなあ…」

竪琴弾きは書類を手元から消すと、言いました。「さて、どうするべきか。どこまで彼に話したらいいと思います?」「難しいですね。事情を全部説明したら、人間にはまだ教えてはいけないことまで教えなくてはならなくなる」青年は、困ったように頭をかきました。竪琴弾きは木々の間を縫うように歩きながら、木漏れ日のように足元に揺れる月の光を見つつ、考えていました。そうしてしばらく、白い月の光に目を浸していると、ふと、光る小魚のように、何かの直感のようなものが彼の頭の中を横切りました。竪琴弾きは言いました。
「…うん。これはもう、全て話すより仕方ないかもしれない」「すべて?」「ええ、確証はありませんが、神の御計画の流れの中で、何かが変わってきているのではないでしょうか」「ふむ…」「とにかく本人に会って話してみましょう。多分、何かの神の導きがあるでしょう」「そうですね」
ふたりは、無数の光りながら踊るこりすのような明るい月光の木漏れ日を浴びながら、林の中をどんどん進んで行きました。

やがて、月の光はだんだんと暗くなり、林も鬱蒼と濃い森に変わってきました。どこからか水の音が聞こえ、ふたりは、暗い森の中を流れる一筋の川のところまで来ました。青年がポケットから月珠を取り出し、あたりを明るく照らしました。すると、川向うの岸辺に立っている木々に、何千羽もの鴉が、闇を切り取って無数に貼りつけたように、とまっているのが見えました。鴉たちは、月珠の光に驚いて、がやがやと騒ぎだしました。竪琴弾きは竪琴を鳴らし、鴉たちに鎮めの魔法をかけました。すると鴉たちは騒ぐのをやめ、代わりに、ふたりをちらちらとみながら、何かひそひそと話をし始めました。竪琴弾きは鴉の群れる向こう岸の森に向かって、罪びとの名を呼びかけました。しかし答えはありませんでした。竪琴弾きは何度も彼の名を呼び、二十ぺんも呼んだところで、ようやく小さな声が返ってきました。

「…はい、おります。ここです」
すると、黒い森の奥から、青い羽根をした鴉が顔を出し、それはよろよろと飛んで、森の木々の中から向こう岸の川べりに降りて来ました。竪琴弾きは少し安心して言いました。
「やあ、出てきてくれましたか。お会いするのは初めてかな。ぼくが今回からあなたを担当することになったものです。月の世に来るのは、ほんとうに久しぶりでしょう」
竪琴弾きが言うと、青い鴉は、悲しげな顔できょろきょろとあたりを見回し、言いました。
「わ、わかりません。どうしてわたしは、月の世にきたんですか。悪いことなどした覚えはありません。辛い失敗をしたこともありましたが、ちゃんとそれも謝ってお返しもしているはずです」
「ええ、あなたは、人間的にはほとんど、罪らしい罪を犯してはいません。おっしゃるとおり、一度だけ女性とトラブルがありましたが、ちゃんと悔いて、お詫びをしている。本来なら、日照界にいくはずなのですが…」

そこまで言ったところで、竪琴弾きは隣の青年と目を合わせました。青年が片眼を歪めて、苦しそうな顔をしました。空を見ると、群青の空に雪のように白い月がかかっています。川の上を吹く風は何やらねばついて生温かく、どこかに何か、とても汚いものがあるような気配がしました。向こう岸の鴉たちは、青い鴉を見ながら、何か面白げに、くっくっと笑い始めました。鴉たちの笑いは木々をざわめかせ、暗い森が揺れて一斉に、青い鴉を嘲笑し始めました。竪琴弾きは、苦しげに目を閉じました。青い鴉は森や鴉が一斉に自分を責め立てる声を浴びて、石のように凍りついてそこで動けなくなりました。何が何やらさっぱり分からない様子で、青い鴉は助けを求めるように、震えながら竪琴弾きの顔を見上げました。

「どう、どうして、こうなったのです。ここの鴉は、みんなでわたしをいじめるのです。わたしは毎日、鴉にひどい悪口を言われるのです。森も鴉も、みんな、わたしの悪口を言うのです。なぜこのような目に会うのですか?わたしは」

青い鴉は竪琴弾きに訴えました。竪琴弾きは、目を開けてしばし鴉をまっすぐな目で見、少し考え込んだ後、もう一度月を見上げました。そして、心の中で神に祈り、竪琴をぽろんと鳴らしました。すると、弦の一本が、悲鳴を上げるように、ぴんと音をたてて切れました。竪琴弾きは驚いて、竪琴を顔の前に持ち上げて見つめました。切れた弦は引きちぎれた月光の糸のように、風の中を揺れながら、蝿の羽音のようなかすかな音をたてていました。驚いて声を失った竪琴弾きに、青年が小声でささやきました。

「それは、何かのおしるしなのではありませんか。あなたの琴の弦が切れるなど、滅多にないことだ」竪琴弾きは、竪琴を背中に回し、しばし沈黙の中に考えつつ、青い鴉を、見つめました。その間も、向こう岸の鴉や森は、しきりに青い鴉を汚い言葉でののしり、その故に風が汚れて、森の方から、何やら腐ったゴミのような臭いがただよってきました。

竪琴弾きは、やがて何かを決心したかのように深いため息をついて、言いました。
「…そういうことですね。これはたぶん、神よりの何かのおしるしでしょう」竪琴弾きは、身を引き締めて神に導きを願ったあと、真剣なまなざしで青鴉を見ながら、言いました。

「…青鴉さん、あなたは、多分、人間の中で、初めてこれを知る人になるでしょう。人間は、ほとんどみな知らないことですが、地球世界には、人間の知らない、『絶対にやってはいけないこと』ということがあるのです。あなたは、今回の人生で、それをやってしまったのです。普通なら、この罪を浄化するには、人間はまだ若すぎるので、それができるようになるまで、待ってくれるはずなのですが、なぜか今回は待ってくれずに、あなたはここに落ちてしまった。そして罪を償わねばならない」
「ぜ、絶対にやってはいけないこと? それはなんです?」青鴉が羽を震わせながら言いました。
「あなたは生前、狩猟が趣味でしたね」
「ええ、それは好きで、犬をつれて、よく雁やウサギなどを撃ちにいったものでした」
「あなたは一度、その猟銃で、一羽の鴉を、気まぐれに撃ち殺したことがあるでしょう?」
「鴉を?さあ、あったかな。覚えていない。でもその鴉が、なんだというのですか?」

青年が苦しげに目を閉じ、小さく清めの呪文を唱えました。竪琴弾きは少し目を青鴉からそらし、眉間に苦悩のしわを寄せました。竪琴弾きは厳しい目で青鴉に向かって言いました。
「青鴉さん、それが、『絶対にやってはいけないこと』だったのです。鴉という鳥には、時々、特別な鴉がいましてね、その鴉は、絶対に殺してはいけないのです。あなたの殺した鴉は、その絶対に殺してはいけない鴉だったのです。なぜならその鴉は、森の天然システムを管理していた精霊の魂を持っていたからです」

青い鴉はきょとんとした顔をして竪琴弾きを見つめました。何のことやら、さっぱりわからなかったからです。天然システムという言葉さえ、彼は知らなかったのです。竪琴弾きは続けました。
「あなたがその鴉を殺してしまったために、精霊が人類を愛することに疲れ、森を放棄して、地球世界を離れてしまったのです。精霊がいなくなると、森の天然システムはバランスを崩し、次第に荒野と化していきます。木がそこに生えるのをいやがるようになるからです。森は少しずつ消え、そのおかげでたくさんの生命がそこで生きられなくなり、ある特別な種族の鼠が絶滅してしまいます。それは人類の運命にとても重い荷を負わせることにもなりかねないのです。つまり、その鼠がやっていた天然システムでの仕事ができなくなり、地球の天然システムのバランスの一部が崩れ、砂漠化が始まります。つまり…」
「まって、まってください! そんな、そんなことに、なるんですか? 鴉一羽殺しただけで?」
竪琴弾きはしばし青鴉を見つめながら、苦しそうな顔をしました。ちぎれた琴糸の音が自分の身の痛みのように感じられ、彼は瞬間悲哀に溺れそうになりましたが、再び口を開きました。それはまるで、誰か自分とは違うものが自分の口を使ってしゃべっているかのようでありました。

「人間は、なんでも知っているつもりで、地球の秘密について、何も知らないのです。どれだけのたくさんの愛が、地球世界を支え、美しく維持管理しているか、人類が何も知らずにやってしまったことの後始末を、どれだけの間、どれだけたくさんの愛が辛抱強くやっているのか、…全く知らないのです。あなたが殺した鴉の管理していた森は、今、神と数人の若者が管理していますが、もうすぐ、新しい精霊がやってくることになっています。それで、何とか森の砂漠化を防げることは防げるのですが、決して元の森には戻りません。新しい精霊は、前の精霊と同じことはできないからです。鼠も滅びはしませんが、かなり数が減ると予想されています。…以上が、あなたの犯した罪のあらましです。わかりましたか?」

「そ、そんな、そんな、そんな…」青鴉は、ふるふると羽根を震わせながら、岸にへたりこみました。「…そ、そんなこと、ぜんぜん知らなかったんですよ。か、鴉が精霊だなんて…」

竪琴弾きは鴉の動揺の仕方を見て、胸の奥で、やはりまだ教えるのは早すぎたのではないかと、後悔しましたが、彼の口はその彼の気持ちを無視して、勝手に言いました。

「残念ですが、あなたは、その罪を、浄化しなくてはいけません。それは大変な苦労ですが、人間の段階に合わせて簡略な形にはなっています。あなたは今、鴉を殺して森を消滅させるという罪を犯したために、一羽の青い鴉となって、森やほかの鴉の罵倒を浴びていなければなりませんが、森の管理を引き継ぐ精霊が決まったとき、ほかの地獄に移されます。多分そこであなたは、数百年の長い月日を、森林浄化の石となって、ある森の地中深くにじっと埋もれていなければならないのです。そして、人間の無知が起こしたことを日々浄化している人たちと同じ苦しみを味わい、学ばねばならないのです」

青鴉は目を見張り、あっけにとられて、しばし息をすることさえ忘れていました。何か言おうと、くちばしをパクパク動かしましたが、声は何も出ませんでした。

竪琴弾きは岸辺で茫然としている鴉に向かって言いました。
「大丈夫です。神のお導きがありましょう。ぼくも時々、あなたを訪ねて様子を見にゆきますから。ひとりぼっちではないですよ。これも勉強と思って、どうか強い気持ちになってください」
竪琴弾きは言いましたが、青鴉はもう何も聞こうとせず、ふらりと背中を向けたと思うと、よたよたと森の中に帰って行きました。森の奥から、一言、刺のように痛い鴉の罵声が、聞こえました。

「竪琴、直さなければいけませんね」帰り路、明るい林の中を歩きながら、青年が言いました。竪琴弾きは黙ったまま、うなずきました。彼らの背中を照らす白い月の光が、弦の切れた竪琴を憐れむように触れていき、かすかに風に溶ける音を鳴らしました。
「おっと」いきなり青年が言ったので、竪琴弾きは振り向きました。見ると青年の手の中には一枚の黄色い紙が持たれていて、青年がそれを読んで少しびっくりしているのです。

「ああ、やっぱり。わかりましたよ。一部地域の人間はもう、地球天然システムについての勉強を始めなければならなくなったんだ。だから、ある程度自分に力がある人は、払える罪は払わされることになったんだ」竪琴弾きは、青年から黄色い書類を受け取ると、それを読みました。そして、文字の列に目を走らせながら、小さく、ひゅう、と口笛を鳴らしました。

「始まったんですね。でも早すぎやしませんか。まだ人間は知らないことが多すぎる」
「逆ですよ。本当は、遅すぎたくらいなんだ」
「…ええ、そうですね。人間は、地球天然システムに関して、無知に過ぎる。知らないということさえ知らないほど、無知にすぎる。これは、もう少しすると、大変なことになりますね」
「多分。人間は、苦しいことを味わうでしょうね」
「ええ、神の助けもありましょうし、多くの人は、きっと耐えて乗り越えてくれるでしょうが…」

二人が林の中を歩きながら、会話をしている頃、青い鴉は、黒い森と黒い鴉たちに周囲を囲まれて、ひそひそと虫のように耳の中に流れてくる汚いののしりの言葉に、青い翼で耳を覆いながら、必死に耐えていました。


 
 
 

2025-02-26 04:01:58 | 月の世の物語・余編第二幕

「ずいぶんと広いですねえ。…予想以上だ」
一人の日照界の役人が、角ばった高い岩山のてっぺんに立って、眼下に見える風景を見渡しながら、言いました。そこには、はるか向こうの地平線まで、果てもなく続く、広い荒野がありました。石と岩と泥砂ばかりの茶色い大地がどこまでも敷かれ、所々に枯れかけた草むらや、刺だらけのイバラの茂みや、奇妙に歪んだ形のサボテンの行列などがありました。空は灰色で、月は白い薄紙で包んだミルク飴のようでした。

後ろにいた月の世の役人が、書類を手に風景を見回しながら、言いました。
「…ここまで規模が大きくなるとは、わたしたちも思っていませんでした。これは少々、大変なことになりそうだな」
「この地獄が完成するまで、どれくらいかかるのですか?」日照界の役人が振り向きながら尋ねました。すると月の世の役人は書類を、眉を歪めて見ながら、答えました。
「…二年、というところじゃないでしょうか。これも、地球浄化計画の一環なもので、相当、用意周到に、細部にわたるまで丹念に作られるそうです。何せ、ここに落ちる人間たちは、とんでもないことになりますから」

日照界の役人は腕を組んで、眼下の荒野を見渡すと、苦しそうに目を歪めながら、ため息をつき、首を振りました。その足元では、ふと小さな丸い石が鼠のように動き始め、彼らより少し後方の、棒状に立ちあがった奇妙な形の岩の上に登って、そのてっぺんでくるくる回ったかと思うと、ぽう、と鳥のような声をあげました。よく見ると、眼下の荒野でも、石や岩が、鼠や兎や山猫のように、自分の位置を探して、ころころと動きまわっていました。時々、笛のように鳴いて、他の石を呼び、荒野の上に並んで、星座のような印を描くものもありました。

「…むごいな。まあ地獄とはもともとそういうものではありますが…、しかし、これからどういう創造がなされてゆくのだろう。花や木や鳥はここには来ないのだろうか」日照界の役人が声に苦悩を混ぜながら言うと、月の世の役人が苦笑しながら言いました。
「…きてくれればいいですが、彼らは花や木や鳥なんぞ、目もくれないでしょうな。彼らにとっては、いても何の意味もないものだ」
「それは、そうかもしれません…、しかし花や木や鳥は罪びとを必ず愛してくれる。それが救いになることもある…」

月の夜の役人は、右手でさっと胸をこすると、手元の書類を消しました。そして自分の顔をなでながら、ゆっくりと眼下の荒野を見渡すと、かすかに、ああ、と聞こえるため息をついて、言いました。
「日照界では、もうすでに印が現れ始めている人がいるそうですね」
「…ああ、ええ、そうです。ほおや額や、特定の位置に、妙なアザができ始めている。ことこの件に関しては、日照界の男性も自分には関係ないと言ってはいられません。これは何せ、人類の男性すべての、罪ですから」
「ええ、女性を、軽んじすぎてきた。軽んじるなどというものではない。まるで人間とは思わず、自分の欲望を満たすためだけの肉塊のようにさえ扱ってきた。女性の苦しみはあまりにひどかった。そして男性は女性を惨く辱めてきた罪を、今まで一度も払ったこともなく、女性に謝罪したこともない」
「そうです。それです。だからこのたび、人間の男性は神によって試験を課されるのです。女性に、今までやってきたことの全てについて、謝罪することができるかと、人間の男性は神に試される。女に頭を下げ、謝ることができるかと」
「そしてその問いにNOといえば、この地獄に来ることになる。…むごい地獄だ。これを人間の男性が耐えることができるかと言ったら、正直、とても無理ではないでしょうか」
「耐えることができても、三日あたりが限度でしょうね。しかし、どんなに短い人でも、百年はここにいなければならない。そしてその間、彼らは性的飢餓感にもだえ苦しみながら、この荒野の泥にまみれて這いつくばることになる」

日照界の役人と月の世の役人は、顔を見合わせると、黙ってうなずきあい、指を回して一息風を起こすと、空に飛び上がり、岩山から下りて荒野に降り立ちました。そしてしばらくの間、荒野を歩き回り、要所要所を見回しながら、それぞれに、気付いたことを帳面にかきとめたり、キーボードに打ち込んだりしていました。その間も、石や岩はあちこちを転がりながら、所々に奇妙な石の印を作ったり、ピラミッドのような小山を作ったり、珍妙な迷路や複雑な紋章を作ったりしていました。

月の世の役人は、帳面を繰りながら、荒野の中に生えている、小さなイバラの茂みに、片手を差し込みました。鋭い刺が役人の手を傷つけましたが、役人は特に気にもせずに、イバラの茂みを少しかきわけて、中を覗き込みました。そのとき、イバラの根元から、突然小さな泥の塊を投げつけられたかのような、気味の悪い声が聞こえてきたのです。

「思い知るがいいわ」

月の世の役人は驚いて、思わず、汚いものをぬぐうように顔をなで、清めの呪文を唱えました。それは低い女性の声でした。役人は、刺に手を痛く刺されながらも、茂みをかきわけて、イバラの奥の根元の方をのぞき見ました。するとそこに、血のように赤い小さな女の唇があったのです。役人は声をのみ、あわてて帳面を取り、銀のペンを出して呪文を唱え、帳面にその唇の写真を焼き込みました。唇は花弁のようにひらひらと震えながら、思い知るがいい、思い知るがいい、と繰り返しました。月の世の役人がしばし呆然とその唇を見ていると、その声に気付いた日照界の役人がキーボードをかかえて、近寄ってきました。その間も、女の声は、まるでネコ科の猛獣の唸り声のように、繰り返すのです。

「思い知るがいいわ、思い知るがいいわ。どんなに、どんなに苦しかったか、つらかったか。全部、全部、思い知るがいいわ」

近くに寄ってきた日照界の役人も、しばし唇を見詰めながら、それを茫然と聞いていました。やがて唇はにやりと口の端をゆがめ、ははは、と声をあげて嘲笑いはじめました。彼ら二人は、声もないまま顔を見合わせました。そして彼らは再び荒野を歩き始め、あちこちにあるイバラや草の茂みや、奇妙な形のサボテンなどに、手や足で刺激したり、息をふきかけてみたりしました。すると草むらの奥やサボテンの根元に、花の咲くように赤や薄紅やオレンジ色の女の唇が現れ、それらはみな、女のうらみがましい声で、風に毒を振りまくように言うのでした。

「思い知るがいい。思い知るがいい。どんなに、どんなに、恥ずかしかったか、痛かったか、辛かったか、怖かったか。おまえたたちが、わたしたちに、何をしたのか、思い知るがいい」

役人たちは、目をとじ、地に膝をついて、しばし神に祈りを捧げました。そしてふたりとも、得られた情報をきちんと帳面やキーボードに放り込むと、片方は目を閉じて上を見あげほおに涙を一筋流し、片方は両手で顔をおおって、口を噛みしめて嗚咽をあげそうになるのを必死にこらえていました。

「…むごい。それが自らのなしたことの結果とはいえ、男は、性的興奮状態が持続したまま、ここに放り込まれる。そして長い月日をこの荒野で女性の声にののしられながら、性的飢餓感に苦悶していなければならない」月の夜の役人が言いました。「どう考えても、人間の男には耐えられないでしょう。七日もてばいいほうだ。必ず、死ぬか、狂うか、してしまう」日照界の役人が答えました。すると月の世の役人は言いました。「いや、そこは、修羅地獄と同じで、どうやっても死ねないようにされるらしいです。それに、死んでも性的飢餓感からは逃れられない。一層苦しいことになる」「女性を軽んじて、辱め続け、一切の負債を払わずにきた結果がこれか」「いや、正確には、結果の一つです。男の苦しみは、ほかにもまだある」

日照界の役人は、キーボードをカードに戻してポケットにしまうと、こめかみをもみながら、しばし考え込み、言いました。
「これは、男性たちに、教えておいたほうがいいでしょう。試験がどういう形で彼らにふりかかってくるかは、わたしたちに知ることはできはないが、もし試験に失敗したら、どういうところに落ちるかは、教えておいたほうがいい」
「ええ、わたしも、そうは思うんですが…。気になるのはこの規模だ。こんな広い地獄は月の世にも滅多にない。一体どれだけの男が、ここに落ちるのでしょう」
「確かに、広すぎる。実際にこの地獄が機能し始めたら、どういうことになるか、予測もできない」

そのとき、ふと、月の世の役人が目をあげて月を見、「おお」と声をあげました。
「…ごらんなさい。月が、衣を脱ぎますよ」
「ほお?」
見てみると、さっきまで薄紙をまとっていたようだった月が、その白い薄紙を風にさらりと脱がされ、その奥にある本当の色を見せたのです。それを見た日照界の役人は、驚いて思わず顔を背け、小さく呪文を唱えて目を清めたあと、急いで自分の記憶の中からその月の映像を消しました。月の夜の役人がねぎらうように云いました。
「どうしました。気分を悪くされましたか」
「いや、少し」
「わたしたちは慣れているので、それほどのショックは受けないが、確かに、気持ちのいいものではありませんね」
言いながら、月の世の役人は、もう一度月を見上げました。その月は、ほんのりと薄桃色をしていて、まるで女性のやわ肌のようになまめかしく、やわらかく見えたのです。そして風には女の肌の匂やかな香りがかすかに混ざり、まるで薄絹のようにふわりと、なまあたたかく吹くのでした。月の世の役人がその月を見ながら、帳面に何事かを記すと、月はやがて、もう一度、白い薄紙をさらりと身にまとい、元のミルク飴のような姿に戻りました。風もまた、元の荒野の風に戻りました。

荒野を並んで歩きながら、役人たちは語り合いました。
「この地獄が完成するまで、二年あるとおっしゃいましたね」日照界の役人が言うと、月の世の役人が「ええ」と答えました。日照界の役人は、月を背に荒野をまっすぐに進みながら言いました。「その間に、男性たちに、できるだけ女性に謝罪をするように、教え込んでおきましょう。でないと、ここはむごすぎる」
月の世の役人が彼と肩を並べて歩きながら言いました。「そうですね。我々にできる努力はしておいた方がいいでしょう。わたしも思います。男があれだけのことを女にしておいて、一言も謝らないのは、人間と言えません。男は、言わねばならない。やらねばならない」
「ええ、そのとおり」

日照界の役人が、口から石を吐くように厳しくそう言った時、ふと、彼の足が、小さな草むらを踏みました。するとまた、草むらの奥に花弁のように小さな薄紅の唇が咲き、微笑みの形をして、少女のような声で、冷たく言うのでした。

「絶対に、許さないわ」